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現象の奥にある本質を掴む —石垣りん「シジミ」について(再び)—

 以前、石垣りんの「シジミ」という詩について書きましたが、この詩について、もう一度書き直そうと思います。


   シジミ 石垣りん

  夜中に目をさました。
  ゆうべ買ったシジミたちが
  台所のすみで
  口をあけて生きていた。

  「夜が明けたら
  ドレモコレモ
  ミンナクッテヤル」

  鬼ババの笑いを
  私は笑った。
  それから先は
  うっすら口をあけて
  寝るよりほかに私の夜はなかった。


 この詩の末尾において、語り手は、なぜ、「うっすら口をあけて/寝るよりほかに私の夜はなかった。」と言っているのでしょうか。ここで語り手が何を言いたいのか、それを把握するためには、次のことに気づく必要があります。すなわち、語り手の語りの中の他の箇所にも、「口をあけて」という表現が登場する、ということです。それは、

  ゆうべ買ったシジミたちが
  台所のすみで
  口をあけて生きていた。

 という箇所です。ここで、シジミと語り手が、同じ「口をあけ(る)」というポーズを取っていることに注目して下さい。なぜ、語り手は、シジミと同じポーズを取ったのか? それについては、語り手が実際にシジミと同じポーズを取った、というよりも、むしろ、自分が一つの考えに至ったことを、読者に伝えるために、あえて、自分は「口をあけて」寝た、という言い方をしているのではないか、と考えられます。では、語り手が結末において至った、一つの考えとは、一体何でしょうか。
 それは、「自分はシジミと同じような存在だ」という考えではないでしょうか。シジミと自分は、実は同じような存在である。語り手は、このような考えを手にしたのだと推測されます。人間である語り手が、シジミと同じだって? 私たちは、一瞬、この考えを笑い飛ばしたくなります。人間がシジミと同じわけがない、私たちはそう思います。なぜなら、人間とシジミの間には、<食う/食われる>という関係性があり、「食う」という行為を“する側”の人間と、“される側”のシジミとは、明らかに立場が異なっているからです。人間は、食物連鎖のてっぺんにいて、何かから「食われる」ことはありません。だから、人間とシジミは決して同じような存在ではない、私たちはそう考え、語り手の意見を笑い飛ばします。
 しかし、語り手の考えについて、深く分析すると、実は、シジミと私たち人間が、「同じような存在」であることが、よく分かるのです。
 では、実際に、語り手の意見について、分析していきましょう。作中には、

  「夜が明けたら
  ドレモコレモ
  ミンナクッテヤル」

  鬼ババの笑いを
  私は笑った。

 という箇所です。語り手は、シジミに対して、「クッテヤル」と凄みました。この記述からは、語り手とシジミの間の、<食う/食われる>という関係性が、まずは確認できます。人間は「食う」という行為を“する側”の存在であり、シジミは“される側”の存在である。だから、両者は一見、「同じような存在」とは言えない。では、語り手は、何を考えて、自分とシジミが「同じ」であると訴えているのでしょう。その手掛かりは、やはり「クッテヤル」という、シジミへの凄みにまつわる記述しかありません。この記述を、じっと見つめてみましょう。
 そうすると、<食う/食われる>という関係性の奥に、抽象的な意味での<食う/食われる>という関係性が潜んでいることが分かるでしょう。人間とシジミは、一見、人間がシジミを口に入れる、文字通り「食う」という行為を介して関係を持っているように思えます。しかし、その文字通りの「食う」という行為の底には、実は、人間がシジミのことを、抽象的な意味において「食(っている)」という現実が隠されていたのです。その、抽象的な意味での「食う」という行為は、言ってみれば、「搾取する」ということです。シジミは、人間によって「搾取」されている。しかし、その人間もまた、他から「搾取」される存在ではないでしょうか。
 人間が、他の存在(例えば別の人間)から、「搾取」されることがある、という考えには、納得してもらえると思います。人間とシジミは、「他から搾取されうる」という一点によって、「同じ」存在であると言えるのです。
 このように、この詩の語り手は、「人間とシジミは同じ存在である」という、一見、奇妙な訴えをする人物でした。人間とシジミは、一見、文字通りの意味での「食う」という行為を介して関係を持っているように見えます。しかし、その関係性をよく見つめてみると、そこには、抽象的な意味での<食う/食われる>の関係性が隠れているのでした。抽象的な意味での「食う」、これを「搾取する」と呼ぶと、人間とシジミには、たしかに、「他から搾取されうる存在」という共通点があることが分かります。
 この語り手は、文字通りの意味での「食う」という行為の奥に、抽象的な意味での「食う」という行為が潜んでいることを見抜いています。この人物の眼には、世界がどう映っているのでしょうか。——おそらく、他の人々には、事柄の「現象」しか見えないのに対し、この人物の眼には、その「本質」が見えているのでしょう。現象の奥にある本質を掴む眼を持っていること、それが、この「シジミ」という詩の語り手の特徴であると言えます。

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