流転する存在としての人間 —小池昌代の詩「流離」について—
今回は、詩人・小池昌代の「流離」という詩について見ていきます。
流離 小池昌代
海の庭には石がおかれ
東洋の音階が流れている
視力をなくしたこざかな
やどかり
水草のきしみ
その他のうお、はるのうお
つめたい異土に収集された
遺失物たちにかがやきが加わる
属しているもの
属していないもの
ふかく、とつぜん、和解するように
水船は沈むだろう
ことごとく難破して!
陸の女が願うとき
水分が移る
ひざがしらのうしろへ
水底では、石だけが耳をもっている
乾いた野では、ひとがひとを捨てた
こいびとの名も忘れてしまった
この詩の内容は、一見してよく意味が分かりません。ですが、その最終連を見ると、この詩が扱っている題材の一部が見えてきます。最終連には、「乾いた野では、ひとがひとを捨てた/こいびとの名も忘れてしまった」とあります。ここに、「こいびと」とか「捨てる」という語が登場しているため、この詩が描き出す題材の一つとして、失恋という要素が浮かび上がります。ここで、問題になるのは、「こいびとの名も忘れてしまった」と語っている人物が、「こいびと」を捨てた側なのか、それとも「こいびと」によって捨てられた側なのか、という事柄です。これについては、第五連を見ると分かります。
ことごとく難破して!
陸の女が願うとき
水分が移る
ひざがしらのうしろへ
この、「水分」が「ひざがしらのうしろ」へ移る、というのは、一体どういう意味でしょうか。そもそも、「水分」はどこから移ってきたものなのでしょうか。身体から出る「水分」として連想されるものに、例えば“涙”があります。なので、この箇所については、目から出た「水分」(つまり“涙”)が「ひざがしらのうしろ」へ移った、と考えてはどうでしょうか。つまり、ここでは、悲しみが晴れることにより、涙が乾くという現象と、ずっと座り込んでいたため、「ひざがしらのうしろ」が汗ばんでしまったという現象について同時に語られていると考えられるのです。要するに、この「陸の女」には、何か悲しいことがあり、そのために、「全て壊れてしまえ」という気持で「ことごとく難破して!」と願ったのでした。しかし、そう願った瞬間に、涙は乾き、代わりに「ひざがしらのうしろ」が汗ばんできたのです。このように、「陸の女」には、何か悲しいことがあったと仮定できます。すると、先ほど、この詩の題材の一つに挙げられるとした、“失恋”と繋がってくるのです。
したがって、この「陸の女」は、失恋をした、つまり男性から捨てられたために、悲しんでいたのだと言えるのです。そして、作中で、「陸の女」の涙が乾くという場面が描かれているとするならば、「こいびとの名も忘れてしまった」と語っていたのは、この「陸の女」であるのだと分かります。先ほど、「こいびとの名も忘れてしまった」と発言していた人物は、捨てた側なのか、それとも捨てられた側なのか、という疑問を掲げましたが、これについては、捨てられた側である、という読みが導かれます。
つまり、この詩では、恋人である男性から捨てられた女性(「陸の女」)が、一時は悲しみに暮れ、自暴自棄な気分に陥るが、あるきっかけにより、立ち直った、という話が描かれていると読めるのです。その「陸の女」の立ち直り方は、なんとか元通り元気になった、という、世間でよく見られる、ありふれた性質のものではなく、恋人の名を忘れるほど、恋人のことがどうでもよくなってしまう、という、通常では考えられないレベルのものでした。この時、この「陸の女」には一体何が起こったのか、彼女は何をきっかけにしたために、恋人のことがどうでもよくなってしまったのか—、ここからはこの問題について考察していきたいと思います。
さて、この問題について考えるためには、まず、第四連を見る必要があります。
ふかく、とつぜん、和解するように
水船は沈むだろう
ここで、「水船は沈む」という表現が登場しますが、これは、「ことごとく難破して!」という「陸の女」の願いと重なります。その、「水船」が「沈む」という事柄は、「和解するように」なされると、作中にはあります。したがって、「陸の女」が「ことごとく難破して!」と願った瞬間、彼女は何かと「和解」したのだと考えられます。この「和解」という語には、諍いをしていた男女の「和解」というニュアンスも、もちろん込められています。しかし、男女の「和解」は、あくまでも間接的に描かれているものであり、ここで直接的に描いているのは、「陸の女」と、ある考えとの「和解」です。その、「ある考え」とは、一体何でしょうか。それについて考えるために、第一連から第三連について見ていきましょう。
海の庭には石がおかれ
東洋の音階が流れている
視力をなくしたこざかな
やどかり
水草のきしみ
その他のうお、はるのうお
つめたい異土に収集された
遺失物たちにかがやきが加わる
属しているもの
属していないもの
「海の庭には石がおかれ」とあるため、ここで描かれているのは、海そのものではなくてそれを模したものであると考えられます。ここでは、それを、魚が飼育されている水槽と考えました。海から捕ってきた魚などを、飼っている水槽であると推測されます。「東洋の音階」というのは、何かそういった東洋風の音楽が流れている場所に置かれている水槽なのでしょう。ここで、音楽が流れているという設定は、後ほどまた登場するので、覚えておいてください。
さて、その水槽には、「視力をなくしたこざかな/やどかり/水草のきしみ/その他のうお、はるのうお」がいるのだと言います。「視力をなくしたこざかな」というのは、「こざかな」が、自分の元々いた海のことをぼんやりとしか覚えていないことを表していると考えられます。「水草のきしみ」という表現については、「水草」そのものではなく、その「きしみ」も海から捕ってきたものとして並べられているのが印象的です。「視力をなくしたこざかな/やどかり/水草のきしみ/その他のうお、はるのうお」、それに水中に置かれた「石」を加えて、「つめたい異土に収集された/遺失物たち」と表現されています。ここで、「異土」(外国)という表現が登場しますが、これは、「流離」というタイトルと繋がります。「流離」とは、郷里を離れて他郷に彷徨うことを意味するからです。つまり、故郷である本物の海を離れて、水槽の中で飼われている魚や、石などが、「遺失物たち」と表現されているのです。
属しているもの
属していないもの
とあるのは、「視力をなくしたこざかな/やどかり/水草のきしみ/その他のうお、はるのうお」と、「石」の違いを言い表していると考えられます。魚たちについては、故郷の海に属していると普通は考えるため、「その海が魚たちの故郷である」と言うことができます。しかし、「石」についてはどうでしょうか。「石」は、長い時間を流転しているため、その海が元々の故郷であるとは言い切れません。この、魚や水草たちと、「石」との違いが、「属しているもの」と「属していないもの」の違いなのです。魚たちは元の海に「属してい(て)」、「石」は「属していない」のです。
その上で、
水底では、石だけが耳をもっている
という一行があります。この一行は、先ほど登場した「東洋の音階」を、「石」だけは聴くことができることを意味しています。これは、元々故郷を持たない「石」だけに聴こえる音楽があるということであり、「石」の、魚たちとは異なる特別な性質を表しています。
さて、ここまで、「石」と魚たちの違いについて見てきました。この違いは、作中において、一体何を意味するのでしょうか。
それについては、この作品は、私たち人間は、実は魚たちに似ているのではなくて、むしろ「石」と似たような存在なのである、という事柄を主張していると読めます。先ほど見てきたように、この詩の「陸の女」は、男性に捨てられて自暴自棄になっていたのに、何かをきっかけにして、急にその涙が乾き、恋人の名を忘れるまでに立ち直ったのでした。それは、私たち人間は、実は元々故郷を持たない「石」のような存在であると気づいたからではないでしょうか。
つまり、こういうことです。「陸の女」にとって、その男性は、自分の帰属する場所のような存在でした。それなのに、その男性から捨てられてしまい、「陸の女」は、悲しみに暮れてしまいます。まるで、自分が、帰る場所を追われた存在、つまり「流離」の身の上にあるような気分になったからです。しかし、彼女は悩んでいる内に、ある事実に気づきます。それは、そもそもその男性は、自分の帰るべき場所でも何でもない、という事実です。たしかに、魚たちは、水槽に入れられたことで、帰るべき場所である海に帰れず、悲しい気持ちでいるかもしれません。しかし、「石」は、元々海が故郷というわけではなく、ただ流転の中に身を委せているだけなので、海を懐かしがりもしないのでしょう。そして、自分は魚ではなく、この「石」なのではないかと、「陸の女」は気づいたのです。そのため、自分を捨てた恋人に執着する心は無くなり、彼女は、きれいさっぱり恋人のことを忘れたのでした。
このように、この詩は、私たち人間が、まるで「石」のように、どこにも属さず、ただ流転する存在であることを説いている作品として読めます。
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