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3日前まで『BLUE GIANT』を知らなかった私が、映画館で泣き崩れた話|音楽は今でも素人だけど。

■音楽への無知さが生んだ「食わず嫌い」

「名作!!」
「大ベストセラー!!」
「必見!!」

そんな文字が踊るほどの有名作品でも、なんとなく素直に飛びつけないことがある。世の中の話題についていくためにも、最低限触れておいた方がいいものはたくさんあると頭ではわかってはいるのだが。

昨今でいうと、映画『BLUE GIANT』がまさにそうだった。職場や身近なコミュニティー内でも早いうちからかなりの話題になっていた。

曰く、「絶対行ったほうがいい!音楽が本当に素晴らしい!」「(作者の)石塚先生にサインもらった……!もう家宝!」「轟音上映行ってきた!」などなど。とにかく皆さん、アツかった。(一応予告は見て、「行った方が良さそうだなあ…」とは思っていた)

かたや私は『BLUE GIANT』の「B」の字も知らぬ人間。もちろんジャズを聞いたことはある。学生時代を過ごした仙台では街じゅうがステージになる定禅寺ストリートジャズフェスティバルが開催されていたし、上京してから知人のライブを観にジャズバーに足を運んだことも1、2度はある。

しかし、楽譜すらまともに読めない人間としては、音楽をテーマにした漫画や小説には腰が引けてしまう。かの『のだめカンタービレ』の映像作品こそ何度も楽しんでいるが、原作の漫画となると、頭の中にストックとしてもっている音楽の引き出しの少なさゆえに、いまひとつ楽しみきれない。

「この作品はもっとおもしろいはずなのに、私はそれを存分に楽しめていない!!」

情報不足な自分に対して、そんな悔しさがこみ上げてくる。

もちろん、「実物を知らない」という観点では、世界中の有名観光地や絵画を題材にした作品も一緒だ。しかしそれらは写真などで同時に「目にする」ことができるので、絵や文字であらわされた漫画や小説と共に楽しむことが可能だ。

そういう意味では、香り(嗅覚)や味わい(味覚)、手ざわり(触覚)も、音(聴覚)と同じく視覚情報ではないのだが、とかく「音楽」は、それらをうまく表現する言葉もすべもない私にとってはハードルが高くなってしまうのだった。(ミュージカル映画や舞台は視覚と聴覚の両方で楽しめるので好きだ)

■「作品の舞台って仙台だったの・・・!?」

そんな私だから、3日前、偶然足を踏み入れた夜のカフェでオーナーさんや店員さんに『BLUE GIANT』をおすすめされた時は、正直「うーん、やっぱり行かなきゃダメか……」モードだった。

会話の中で何かのきっかけで、かの作品が仙台から始まると知るまでは。

「映画は4巻あたりからなんだよね。うちに漫画あるけど、試しに1巻読んでみる?」

カフェのオーナーさんのその一言がすべてを変えた。結局その日、私はオーナーさんのご厚意に甘えて、4巻まで読み切って深夜に店を出たのだった。

ページをめくった瞬間、込み上げてきたのは途方もない懐かしさだった。見覚えのある仙台の街並み。広瀬川沿いの土手。降りしきる雪の中、白く浮かび上がる吐息。野良猫の闊歩する風景。そして、勾当台公園やアーケード街を舞台に繰り広げられるジャズフェスの熱気。

夏の香りがまだ残る秋空の下のジャズステージもすばらしいけれど、夕闇の中に浮かび上がるステージから空へと突き抜けていく夜のジャズミュージックと、思い思いに音楽を楽しむ人々の姿もまた美しい。

今思い返しても仙台は本当に美しい街だと思う。山も海も音楽もある。ジャズだけではなく、クラシック音楽をメインにした仙台クラシックフェスティバルも定期開催されている。

仙台、雪、猫ときたら、もう飛びつかない訳にはいかない。仙台が舞台だと知っていたら、音楽がテーマだとしても、もう少し早く『BLUE GIANT』読んでいたかもしれない。何が人の琴線に触れるかはわからないものだ。

仙台で大学時代を過ごした後、私は東京にやってきた。主人公の大と同じように。大みたいに明確な夢や目的に突き動かされて……というわけではなかったけれど。

映画『BLUE GIANT』は大が仙台から高速バスで上京するシーンから始まる。映画本編についてはいたるところで言及されているし、それこそ「映画館で観るべき映画」として作られているので、それはぜひ体感してほしい。

(余談だが、映画好きな知人の言葉を借りれば「映画は映画館で観るために作られているので、TVやスマホの画面ではその映画の良さを本当の意味で知ることはできない」のだとか)

■思ったより泣けない?

映画については「開始数分で泣ける」という人もいたので、かなり期待していたのだが、正直、中盤まで私の涙腺はカラカラだった。もちろん「胸に迫る音楽だな」と思うことは何度もあった。でも「嗚咽する」「号泣する」という周囲の前評判と比べると「あれ?」と思うくらいだった。

転機は映画中盤に訪れた。ストーリーの展開もさることながら、音楽に身を委ねるうちに、ふと涙がこぼれそうになった。指で軽く目元を拭いて一息つく。

「あー、少し泣いちゃった。でもこのくらいなら大丈夫そう」

そう思ったのが間違いだった。たたみかけるような激しく美しい音の粒の連続。気づけば涙はとめどなく流れていた。鼻をすする音が周りのお客さんの迷惑にならないようにと願うくらいに。完全に「もっていかれた」感覚だった。映画終わりにふとトイレの鏡を見ると、アイメイクは跡形もなく流れ落ちていた。

■音楽を聴きたいと欲するそのわけは

音楽の才能はなくても、音楽が聴きたくなることはある。それはなぜなのだろう。違う国の違う時代に作られた音楽でも、歌詞の意味すらわからない曲でも、背景や成り立ちを全く知らないメロディーでも、どうして人の心はこうも音楽に揺さぶられてしまうのだろう。

音楽について、言葉で綴られたものの中で、私がいちばん愛しているのは、江國香織さんのこのエッセイだ。

音楽はある種のDRUGだと思う。神経をたかぶらせたり鎮めたりする。言葉では届かない場所に触れられた気がし、心がかき乱される。音楽を聴きたい、と欲することは、多かれ少なかれ、かき乱されたいと欲することだ。なんのためにかといえば、おそらく自分の振幅に耳を傾けるために。誰かに、あるいは何かに、かき乱してもらえない限り、どんな楽器もなることはないのだ。

江國香織「音楽について」−『泣く子供』より

映画終わり、私は『BLUE GIANT』のサントラを聴きながら帰路についた。電車でささっと帰ってしまうには惜しいくらいの余韻。空は薄青く、次第に夜を迎えようとしていた。結局、1時間弱は歩いていただろうか。サントラもいいけれど、やっぱり映画館で聴くのがいい。次はいつ観に行こうか。気づけばそんなことを考えている。「次」が楽しみで仕方ない私がいた。

音楽はいつもそばにあった。雨のように降ってきて、考えたり感じたりする前にしみてしまう。そして励まされたり動揺させられたりしてかき乱される。結果的に何らかのエネルギーを得て、あしたから、また何とか生活してゆかれるように。

同前

今夜も私の部屋には音楽が流れている。

(終)


*Special thanks to Hさん、SコミュニティのHSさん・HYさん、ステキなカフェGのオーナー・店員のみなさま*


■音楽について短いエッセイが読みたくなった方に

■江國さんのエッセイが気になった方に

■北国の日常や「ふるさと」が気になった方に

■「がむしゃらだった頃」を思い出したくなった方に


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