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<際>に立つ作品 —石垣りんの詩「水槽」について—

 今回は、詩人・石垣りんの「水槽」という詩について見ていきます。


   水槽 石垣りん

  熱帯魚が死んだ。
  白いちいさい腹をかえして
  沈んでいった。

  仲間はつと寄ってきて
  口先でつついた。
  表情ひとつ変えないで。

  もう一匹が近づいてつつく。
  長い時間をかけて
  食う。

  これは善だ、
  これ以上に善があるなら……
  魚は水面まで上がってきて、いった。
  いってみろよ。


 石垣りんの詩篇は、そのほとんど全ての作品が、凄みを湛えていて、恐ろしいという印象を読む者に与えます。今回は、彼女の詩はなぜ「恐ろしい」のか、その理由に迫っていきたいと思います。
 その理由の一つは、彼女の詩は、常に何らかの「際」(きわ)に立っているから、というものです。例えば、この「水槽」という詩で、語り手は、魚が仲間の死骸を食らって生きるという状況を描き出しながら、「これは善だ、/これ以上に善があるなら」「いってみろよ」と魚の口を借りて読者に迫ります。私たちは、仲間の死骸を食べることを、理屈の上でも、肌感覚でも、「悪」であると考えます。既存の道徳では、それは「悪」であるとされているからです。しかし、語り手は、他の命を犠牲にして成り立っている命というものの本質を踏まえた上で、「これ以上の善があるのか」と問いかけます。このように、仲間の死骸を食べることを「悪」であるとする既存の道徳には「穴」があることを、作者は明らかにしています。その上で、そのような道徳を信じて疑いもしない私たちの「甘さ」を作者は鋭く追及しているのです。そこに、容赦や妥協はありません。
 ここで、「他の命を食らって生きる」ことの是非を問う、という問題設定は、一つの「際」に立っているものです。なぜならば、この問題は、私たちがその上に拠って立っている道徳規範を根底から揺るがしかねないものであり、そのために、私たちは普段、この命題から目を逸らして生きているからです。そのような命題を改めて問うことは、まさに一つの「際」を攻めていると言えるのです。そのため、この詩は恐ろしいほどの凄みを湛えているのですが、このことは、石垣りんの他の詩にも当てはまります。例えば、彼女は、「シジミ」という詩においても、「自分は何者からも食われて(搾取されて)などいない」という私たちの考えを、容赦なく覆しています。
 このように、彼女の詩は、どれもギリギリの「際」に立っているという点で、凄みを具えていると言えるでしょう。しかし、彼女の詩が、読者に「恐ろしい」という印象を与える理由は、それだけではありません。そこには、表現上の理由もあります。石垣りんの詩は、「際」に立ってあらゆる事柄を問い質すというその内容に相応しい、読み手に迫ってくるような表現によって構成されています。例えば、「水槽」ならば、

  これは善だ、
  これ以上に善があるなら……
  魚は水面まで上がってきて、いった。
  いってみろよ。

 の、「いってみろよ。」という箇所を読んだ瞬間、読者は思わずドキリとしてしまいます。この恐ろしい印象を与える一行を創り出すために、作者は一つの工夫をしています。それは、「これ以上に善があるなら……」の後には、「魚は水面まで上がってきて、いった。」という説明が挿入されていて、次の言葉への「溜め」があるという工夫です。つまり、次の「いってみろよ」は即座には語られないのです。この「溜め」が、次の言葉への期待を高まらせて、「いってみろよ」をより効果的に響かせています。このように、彼女の作品は、凄みのある箇所を引き立たせるように、ドラマティックに構成されています。このように、彼女の作品は、その内容だけでなく、表現も、恐ろしい印象を与えるものが多いと言えます。
 さて、ここまで見てきたように、石垣りんの詩には、「恐ろしい」という印象を湛えたものが多いと分かります。その「恐ろしさ」は、「際」に立って私たちの在りようを根底から見つめ直すという内容や、ドラマテックな展開によって引き立てられる凄みのある表現に、起因していると言えます。

 

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