表現の衝動と滋養としての言葉
村上春樹は短編集『回転木馬のデッド・ヒート』の冒頭でこのようなことを述べている。
私はくすりと笑って付箋を貼った。いやに強く否定するなぁと思った。世の中には、彼に言わせればそう誤解している人が多いのかもしれない。少なくとも私はそのうちのひとりだ。
私はいくつかの彼の作品を読んで、てっきり彼は精神の解放という効用を得ることを目的の一つとして、ペンをとっていると思い込んでいた。どうやらそうではないらしい。そう思わせる文章だと私が感じることについては、譲れない気持ちでいるのだけど。個人的に人生の師として仰ぐ文筆家の巨匠がそう述べているので、とりあえずここでは従ってみることにする。あわよくば救われたいという気持ちは、一旦人目につかぬところにしまいこんでおく。
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私は現在26歳だ。あと3ヶ月で次の歳になる。去年友だちに教えてもらって手に入れた『26歳計画』という本を、ようやっと重い腰をあげて読み始めた。初版が2021年であることから、その本に寄稿した若者達は現在29歳くらいだろうか。書き手の皆さんにそんな意図はなかったはずだが、私の受け取り方として、心のデリケートな部分をつつかれる気がして、なかなか読み進めることができなかった。良くも悪くも心の波が大きくうねった。
ただ本には旬というか、読みどきがあると私は思っていて、特に同じ年齢の人が登場する本については、ぜひその年齢のうちに読んだ方がいいと思っている。この年齢で感じることは、この年齢の自分でしか味わうことができないからだ。
結論から言うとやはり開いて良かったと思っている。私はこの本をきっかけにビートルズの『HELP!』の歌詞の意味を初めて理解することになる。
この出だしはあまりにも有名で、歌詞を見て途端に頭の中でメロディが流れ出す人も少なくないと思う。私は英語が苦手なのもあって、威勢が良くて明るい曲調でなんだか元気が出ていいよなぁくらいに思って聴いていた。それを和訳するとこうなる。
なんだか元気が出ていいよなぁというレベルの話ではなかった。アップテンポでノリのいいメロディに乗せて、彼らは心の底からの悲痛の叫びを上げていた。曲の印象と歌詞の意味の乖離が、その切実さを色濃く映している。それにこの歌詞が続く。
この歌詞はいくつの時に書かれたのだろう。
シングル盤は1965年7月に発表された。発表当時、ジョンレノン。24歳。ポール。23歳。若い。私と同年代と言ったら怒られるだろうか。でも同じ20代だ。
私も今よりもずっと若かったとき、今よりは人の助けを必要としていなかった。それは当時の私が陰で周囲の人に支えてもらっていながら、そのことに気がついていなかったからだと思う。まるで自分ひとりだけが苦しくて、まるで自分ひとりで生きてきたみたいな顔をして生きていた。そしてたとえ誰かに助けてもらったことに気が付いたとしても、その支援は当然与えられるものだと思っていたような気がする。傲慢無礼、愚かで、若かった。
実家を出ておよそ半年経った。この半年は、いかに自分が周囲に甘えて生きてきたかを実感する日々だった。経済的にも精神的にも独り立ちすることをずっと願ってきたけれど、いざ早急にその実現を求められる段になって、自分が長年愚かな勘違いをしていたことを、手厳しく体に刻み込むように自覚させられた。
その若者たちは、恥も外聞もかなぐり捨てて君に助けてくれと懇願する。虚なプライドもなく、格好つけることもせず、無我夢中で、君に縋り付くようにして叫んでいる。
まだ私には、この歌詞を紡いだ彼らのように大声で誰かに助けを求めることに抵抗感がある。
今までの自分の愚かさを思い出してはギリギリと自分で自分の心を締め上げて、ひとりその痛みにのたうち回っている。その痛みは自分ひとりで引き受けて、自分で消化させる必要があると思っている。
あるいは、助けを求める人を嘲る架空の魔物を生み出して、そいつらに私は萎縮している。
ただこんなことはずっと続けられないことは、なんとなくわかっている。まだ人生について語れることはほとんどないけれど、人生とはひとりでなんとかできるほど容易いものではないことは、なんとなく、わかってきた。ひとりで生きねばならないと自分を奮い立たせる私にはまだ驕りがあるのだと思う。
恥を捨て生きることに振り切った彼らは、泥だらけかもしれないけれど本当に格好よく、逞しく、言葉にするのが難しい様々なことを引き受けたのだろうと、私は思っている。
社会的な話に触れると、ここ最近は、自助が大切、どれもこれも自己責任です、というムードが強まっていて、人に助けを求めるハードルがどんどん高くなってきたように思う。少なくとも私の周りには、日頃自分の気持ちを抑圧して、いざなにか大きな困難にぶつかったときに、そうでなくても何かふとした拍子に、耐えきれず崩れてしまうやさしい人たちが、多い気がしている。
この歌詞の如く、本来ならば誰かに縋りつこうが、泣き喚こうが、して構わないのだと思う。するべきだと思う。私はしてほしいと思う。私は社会にそれを受け入れる懐の深さや実際的な仕組みを求めるし、私自身も、自分ができる範囲で、になってしまい申し訳ないが、持っていたいと思う。自分に持っていてほしいと思う。
なんていったって、私自身もやはり、とんでもなく助けてほしい時があるからである。助けたいし、助けられたい。一方的に助けるでもなく(自分が潰れてしまったら元も子もない)、一方的に助けられるわけでもなく(助けられてばかりでは申し訳なさで生きていけない)、お互い様よね、というムード、みんながそれを当然と思っている文化がいいなと思う。もう少し言うと、自分自身の身近なところから、そういった文化を創っていけたらいいなと思う。
当時の文化を私は知らないけれど、今を生きる私としては、リリース当時の若者にとって、この曲はどれだけ心強かったことだろうと思う。今の日本で彼らがこれだけ遮二無二叫んでくれたら、今の鬱屈した空気の1/3くらいは入れ替わってくれるんじゃないかと、つい私は期待してしまう。
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はじめ、ここ最近の鬱屈した気分を晴らしたい、という欲求をきっかけに、テーマもなしにnoteを開いた。尊敬する村上春樹さんが冒頭のようなことを書いてらっしゃったので、ものは試しと一旦当初の目的は忘れ、がむしゃらに書いてみた。
結果的には自分で思っていたとおりというか、かなり気分は楽になっている。「精神」が「解放」されたのだろうか。まさか自分が社会的な話に触れるとは思っていなかったので、自分の無意識下を少し覗けたような気がして嬉しい。
尊敬しているとはいえ、私は彼のことをまだまだ全然理解していないのだろう。少しワクワクする気持ちでここに至る。彼の言葉を借りると、神話的なことが起きたのだろうか。そんなことはない気がする。私は何かその文章について、誤解しているのかもしれない。彼のいう「精神の解放」って、どういう意味なのだろう。少し長くなってしまったし、私自身も疲れてしまったので、また別の機会に考えてみることにする。
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