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人間の<孤独>の正体とは —まど・みちおの詩「ツル」について—

 今回は、詩人まど・みちおの「ツル」という詩について見ていきます。


   ツル まど・みちお

  二本足で  
  たけ高く さびしそうに
  でも すっきりと立つこの世の生き物
  ツル
  と
  人間(ぼくら)

  いつかテレビでツルが
  とおいどこかのくらい荒れ地に立って
  ひとり
  空を
  見あげていたとき
  ぼくは涙が出そうになった

  ぼくがツルで そこに立って
  ひとり
  空を
  見あげているのかと…
  風がすむ空の何もない空のひろいひろい
  空に
  一本のぎんのハリのようにひかる
  友を
  さがして…


 この詩は、一見、単純なように感じられますが、よく読むととても難解であることに気づくでしょう。しかし、順を追って考えていけば、その内容が把握できるように書かれています。それでは、この作品について、順番に見ていきましょう。
 冒頭では、まず、ツルという鳥と、人間との共通点が指摘されています。「二本足で/たけ高く さびしそうに/でも すっきりと立つ」生き物であるという点で、実は、我々人間と、ツルは似通っている存在なのです。ツルと人間は似ている。この発見だけでも一篇の詩を構成しうるほど、独創的な発想であると思われますが、作品はまだ展開します。

  いつかテレビでツルが
  とおいどこかのくらい荒れ地に立って
  ひとり
  空を
  見あげていたとき
  ぼくは涙が出そうになった

  ぼくがツルで そこに立って
  ひとり
  空を
  見あげているのかと…

 第二連から第三連の途中までを引用しました。この中で、語り手の「ぼく」は、テレビでツルの映像が写し出されているのを見た時、思わず泣きそうになったと言っています。それというのも、自分がまるでツルであるかのように感じられたからだと言います。しかし、これだけでは、なぜ「ぼく」が、自分がツルであるかのように感じたのか、その理由が分からないため、作品が何を主張したいのか、いまいちピンと来ません。
 そこで、引用した箇所よりも一行手前の、「人間(ぼくら)」という表現に注目しましょう。noteでは上手く表示できませんでしたが、テキストでは、「ぼくら」の文字は「人間」という文字に、ルビとして振られています。つまり、この「ぼくら」という表現は、人間全体を表していると言えます。
 その上で、わざわざ、「人間」に「ぼくら」というルビが振られていて、また、作中では別の箇所に「ぼく」という表現が登場しています。したがって、ここには、「ぼくら」と「ぼく」を関係づけて読んでほしいという、作者の意図があるのではないかと推測できます。そのことから、「ぼく」という存在は、「○○君」という、一人の少年として解釈されるよりも、むしろ、どんな人物でもそこに当てはめうる、数学で言う「x」のような存在として考えられるべきではないかと言えるのです。つまり、この「x」には、「a」という人物や、「b」という人物などが、代入できるというわけです。ただし、この「ぼく」という「x」に代入できるのは、あくまで、人間に限ります。
 そして、この「ぼく」がテレビで観た、一羽のツルが立っているところも、ツルの映像としては我々がよく見かけるものであると言えます。だから、このツルは、ツルとして個別の存在であるというよりも、没個性的なツルとして描かれているのではないかとと考えられることから、またしても、どんなツルをもそこに代入できる変数のような存在であると言えます。ただし、この「ツル」に代入される存在として挙げられるものは、あくまで、ツルに限られています。
 さて、ここまで、「ぼく」が人間一般を当てはめうる個人として登場していること、また、彼がテレビで観た「ツル」が、ツル一般を当てはめうる個体として登場していることについて見てきました。話を元に戻すと、「ぼく」は、「ツル」が立っているところを見て、涙を流したのだそうです。その理由は、「ツル」が実は「ぼく」なのではないかという気分になったから、というものです。このように、「ツル」と「ぼく」が交換可能であるかのような気分に陥ることと、似た記述を、我々はどこかで目にしたはずです。——そう、冒頭の、人間もツルも、「たけ高く さびしそうに/でも すっきりと立つこの世の生き物」であることを指摘する文章です。この冒頭の文から分かるように、人間とツルは、極めて似ているのでした。
 その上で、語り手の「ぼく」は、荒れ地に立つ「ツル」が、実は「ぼく」自身なのではないかという気分に陥ります。この場合、「ツル」はツル一般、「ぼく」は人間一般を代入できる存在として登場しているのでした。ということは、荒れ地に立つ「ツル」の姿に、語り手は、人間一般の姿を重ねているのではないでしょうか。
 その、荒れ地の「ツル」の姿と、人間一般の姿が重なる、ということの根拠は、どちらも互いに似通った生き物であるというところにあります。語り手の眼には、ほとんどそっくりな生き物として映るため、「ツル」が荒れ地に立つ姿と、人間一般の姿とには、どこかしら共通点があるはずだ、というのが、語り手の論理展開なのです。
 さらに、最後に残った箇所を見てみましょう。

  風がすむ空の何もない空のひろいひろい
  空に
  一本のぎんのハリのようにひかる
  友を
  さがして…

 ここで、「一本のぎんのハリのようにひかる/友」とは、直接的には、もちろん、ツルを指します。荒れ地に立つ「ツル」は、自分の仲間を空に探しているのです。ツルが空を飛んでいるところは、「ぎんのハリ(銀の針)」のように見えるため、ここではそのように表現されています。
 しかし、この「一本のぎんのハリのようにひかる/友」というのは、また、ツルではなく、我々の知らない“何か”であるとも考えられます。というのも、「ツル」と「人間」は、互いに似通った生き物なのでした。だから、荒れ地に立つ「ツル」(ツル一般)の姿に、人間の姿を重ねることも可能なのでした。その「荒れ地に立つ<ツル>」は、空に仲間を探しているのでした。ということは、人間も、自分の仲間を空に探していると言えるのではないでしょうか。ただし、「ツル」の場合、その「一本のぎんのハリのようにひかる/友」の正体は、まさしく“ツル”でしたが、人間の場合は、それは“ツル”とは限りません。まだ正体の分からない、まさに“何か”という言葉が相応しいもの、それを人間は、空に探しているのです。
 では、ここまで見てきたような論理展開を通して、語り手は、一体我々に何を伝えようとしているのでしょうか。それについては、人間の抱える<孤独>の正体というものに独自の答えを見出し、それを伝えようとしているのではないか、と考えられます。「人間は誰しも孤独を抱えている」とはよく言われることですが、その実、その<孤独>というものが一体何なのかについては、はっきりと答えられる人はいません。この詩は、一般的に<孤独>と呼ばれる感情について、その正体を明確に名指しています。それは、虚空を見あげて、「一本のぎんのハリのようにひかる/友」を探すけれども、それが見つからない——、まさにそのような感情なのです。その根拠は、ここまで見てきたように、人間一般とツル一般は似ている、そして、ツルは空に「一本のぎんのハリのようにひかる/友」を探している。ツルの場合は、それは同じ仲間のツルだけれども、人間の場合は、正体未詳の“何か”である。人間は、それを見つけられないために、今日も<孤独>を抱えて生きている——、という論理にあるのでした。このように、この詩は、鳥の「ツル」を題材にしながらも、その生物学上の魅力に迫るのではなく、「ツル」の存在の深いところにあるものを掴み取り、その上で、人間の<孤独>の正体に一つの仮説を立てている作品であると言えます。

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