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少しの差が運命を分ける —小池昌代の詩「蜜月」について—

 今回は、詩人・小池昌代の「蜜月」という詩について見ていきます。


   蜜月 小池昌代

  この月をしぼって!

  あまい香気がたっている
  下町の夜のくだもの屋が美しい
  午後十時の百果園

  ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ
  いつ、む、なな、や
  姫りんごを買っていく小さな老女
     (三隣亡の夜……)

  濃厚な月光(つきびかり)を
  まがった腰にうけて
  もうひとりの老女
  は、山峡にかかった仮橋をわたる
     (ゆうらり、と)

  分水嶺をくだっていく雨音よ


 この詩の第一行目には、「この月をしぼって!」という会話があります。第四連を見ると、「濃厚な月光(つきびかり)」という表現があり、「月」という語が重なっていることから、この二つの箇所には何らかの関連があるのではないかと推測されます。

 そこで、第四連の内容を見てみると、

  濃厚な月光(つきびかり)を
  まがった腰にうけて
  もうひとりの老女
  は、山峡にかかった仮橋をわたる
     (ゆうらり、と)

 とあり、「もうひとりの老女」なる人物が、山峡の仮橋を渡るところが描写されています。
 ここで、一つのストーリーが想像として浮かびます。それは、例えば自分の孫に、「この月をしぼって!」とねだられた祖母が、孫の願いを叶えるために、山峡の橋を渡って、実際に「月をしぼ(り)」に行くというストーリーです。その祖母こそが、この詩に登場する「もうひとりの老女」なのではないでしょうか。つまり、この「もうひとりの老女」は、橋から手を伸ばして、月をしぼろうという、危険かつ不可能な試みをしているわけです。
 ところで、この詩には、「もうひとりの老女」以外にも、老婆が登場します。それは、「小さな老女」と形容される人物です。作中では、この「小さな老女」が先に登場するため、月をしぼろうとした老女の方は、「もうひとりの老女」と呼ばれているわけです。

  あまい香気がたっている
  下町の夜のくだもの屋が美しい
  午後十時の百果園

  ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ
  いつ、む、なな、や
  姫りんごを買っていく小さな老女
     (三隣亡の夜……)

 この、くだもの屋で姫りんごを八つも買っていった「小さな老女」の存在は、先ほどの「もうひとりの老女」のエピソードと、どのように繋がるのでしょうか。それについては、次のように考えられます。
 「この月をしぼって!」という会話は、作中の第一行目に登場し、その後に、りんごを買う「小さな老女」の話と、月をしぼろうとする「もうひとりの老女」の話が続きます。したがって、「この月をしぼって!」は、この二人の老女の話のどちらにも掛かっていると考えられるのです。つまり、「小さな老女」のりんごを買うという行動も、自分の孫などに「この月をしぼって!」と頼まれた結果であると推測されます。月とりんごは形が似ていますし、「濃厚な」と形容される月の光と、くだものの「あまい香気」も、互いに似通っています。そのため、この「小さな老女」は、「月をしぼってほしい」という孫の無理難題を、そのまま叶えようとするのではなく、姫りんごを八つも買っていくことで、応えようとしたのです。
 また、作中では、りんごを買った「小さな老女」についての描写の中に、「三隣亡の夜……」という記述があります。「三隣亡」とは、暦の上での忌みの日の一つで、この日に建築すれば火難を受け、隣三軒を滅ぼすとして忌まれる日です(『広辞苑』)。おそらく、「小さな老女」は、「月をしぼってくる」と孫に言って家を出たのですが、それは到底不可能だということで、その夜は三隣亡という忌日の夜であるということも口実にして、危ないことはせず、姫りんご八つで孫に許してもらおうと考えたのでしょう。
 このように、この詩には、それぞれ自分の孫から「月をしぼってくれ」とねだられた二人の老女が登場します。それくらい、その夜の月は美しかったのです。まるで蜜をしたたらせているかのように濃厚な輝きを放つ月ということで、タイトルは「蜜月」になっています。「蜜月」とは、本来、結婚した当月のことを意味しますが、この詩ではその意味はありません。また、「あまい香気がたっている/下町の夜のくだもの屋」という表現は、くだもの(具体的には姫りんご)がこの蜜のような月と似通った存在であることを表していて、姫りんごを買うという老女の行為が、月をしぼることの代わりになり得るということを示しています。
 さて、孫の願いをそのまま叶えようとしなかったものの、姫りんごを八つも買って帰った「小さな老女」と、月をしぼろうと実際に橋を渡った「もうひとりの老女」。この二人の運命がその後大きく分かれたことが、最終行を読むと分かります。

 分水嶺をくだっていく雨音よ

 これが最終行ですが、「分水嶺」とは、水が二つ以上の水系に分かれる地点になっている山脈のことで、物事の成り行きが決まる分かれ目のことも意味します。したがって、この「分水嶺をくだっていく雨音」という表現は、この二人の老女の運命が分かれることを意味しているのではないかと考えられます。もっと言うならば、姫りんごで孫を納得させようとした老女はそのまま生き、月をしぼろうと仮橋を渡った老女の方は,橋から落ちて死んでしまうという結果が、想像されます。作中の「ゆうらり、と」という表現はいかにも危なげで、月をしぼろうとした老女が橋から落ちるという結末を裏付けています。つまり、この詩は、どちらも同じように孫に「月をしぼってくれ」と頼まれた二人の老女が、その後の行動の違いにより、異なる運命を辿る、というストーリーを描いた物語として読めるのです。
 しかし、この二人の運命を分けたものとは、一体何だったのでしょうか。もちろん、月を実際にしぼろうと仮橋から手を伸ばすなど、愚かで危険な行為であることは明白であり、だから「もうひとりの老女」が死んだのは当たり前であると言うこともできます。
 しかし、老女をそのような愚かな行為に走らせた原因は、孫への盲目的な愛でした。彼女は、孫への愛に盲いるあまり、他のことは目に入らなくなってしまったのです。
 そして、りんごを八つも買って帰った老女の、自分の孫に対する愛情も、それより少なかったとは思えません。月を実際にしぼろうとする老女と、姫りんごを八つも買って帰る老女。この二人は、どちらも孫のことを深く愛していたと言えます。ただその愛情の質が、若干異なっていただけなのです。月をしぼろうとした老女の方は、盲目的な愛情を、りんごを八つも買った老女は、自らの機知を使って孫を喜ばせようという愛情を、それぞれ持っていました。このように、二人の抱く愛情の、ほんのわずかの性質の違いが、最終的に、大きく異なる結果を生んでしまったのです。
 このように、この詩では、少しの違いが、運命を大きく分けるという事象を描いています。そして、そのような事象は、私たちの現実にありふれています。むしろ、この法則が、私たちの現実そのものを支配していると言っても良いかもしれません。少しの差が大きく運命を分ける——、このような理不尽な法則に支配される、私たちの日常に、作者は思いを馳せています。

 

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