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願いは叶ってきたから、たぶんこの先も叶う

私の願い事は、だいたい叶ってきた。
やりたくないと思ったことは人生から消えていったし、私はある意味理想的な生活をしてる。

飽き性の私は変化をたくさん起こすことが必要

前回、私はようやくこのモヤモヤが何なのかがわかってきた。飽き性の自分を忘れていた。

私は、料理が好きで、新しいレシピで美味しかったらとっても嬉しい。いつもの味よりも、そっちが私にとってはおもしろい。
自分が考えたレシピで美味しかったら尚更嬉しい。
こういうちょっとでも新しいことをしてみるっていうのが、いいみたい。

イメージとしては、バタフライエフェクトみたいな。ちょっとした変化が、未来の予測のつかない大きな変化になる、みたいな。そうならないかもしれないけど。人生の転機って、そういう些細なことから起きることが多い。たった一枚の名刺とか、偶然そこに居合わせたとかね。

このちょっとした変化というのは、色んな成功者が言う種まきと似てる。最初の変化は蝶の羽ばたきやほんの小さな種のようだったかもしれない。でも、それをたくさん起こすことで、将来的に大きな変化になるとかね。

今の自分が永遠に続くとは思えない。だって、10年前の私が、10年後の私を想像して、起業してるなんて思えない。5年前の私は5年後、大学の教壇に立ってるなんて思えない。だとしたら、今から5年後、10年後の自分なんて、今の私じゃ信じられないことが起きても不思議じゃない。

だったら、願ってみる価値はありそうだ。過去の自分に言うとしたら、どうにでもなるってこと。未来の自分からも同じことを言われそうだ。

失敗はマジで辛いからこそ、なんで失敗したかわからないともったいない

私の最近の失敗は、雇われ社長になったことだ。私の性格上、流されやすい。大株主に流されるまま、いい顔したいという理由で、安請け合いしてしまった。やりたい内容だったかというと、特別情熱はなかった。しかし、「情熱があるフリ」はうまかったので、絵空事のようなお付き合いのビジョンを言うことはできた。それって、自分に嘘をついているような感覚。その違和感は本当は大切だった。今までも同じように、お客さんにいい顔をして、相手の価値観に同意してきた。それはお客さんにとっても幸せではないし、私にとっても、全然気分はいいものではなかった。相手に興味を持つのはいいことだけれど、自分の価値観を殺してまで、同調しすぎて、安請け合いをするのは、本当に悪いクセだと思う。

そして、私の性格で、「うまくやっている、十分努力しているフリ」もやっていた。優等生を演じるのは私の癖だ。事業を成功させることにコミットしていなかったし、何より一番最悪だったのは、無給でやっていたこと。私はお金をもらっていないということを理由に、最低限のことしかしなかった。そして、資本金を溶かしてしまい、代表が変わった。

私は、虚栄心があったと思う。自分よりも儲けている人に頼られているという虚栄心や、これだけの資本金の会社を社長としてやっていること、そして、会社を複数社経営していること、有名コンサルタント企業と組んでいること、資本金のお金をある程度自由に使えるなど、自慢できることをたくさん持つことができた。私は、そういった成功した人っぽいことができるぞ、これは成功へのチャンスだと思ったから、受けたのも事実だ。しかし、それを目的にしていたのでは、事業として成功しないのも当たり前だ。だって、社長になっただけで、目的は達成してしまったのだから。

私がこの失敗から学んだことは、虚栄心で選択しないこと。おそらく、虚栄心で選択してしまうのは、自分は劣っている思っているからだ。自分が優れていると思い込むために、魂を売っている感じがする。今まで、これ以外にも自分より優れていると自分が思い込み、その人に依存してしまう。どこかに所属していないと、自分は駄目だと思っている。メンターといえば聞こえはいいが、私はそういう人に、逆らえなくなる。その人の言うことは絶対になってしまい、自分はNOとは言わなくなる。いい子ちゃんになることに必死なのだ。私が相手に尽くして、相手の言うことを聞いていれば、きっと私にメリットがあると思っている。お互いがギブ・アンド・テイクで過ごしている。相手がギブしなくなったら、私は離れるのだろう。もう、ここから得るものは無いな、と思ったり、相手のことがある程度知れたら、もう興味がなくなるのだろう。

今まで何でも言うことを聞いていた私が突然、自分のやりたい道に行くために、卒業といえば聞こえがいいが、その人と離れてしまう。相手は、私が裏切ったように感じると思う。今まで言うことを聞いていたのに、突然目の前からいなくなる。その時は、心苦しいと思うけど、今は後悔していないし、そういうタイミングだったんだと思う。

すべて円満に済ませたいと思うのは、私の癖。退社だって、円満じゃない人も多い。それだけ私は、人に嫌われたくないし、自分が悪いと思いたくないのだ。自分が正しいと思いたくなる。そのためにとる私の行動は、自分の意思ではないフリをすること。それぞれのメンターと離れる時や、会社を離れる時は、次のメンターが後押しすることが多い。

というか、そう仕向けている自分がいる。自分の意思なんだけど、どこか誰かが言うから…という理由付けがないと、強く言えない自分がいる。ある意味、その性格を無意識に知っていて、自分が望むことを言ってくれる声の大きい人に流されているように、自分を仕向けている。誰かが言うから、と義務でやっているように見えて、実は、自分の意思だったりする。

流されているんじゃない、私が流すように促しているんだ

私の人生を振り返ってみると、他人軸で生きているように見せかけて、かなり自分軸で動いているみたいだ。前々回だっけ?自分に期待しないという記事を書いたが、実際は、自分に期待していたのだと思う。自分に期待して裏切られたくないから、期待していないフリをして、「私にはできないし、無理だと思うんだけど、周りがそうしろって、聞かなくて、仕方なくそうしてるの。」みたいな、そういう天の邪鬼な茶番をしないと、私は駄目らしい。なんでそんな茶番をするんだろう。

私は、自分に裏切られたくないのだ

自分がそうしたいってストレートに言うことや、望むことがかっこ悪いと思っているのかもしれない。それが実現しなかったら、自分が傷つくし、期待どおりじゃなかったら、がっかりするからだろうか。自分は劣っていると思っている一方で、劣っていない自分がいることを期待している。これ以上、自分に裏切られたくないのだ。期待していた自分がバカみたい…な気持ちになりたくないのだ。これを表す言葉は何というのだろう。がっかりしたくない、かな。

昔、父と母に夜祭に連れて行ってもらった。私は、クーポンのついたチラシを握りしめて、父母と会場に向かっていた。すごく嬉しかったし、楽しみにしていたんだけど、私の口から出た言葉は、「私、クーポンがあるから来てあげただけよ。」みたいな発言をした。父親は、私に、「そんなんじゃ楽しめないぞ」と怒ったように言った。自分でも、本心じゃないことはわかっていたけど、その気持ちにもすごく似ている。

そして、「りんちゃん、Web系向いているんじゃない?」「え〜!私は、絶対にWebの道には進まない!」と大学の時に言って、結果的にWeb系のIT企業を立ち上げたし、中学校の時に「りんちゃん、先生になったらいいじゃん」「え〜!私は、教員には絶対ならない!」と熱弁して、大学では教員免許を頑張ってとって、今や教職についている。反応するということは、関心があったんだろうな。小さい頃から、かなりの天の邪鬼だったようだ。

今言われていること

今、「りんちゃん、○○ができるんじゃない?」と言われていることは、ブランディングやプロデュースをすること、しかも、ITストラテジスト的な戦略部分から考えるということと、自分のメディアを持つこと。
私の返答は当然ながら「え〜!私は、プロデューサーやブランディング、自分のメディアを持つことには興味ないよ〜!!」である。
もう一つは、絵や文章を発信することである。それは全力で否定しなかったな。ちょっとやりたいことだったから。でも、それを仕事にしたり、本を出版したり、とか、メジャーになるっていうのは全力で否定した。
もしかしたら、それを5年後あたりに、それらを仕事にしているかもしれない。私が全力で拒否する=興味あるということだと思う。めんどくせー奴。
じゃあ今まで、意識してそれをやっていったかというと、やっていってない。頭の中で、「○○になんて、絶対になるものか!!」と思っているだけで、勝手に○○になっているものである。それだけ意識を向けたものにはエネルギーが注がれるんですね。

がっかりしたくない、ということは自分に期待している!

では、また次回。おやすみなさい。

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