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「母親を好きになれない」という気持ちに向き合って見えてきたこと

「私は、母親のことを好きになれないかもしれない。」

その気持ちに初めて気付いた時から、もう7年は経っており、ずっとその答えを出せずにいた。

育ててもらった親に感謝できないなんて、私はなんて親不孝な娘なんだろう...。

母親を嫌いになるなんて、私が間違っているのだろうか。

育児放棄をされたわけではなく、むしろ教育熱心な母親であった。

身体に悪い食べ物を口にしないよう食材に気を遣ってくれていたし、学校のPTA も務めるなど子供の私から見てもしっかりとした母親だった。勉強や習い事にも熱心で、子供の私と関わろうとしてくれていた。

にもかかわらず、私は母親のことをどこか好きになれないでいた。

過保護であると薄々感じていたけれど、それだけで嫌いになる理由にはならない。

そして、その思いは社会人になってからより強く感じるようになった。

何か大きなきっかけがあったわけではないけれど、正しいと思って信じていた母親の価値観や教えが、もしかすると間違っていたのかもしれないと思うことが社会に出て増えてきたのだ。

恐らく、親が万能ではないことは、10代前半の反抗期の時期に向き合い、その時に自立という健全なステップを踏むのだろう。

しかし、私には大きな反抗期はなく、長い間親の価値観は正しいはずとどこか信じたい気持ちがあったため、母親を好きになれない気持ちは、きっと20代になって遅れてやってきた反抗期に違いないと思ってやり過ごそうとしていた。

しかし、7年経ってもその反抗期が終わることはなく、むしろ不信感は強まっていくばかりだった。

30歳にもなって、いまだに理想の母親像に縛られている自分を恥ずかしくも思っていた。

母親も一人の人間だから完璧ではない。
一人の人間として、尊重してあげるべき。

そう思うように言い聞かせている中で、先日、ちょっとした出来事から、母親に抱いていた微かな期待は崩れた。

母親に対して本音で話すことはあまりしないのだけれど、珍しく共通の知人のことで母親に不満を吐露することがあった。

その不満に深い感情はなく、ただ自分の中で整理できない気持ちを受けとめて欲しいという気持ちで、ありのままの本音と感情で話をした。

すると母親は、その本人である知人に、私が愚痴を言っていたことを伝えたのである。

「娘がこのことに対してぐちぐち言っているのよ。」

ただ気持ちを受けとめてくれるだけで良かったのに。
母親の胸の中に留めておいてくれるだけで良かったのに。

例え愚痴だったとしても、自分の発言には責任をもとうと思っているため、母親を責めることはせず、打ち明けた人を間違えたとその時思った。

そして、「この人には、もう本音で話すまい。」

その出来事で素直にそう思ったと同時に、

「母親のことはどうやら好きになれそうにない。」

長年抱えていた問題に、私が出した答えであった。

一人の大人として尊重して母親と接していた結果、寂しい気持ちはするけれど、そばにいたいと思う人ではなかったのだ。

しかし、その思いを知ったときの私は、長年の問題が解決し、晴れ晴れとした気持ちになっていた。

母親がこのことを知ったら、恐らく泣いて私を責めてくるだろう。

親不孝ものと責められても、それ相応のことだろうから受けとめようとも思っている。

もちろん、母親に私の本心を伝えるつもりはなく、ただ、そっと距離を置くだけだと思う。

一人の母親である存在を切り離すという決断は、やはりどこか怖いものがあった。一生後悔するのではないか?それぐらいの恐怖心から、7年もの間できずにいた。

しかし、それでも自分のそのままの気持ちを肯定することができたのは、母親を育てた祖母の存在である。

母親に対する不信感を抱くようになった7年前の同じぐらいの時期に、祖母に対しては信頼を寄せるようになった。

そして、母親への不信感が強まることと比例し、不思議と祖母への信頼感は、どんどん大きなものになっていった。

第一志望の高校に受かった時に、嘘をついていると怒られ、母親に喜んでもらえなかった記憶を埋めるかのように、社会人になった今、資格試験に受かると真っ先に祖母に報告し、頑張ったねと誉めてもらっている。

学生時代に好きな人ができても、相手のことを否定して別れさせようとしてくる母親の記憶を埋めるかのように、大人になった今、好きな人ができたら祖母に相談して恋愛の話をするようになった。

本を読むことが好きな私を、本に逃げていると責めてくる母親の存在を埋めるように、読んでいる本に目をとめて、それどんな本?と聞いてくれる祖母とコミュニケーションをとるようになった。

近くにある実家には全く帰らないけれど、離れて暮らしている祖母の家には1ヶ月に一度のペースで遊びに行くようになり、電話でも話したりしている。

そして、数年前に祖母に対して「お母さんのことあんまり好きになれないんだよね...。」という悩みを打ち明けたときも、私や母親を否定することはせず「親子の関係とおばあちゃん、孫の関係はやっぱり違うわよ。おばあちゃんは、孫をかわいがるだけでいいもの。」と、私の気持ちを受けとめて、認めてくれていた。

子供の頃に私が求めていた、自分を認めてくれる存在、気持ちをわかってくれる存在を、大人になった今、母親ではなく、祖母がその役割を担ってくれている。

そして、昔忘れてきたものを取り戻すかのように、子供の時にとりたかったコミュニケーションを、今祖母ととっている。

一般的には母親がそういう存在なのだろう。

私もずっとそう思っていたし、むしろ、母親であって欲しいとも思っていた。

しかし、母親でなければいけないという考えに固執するあまり、自分を苦しめていた。

自分の気持ちに素直になって見えてきたことは、産んでくれた人だからとか、ずっと育ててきてくれた人だからとか、そういう考えに縛られるのではなく、「自分が一緒にいたい人」、「自分の気持ちを大切にしてくれる人」の存在が必要で、その存在が母親なのか祖母なのか、あるいは父親なのか兄弟姉妹なのかは、あまり関係のないことなのではないだろうか、と思う。

母親はやはり特別な存在なのだとは思う。

けれど、特別だと思うことでそれが負担になり、自分が苦しくなっているとしたら、今まで一生懸命育ててくれた過去には感謝しつつも、これからの自分が一緒にいたいと思う人のそばに居た方が良いと思う。

母親だから。娘だから。

覆しようがないことを無理に覆す必要はないけれど、もっと柔軟に、関わりたい人、大切にしたい人、信頼できる人がいるのなら、自分の心の中心にとどめておいて良いのではないのだろうか。

大人になって、私の気持ちを大切にしてくれる人の存在に気づき、子供の時に育てることのできなかった「自分の存在を肯定する」という考え方を、子供の頃にさかのぼって、今の自分の中に新しい記憶として日々重ねていっている。

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