言葉の二つの機能 —小池昌代の詩「反射光」について—
今回は、詩人・小池昌代の「反射光」という詩について見ていきます。
反射光 小池昌代
五月の光線が
きりん缶ビールの
つめたいアルミにくだかれている
細魚に似たかんじの
切れ長の目の男の子を産んだ妹
「魚じ満(うおじま)」にも五月
店頭に並んださかなの目が
まちのみどりをうつし始める
たとえば、こんな日
静かに席順が決められている
山奥の小さな小学校
ひんやりした土のなかから
新品のコクヨのノートが掘り出される
お昼をまわる頃
生徒たちの筆圧も弱まって
とうさんが
かあさんが
ねえさんが
おとうとが
と、さかんに話し始めるこどももいる
山雨のあと
栞という字に
初めて惹きつけられている少女
かかとのうつくしい
この詩を一読した際には、私たちは違和感を感じてしまいます。なぜなら、この詩は、ビールの缶の話に始まり、語り手の妹の話、魚屋の魚の話と展開していくなど、まるで脈絡が無いからです。その後も、小学校の話になり、土から掘り出されたノート、集中力を失ったこどもたち、栞という字に惹きつけられる少女について描写し、作品は幕を閉じます(「生徒たちの筆圧も弱まって」という表現は、生徒たちが集中力を失ったことを意味しています)。この脈絡の無さから、私たちはこの詩を読み解くことは到底不可能であると思ってしまいます。
しかし、そのように、脈絡の無さを感じさせるこの詩ですが、その中のある箇所を見た時、私たちの違和感は最大限に大きくなります。それは、
細魚に似たかんじの
切れ長の目の男の子を産んだ妹
「魚じ満(うおじま)」にも五月
店頭に並んださかなの目が
まちのみどりをうつし始める
という箇所です。「細魚に似たかんじの/切れ長の目の男の子」という表現から、私たちは、目の細いこどもをイメージします。そして、次の連では、魚屋に並んでいる魚の丸い目と、緑に溢れる街の様子を想像します。この二つの連の内容には、何の繋がりもないはずであるのに、作中には、「『魚じ満(うおじま)』にも」とあり、「同じように」という意味の「も」という助詞が使われています。この箇所を目にしたと時、私たちの感じる違和感は最大限に大きくなります。なぜ、ここでは「も」という助詞が使われているのでしょうか。
それについては、作中の表現の字面を見ると分かります。第一連には、「五月」という語が登場し、第二連には、「細魚」、「目」という語が登場します。それらを受けて、第三連には、「五月」、「さかな」、「目」という表現が登場しているのです。つまり、言葉が喚起する映像だけをイメージしていると、全く脈絡のない映像がたちあらわれてくるため、この詩はまるで脈絡のないことを語る作品だということになります。しかし、この詩に登場する言葉の字面を見ると、異なる連同士において、互いに意味の繋がりを持っていることが分かります。そのため、第三連では、「も」という助詞が使われているのです。
この、字面の繋がりという現象は、その後の内容にも当てはまります。第四連では、「新品のコクヨのノート」について触れられ、第五連では、昼を過ぎたために集中力を失った子供たちが登場します。これらは、映像で想像すると、「小学校」にまつわる描写という以外、何の繋がりも無いと言えます。しかし、表現に注目すると、「生徒たちの筆圧も弱まって」という言葉は、「ノート」と関連のある言葉であると言えます。「ノート」と「筆圧」は、どちらも、私たちが字を書く場面で登場する言葉であり、そう考えるとこの二つは繋がっていると感じられるからです。そうすると、第六連の「栞という字に/初めて惹きつけられている少女」という表現の、「栞という字」というのも、繋がりがあるように思えてきます。このように、この詩の内容は、一見、まるで脈絡が無いように感じられます。そう思えてしまうのは、私たち読者が、詩に連なる言葉から、一つ一つ、映像をイメージする時です。しかし、そうではなく、字面に注目した際には、この詩は、ある繋がりを持っていることに気づくことができるのです。
しかし、そのように、字面に注目した読みをすると、また別の箇所に、脈絡を見出せなくなります。それは、第三連と第四連の間です。ここは、魚屋の話から、小学校の話へと切り替わっており、「魚」や「目」という、字面の一連の繋がりと、「ノート」、「筆圧」、「字」という繋がりの、二つに分断されています。そのように、字面に注目すると、この箇所には脈絡を見出せなくなりますが、再び映像をイメージしながら読むと、この箇所には脈絡があることが分かります。すなわち、「五月」の風景をイメージした時に、「まち」には魚屋があり、「山奥」には小学校がある、という景色が浮かんできます。この二つの場所を、「五月」という一つの時間が、繋いでいるのです。
このように、この詩は、作中の表現が喚起している映像をイメージする読み方と、表現の字面に注目する読み方の、二つを同時に使用しなければ、繋がりが分からない作品であると言えます。このことは、この詩が、言葉の持つ二つの側面を顕在化させる作品であることを示唆しています。二つの側面とはつまり、文章レベルの大きなまとまりで一つの映像を喚起するという機能と、単語レベルの小さなまとまりで意味を感じさせるという機能の、二つです。このように、言葉の持つ二つの機能に読者の意識を傾けさせるというのが、この詩においてなされている試みではないでしょうか。
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