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理不尽な人間 —まど・みちおの詩「きょうも天気」について—

 今回は、詩人まど・みちおの「きょうも天気」という詩について見ていきます。


   きょうも天気 まど・みちお

  花をうえて
  虫をとる

  猫を飼って
  魚(うお)をあたえる

  Aのいのちを養い
  Bのいのちを奪うのか

  この老いぼれた
  Cのいのちの慰みに

  きのうも天気
  きょうも天気


 この詩の中で最も解釈が難しいのは、末尾の二行の、「きのうも天気/きょうも天気」という箇所です。この二行の意味を読み解くために、そこに行き着くまでの内容について考察していきましょう。
 植物を植えて、その葉に付いた虫を駆除すること、また、猫を飼って、その餌として魚を用意すること。これらは、どれも日常の穏やかさを反映しているとも言える、ごくありふれた行為です。しかし、語り手は、人間が行うこれらの行為に、ただならぬ矛盾が潜んでいることを喝破しています。

  Aのいのちを養い
  Bのいのちを奪うのか

  この老いぼれた
  Cのいのちの慰みに

 ここで、語り手は、「花」や「猫」などの、「人間によって養われる命」の群れをAという文字で表していて、また、「虫」や「魚」などの、「人間によって損なわれる命」の群れをBという文字で表しています。わざわざAやBなどの文字を使うのは、「人間によって養われる命」も「人間によって奪われる命」も、実は同じ重さの命であるということを可視化するためでしょう。このように、AもBも、同じ価値を持った命なのに、なぜ人間はそれを選別するのか、という主張が、ここにはまず、込められています。
 さらに、そのAやBの命を選別する人間も、実はAやBと同じ重さのCという命にすぎないのだ、というのが、語り手の主張の中の、もう一つ重要なポイントです。Cという、同じ価値を持つ命にすぎないのに、人間だけがその存在をのさばらせて、自分たちの暇を潰すための戯れとして、Aの命とBの命を選別している。このような人間の所行に、語り手は、深く憤っているのです。
 さて、ここまで、この詩は、人間のごくありふれた行為に対して、実は大きな矛盾が潜んでいることを指摘するものでした。一見、これで既に、話は完結しているようにも感じられますが、作品の内容はまだ続きます。

  きのうも天気
  きょうも天気

 この二行は、一体、何を意味しているのでしょうか。
 ここまで、この作品は、人間が、矛盾を抱えた理不尽な生き物であることを指摘してきました。この指摘は、これがこの詩の主題なのではないかと考えてよいほど、明確なテーマとしての要素を含んでいるのでした。ということは、もしかすると、この内容に続く末尾の二行は、この主題を強調する要素として機能している部分なのではないかと推測されます。「人間は矛盾を抱えた生き物である」という主題を強調する内容として、末尾の二行は解釈され得るのではないか、そう考えられるのです。
 では、具体的には、末尾の二行は、主題をどのように強調しているのでしょうか。その例として考えられるのは、人間とは対照的に、矛盾を何一つ持っていない存在が仮にいるとして、その存在がここで登場する、というような展開です。このような「矛盾を持たない存在」を登場させれば、「矛盾を抱えた人間」の醜さが露わになって、理不尽な存在としての人間像が、より強調されるはずです。
 そう考えると、たしかに、「きのうも天気/きょうも天気」という二行からは、そのような「矛盾を持たない存在」というものが、うっすら透けて見えるような気がしてきます。その「矛盾を持たない存在」とは、もしかしたら「太陽」ではないか、と思えてくるのです。なぜなら、「きのうも天気/きょうも天気」という二行は、

  花をうえて
  虫をとる

  猫を飼って
  魚(うお)をあたえる

 という二つの連と対応しているからです。この二つの連を通して、人間は、理不尽な行為を二つ行っています。一つ目は、「花をうえて/虫をとる」こと、二つ目は、「猫を飼って/魚(うお)を与える」ことです。このように、人間が理不尽な行為を二つ働いているのに対し、「太陽」は、「矛盾を含まない行動」を二つ働いています。一つ目は、「きのうも天気」であること、二つ目は、「きょうも天気」であることです。「天気」という表現が、この場合、「良い天気」、すなわち晴れを意味していることは言うまでもありません。その上で、「太陽」は、作品前半で登場した、Aの命も、Bの命も、さらには醜い存在であるCの命までも、全て平等に照らし出していると、語り手は主張しているのです。その意味で、まずは、「矛盾を持たない存在」の正体として、「太陽」が浮上してきます。
 しかし、このように、「矛盾を持たない存在」の正体を「太陽」に決定することは、本当に適切なのでしょうか。
 なぜこのような疑問が湧いてくるのかというと、語り手がいる場所や時刻では、たまたま、「きのうも天気/きょうも天気」だっただけだという指摘ができるからです。実際、「太陽」は、雲に阻まれることにより、いつもいつも万物を平等に照らし出すわけにはいかない事情があります。ということは、人間とは対照的な「矛盾を持たない存在」として登場するのは、「太陽」ではない、ということになります。では、「矛盾を持たない存在」の真の正体は、一体何なのでしょうか。
 それは、「神(造物主)」ではないかと考えられます。なぜなら、「造物主」は、Aの命もBの命も、Cの命も差別してはいないからです。そのように、この世の生き物に対し、遍く愛情を注ぐ存在として、語り手は「造物主」を想定しているように思われます。その、「造物主」の生き物への平等な愛情の証しとして、語り手は、「太陽」の光を例に取って挙げているのではないでしょうか。つまり、「太陽」の光というのは、「造物主」の「矛盾のなさ」を読者に示すため、便宜的に登場させた要素にすぎないのではないか、という可能性が浮上してくるのです。語り手は、降り注ぐ「太陽」の光を、「造物主」の万遍ない愛情の象徴として使用しているのではないか、というわけです。
 このように、この詩は、人間が「矛盾に満ちた存在」であることをまず指摘し、その次に、「造物主」が、人間とは対照的に、「矛盾を持たない存在」であることを示しています。語り手は、人間の理不尽さを強調するために、あえて「造物主」の存在を引き合いに出しているのでした。

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