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男女の関係性の底にあるもの —石垣りんの詩「夏の朝」について—

 今回は、詩人・石垣りんの「夏の朝」という詩について見ていきます。


   夏の朝

  市場で
  一山のトマトを買ってきた。

  畑でもぎとられ
  すでに枝をはなれた
  まるごとひとつの青い実が
  一日、二日と熟れてゆき
  赤くなり。

  さあ
  きょうは食べごろと
  手のひらにのせれば
  その重たさが
  いじらしい夏の朝だ。

  私の足が母をけって
  ひとりだちした誕生の日から
  約束されたのも
  熟れることだった。
  熟れて
  食べられることだった。


 この詩の語り手である「私」とは、一人の女性であると考えられます。末尾に綴られている、「熟れて/食べられること」こそが、誕生の日から自分の運命として約束された事柄だったという内容から、それが分かります。というのも、「熟れて/食べられる」というのは、女性として成熟し、男性に見初められることを表しているからです。要するに、この詩は、男性に見初められることを待つだけという、世の中の女性の生き方に異を唱える作品なのです。その際に、「食べられる」という、露悪的とも取れる表現をあえて用いることで、女性という存在の辿る運命が、本当は悲惨なものだということを、私たち読者に強く訴えかけています。このように、この作品は、フェミニズム的な主張を内包する作品なのです。
 ところで、今触れた露悪的な表現については、「何もそんなに皮肉な見方をしなくても」と思う人もいるかもしれません。しかし、一見「皮肉な見方」に思える箇所こそが、この詩が詩であるために欠かせない要素なのだということを、ここで指摘したいと思います。
 どういうことか、以下に説明しましょう。この詩は、まず、「トマト」にまつわる描写から、話を始めています。語り手が買ってきた「トマト」が、色づき、「いじらしい」重さになり、食べ頃を迎えます。ここまでは、普通の話です。しかし、そこで突然、物語は暗転します。この「トマト」は、まさしく自分の姿ではなかろうか。なぜなら、自分自身のこの肉体も、これまでに成熟を遂げてきたが、それは畢竟、男性に「食べられる」ためという、ただ一つの目的に収斂していくものだったのではないか。—このような真理に語り手は目覚めます。女性というのは、男性に「食べられる」運命にあり、そしてそのこと自体に自分たちも気づかない、哀しい生き物なのではないか、語り手がこのように悟ったところで、この詩は幕を閉じます。
 作品は、男性と女性の関係性が、すなわち、「食べる/食べられる」の関係性であると、見事に見抜いています。そのような関係性に仕立て上げているのは、男性の方が女性よりも力を握っているという、この詩が掲載された昭和当時の社会構造であり、だからこの詩はフェミニズムの作品であると言えます。いずれにせよ、「食べられる」という語により、男女の関係性を喝破しているため、この表現はこの詩になくてはならないものなのです。


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