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女性の領域 —新川和江の詩「路上」について—

 今回は、詩人・新川和江の「路上」という詩について見ていきます。


   路上 新川和江

  おとうふを買いに行って
  はからずも 母に会った
  おとうふを買いに行かなければ
  会えないおかあさんだった
  陽がやや傾きかけた時刻
  容れものを持って
  西のおとうふ屋へ
  おとうふを買いに行かなければ

  ——わたしも 会いたいわ
  この頃すこし老けた妹が
  しおらしいことをいうので
  ある午後誘って
  おとうふを買いに行く
  水を張ったボールに
  一丁ずつ入れて貰い
  西陽を背にうけ 帰ってくる

  路上に 母がいる
  アルマイトのボールを抱え
  おとうふを買いに行った日の母が
  そろりそろり 歩いている
  ——ほんとうだ
    まあ おかあさん——
  それに今日は 二人も並んで
  母が歩いている


 詩人の井坂洋子は、『詩のレッスン』という本(小学館、1996年、入沢康夫、三木卓、井坂洋子、平出隆の共著)で、新川和江の「路上」について、次のように解釈しています。

  「路上」は、時の怪とも言うべき詩だ。亡き母がおとうふを買っているのを目撃する。アルマイトのボールを抱えて、そろりそろりと歩いている母。魂となってまでも、おとうふを買いにでるというのが、妙に現実感があっておかしく、せつない。平易なことばで書かれ、難しいところがひとつもないようだが、最後の二行はさまざまに読み取れる。二人並んで歩く母とは、姉妹の思いの中の別々の母親像を意味しているのか。それとも、亡き母と生き写しの姉妹が並んでおとうふを買いに行くということであるのか。「まあ おかあさん」と声を挙げる者もまた、子をもつ母。西陽を背景に、延々とつながる母系の“鎖”といったものを感じさせられる。

 この井坂の解釈は、その全体の主旨を見るならば、的を射た読みであると言えます。たしかに、この「路上」という詩は、「時の怪」を題材として扱い、「母系の“鎖”」をテーマとしているからです。にも拘わらず、井坂は、この詩にまつわるある単純な見落としをしています。その見落としは、新川和江がこの詩の中に仕掛けた一つの“謎”に関するものです。
 この詩の中では、一つの“謎かけ”がなされています。「おとうふ」を買ったら、「母」に出会った。それは、「おとうふ」を買わなければ、会えない「母」だった。そして、妹と二人でもう一度会いにいったら、今度は母が「二人も並んで」いる、という。
 一体、語り手とその妹が出会った「母」とは、何でしょうか。これが、この詩の中で提示される“謎”です。それについて、井坂洋子は、亡き母の「魂」とか、「亡き母と生き写しの姉妹」などという解答をしています。しかし、ここでは、それとは異なる読みを試みたいのです。それはすなわち、姉妹が出会った「母」の正体は、自分たちの“影法師”である、という読みです。
 作中では、西陽についての描写が強調されています。その上で、「路上に 母がいる」とも記されています。この、「路上に」「いる」という記述を読む際には、地面の上に立っている人物を想像するのではなくて、地面の上に映っている影法師を想像するべきではないでしょうか。
 「母」の正体が語り手たちの影であると考える根拠は、他にもあります。語り手が一人で「おとうふ」を買いに行っても、妹と二人で買いに行っても、「母」は同じように現れます。これは、実際には様々な姿を持つ人間を、どれもほぼ同じ形に、かつ一様に黒い姿に映し出す、“影”という現象を描いていると読まなければ、辻褄が合いません。夕食の準備のために豆腐屋へ出かけるのは、たいてい夕方であり、いつも作中の時間とほとんど同じ時刻であると言えます。そのため、生前の母の足下に伸びていた影も、今の姉妹のそれと、同じような長さだったのでしょう。つまり、姉妹は、かつて母が「おとうふ」を買いに行くのに附いていった時に見た母の影と、時を経て、再会しているような気持になったのです。
 しかし、ここで、「それならば、姉妹以外の人が豆腐を買いに行ったとしても、同じ形の影が映るため、この二人の『母』は現れるのではないか。究極的には、例えば、豆腐を買いに行くのが男性だったとしても、同じ結果になるのではないか」という考えを持つ人もいるかもしれません。たしかに、「母」の正体が影法師であるという説は、一見、その点が弱いようにも思えます。ですが、それについては、次のような説明を施すことができます。
 それは、豆腐屋に「おとうふ」を買いに行くという行為自体、女性の営みであるということです。ここで、先ほど引用した井坂洋子の指摘に戻りましょう。井坂は「母系の“鎖”」と言っていますが、それはまさにその通りで、母を見て育った娘が母になり、そのまた娘もやがて母になる、という、連綿と続く“鎖”がここでは描かれています(正確に言えば、この詩では、姉妹が結婚して子を産み、母となっているかまでは書かれていません。しかし、家事という“女性の領域”に属するものを受け継いでいく存在を、ここでは、“母”と呼びたいと思います)。その“鎖”の存在を象徴している具体物が、影法師なのではないでしょうか。仮に、作中の姉妹とは異なる家に生まれた女性が「おとうふ」を買いに行ったとしても、自分自身の影法師に、自分の母親の面影を発見することができるでしょう。
 この詩の姉妹は、自分たちの影法師を見て、「おかあさん」に会えた、と無邪気に喜んでいます。しかし、この作品が詩として昇華しているのは、彼女たちが発見したものに、「母系の“鎖”」の象徴としての意味を見出している、作者の意図があるからに他なりません。

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