私にヨガの先生はできません!【第十七話】最悪なこと
ホットヨガスタジオはいつも通りの温かさだった。照明の加減も、床のクッション性も、音の響き方も、すべてがおんなじ。
でも、なんだか視界にモヤがかかっているような感じがする。ピントが合わないカメラを覗き込んでいるような、彩度の低い古びた映像を見ているときのような、そんな感覚だ。
おかしいな。寝不足? 体調が優れてないのかも。
いや、今は気にしてなんかいられない。
だって、レッスンの参加人数が三十五人。ずっと憧れていた満員だ。
私は俄然やる気になった。人気インストラクターとしての一歩を踏み出したのだ! そう思ったから。
「では、ここから立位のポーズです。先に、水分補給しておきましょう」
いつものように、お水を飲んでもらおうと声掛けをする。ところが、誰も言葉の通りに動いてはくれない。
あれ?
そこで私は気づく。受講してくれている人たちがずっと無表情であることに。さっきから、呼びかけへの反応が薄いことに。
「マットの中央に立ちます」
とにかくレッスンを進行しなくては。そう思いインストラクションを続ける。二十五人の参加者たちは、気だるそうに立ち上がる。
そのとき、一人がタオルやペットボトルを手に取り、こちらをちらりとも見ずに、そそくさとロッカールームへと繋がる扉の方へと歩いていく。つられるように、二人が後に続く。
え、と焦るものの、ここで追いかけていてはレッスンにならない。私はなんでもないように装いながら、インストラクションを続ける。
しかし、その後も一人、二人とスタジオを立ち去って行く。そして、六十分のレッスンが終わる頃には、ただ一人だけになっていた。
「あのう」
最後まで残ってくれた唯一の参加者である、夏川さんが、声をかけてくる。
「はい」
「私、今月で退会するんです。一応、笹永さんには伝えておこうと思って」
「え? お忙しいんですか?」
私は慌てて尋ねる。
「いえ。そういうわけじゃないんですけど、べつのヨガスタジオに行こうと思って」
夏川さんは気まずそうに視線を逸らし、軽く頭を下げて去っていく。
「ま、待って」
夏川さんの背中を追って、私はロッカールームへと飛び出した。
そこには、誰もいなかった。
それどころか、視界いっぱいにいつもと違う光景が飛び込んでくる。
天井の蛍光灯は、今にも停電しそうにちかちか光っているし、その周りには小さな虫が飛び回っている。不気味な模様の羽根をした蛾。剥がれた壁と、くすんだ床。
底冷えするような空気に肌を撫でられてざわりと鳥肌が立つ。体中の熱が奪われていく。このままじゃ、皮膚が凍ってしまう。
「なに?! どこ? ここ?」
私の知っているホットヨガスタジオ・Vegaじゃない。まるで、何十年も放置された廃墟の地下のよう。
「誰か……。誰か!」
助けて。
どん! という大きな音にはっとする。床に敷かれたラグに描かれた葉っぱの模様が、超ドアップで顔の前にある。毎日、自室で見るやつだ。
「あ……」
ベッドから自身の体が落ちたのだと理解したのは、それから五秒ほどが経ってからだった。
「はあ」
一緒に床に落ちてきた触り心地の良い毛布を握りしめて大きく息を吐く。
夢で、よかった。
まだ、心臓がどくどくと大きな音を立てている。落ち着かせるように肩を撫でながら時計へと視線をやった。まだ起きる予定の時間まで三時間もある。
私はプールサイドに上るセイウチのように、マットレスによじのぼり、ぎゅっと目を閉じた。
やっと、高校生のときの弁論大会の夢を見なくなったと思ったのに、こんどはこのありさま。不安なこと、心配なことがすぐに夢となって表れて、キリキリと心を蝕むストレスを与えてくる。こういうの、ほんといやになる。
「はあ」
大きく深呼吸をしようと思ったのに、ただのため息になる。
えりかさんにアドバイスをもらってから、ブログを更新したり、入会手続きを担当した人に声を掛けたりと、できることをやってみた。他社のホットヨガ体験を受けてみたり、姉妹店に行って、橘さんのレッスンに参加させてもらったりもした。
でも、一週間しか経っていないということもあってか、あんまり効果は実感できていない。そんなにすぐに変わらないと頭ではわかっていても、焦りはどこからともなく湧いてくる。
とにかく今は、もう少し眠っておかなきゃ。
そう思うのに、頭はすっかり冴えてしまって睡魔の「す」の字も見えやしない。
私は眠ることを諦めて、毛布の中で体を小さく丸め、太陽が昇ってくるのを待つことにした。
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