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私にヨガの先生はできません!【第十話】トラブルと信頼

第九話「ひとりぼっちのポスティング」はこちら
第一話「無理です!」はこちら

 次の日は、ネットで見た天気予報の通り朝から雨が降っていた。
 私は部屋の遮光カーテンを開ける。
 晴れの日なら一気に光が入ってくるけれど、どんよりとした曇り空のせいで、室内は明るくならない。
 電気をつけないと。
「リモコン、どこやったっけ」
 そう呟いたときだった。スマホの着信音が鳴った。画面に表示されているのは、「Vegaベガ」の文字。
 私は応答ボタンを押しながら、カレンダーへと視線をやった。薄暗い部屋の中で、ゴシック体の「2月」という文字が、ひっそり存在感を放っている。
「はい。笹永ささながです」
 今日は遅番シフトで間違いないはず。
めったにかかってくることのない店舗からの電話は、私の背筋をピンと伸ばした。
「あ、いと葉? 悪いわね。朝から」
 電話の向こう側にいるえりかさんはいつもより早口で、何かがあった、ということを私はすぐに理解した。
 アルバイトの子が風邪でもひいて、人が足りないのかな。
「いえ、どうしましたか?」
「昨日、ポスティングに行ったわよね?」
 その言葉を聞いた途端、なんとなくイヤな予感がした。
「たしかに、行きました。なにか、ありましたか?」
「……あのね。さっき、マンションの管理人さんから電話があったのよ。いと葉の担当ポスティングエリアのね」
「はい」
「なんでも、うちのチラシがマンションのごみ捨て場に捨てられてたみたいで……。いと葉、出勤前にそこ行って、回収してきてくれないかしら? この後、メッセージで住所を送るから」
「……はい」
 スマホを持つ手が震えた。
 やられた、と思った。あの男性は、私から三千円を受け取った後、マンションのゴミ捨て場にチラシを捨てたんだ。
「まさか、いと葉が嫌になって捨てたわけじゃないとは思うけど……。とにかく、回収が先で話はあとね。管理人の方、少しお怒りなの。勝手に捨てていくなって」
 えりかさんは淡々と言った。
「……わかりました」 
 腹の底からふつふつと込み上げてきたのは、男性に対する怒り。
 でも、私はあの人の電話番号や住所を知らないどころか、名字すらわからない。
 悪いのは、見ず知らずの人を信じて、簡単に仕事を任せてしまった自分なのだ。わかってる、そんなことは……。
 電話を切った後、私は急いで身支度を整え、えりかさんから送られてきた住所を頼りにマンションへ向かった。

「困るんだよねえ。こういうの。脅すようで悪いけど、場合によっちゃ、産業廃棄物処理法に違反するからね」
 マンションの管理人はぶっきらぼうに言いながら、ゴミ捨て場に案内してくれた。
「申し訳ございません」 
 私はただ謝ることしかできない。
「ここだよ、ここ。念のため、チラシは動かさないで置いてあるよ。おたくが委託してるポスティング業者の仕業なら、写真とか撮った方がいいだろうからね」
「あ、ありがとうございます」
 お礼を言いながら、その場所を見て息を飲む。
 私はてっきり、積み上がったチラシが、そのままそこに置いてあるのだと思っていた。昨日とおんなじ状態で。だから、回収した後にあらためて配布すれば、ひとまず問題は解決するんじゃないかって。
 でも、甘かった。
「昨日の夜から雨が降っていたからね」
 管理人さんの声がかすかに届く。
「ひどい……」
 私は傘を差したまま、捨てられたチラシの傍にしゃがみ込む。そこは屋根がなく、雨水が容赦なく、ゴミ袋の群れを濡らしていた。当然、チラシはぐちゃぐちゃに寄れて、あちこちのインクが溶けだしている。誰にも見向きもされないゴミと化している状態だった。
「ああ、やっぱり、業者の仕業? たまーにあるんだよね、こういうの。ほら、写真撮っておいた方がいいよ」
 管理人さんの声がいくらか和らぐ。あなたも被害者なんだね、と言われているような気がした。
 合っているけど、違う。正式に会社として依頼していたわけじゃないから。
「……はい」
 言われるがまま、スマホの撮影アプリを立ち上げた。真面目に仕事をしてくれている取引先のポスティング業者さんを悪者にしてしまっている。
そう思うと、罪悪感からか胸がチクリと痛んだ。だからといって、ここでマンションの管理人さんに事情を説明したところで何かが解決するわけでもない。
 雨粒が傘を叩く音の中、カシャッというスマホカメラの乾いた音が、むなしくゴミ捨て場に響いた。
 私は自宅から持ってきた紙袋を広げて、チラシだった紙の束に手を伸ばす。それらは、思っていたよりも冷たく、硬くなっていた。
 いつも見ていたチラシたちは、生きていたんだ。
 今になってそう理解する。
 紙袋に濡れたチラシを入れると、雨水を吸って底の色が変わった。
「大丈夫かい、その袋で? ビニール袋、貸そうか?」
 多分だけど、破れはしないはず。
 管理人さんのご厚意を断わり、頭を下げる。あらためて、謝罪をしてその場を去り店舗へと向かう。
 歩きながら、どうしよう、と思った。
 男性に依頼したのは六百枚。この量を見る限り、五百枚ほどは残っている。彼は、ほとんど配布せずに捨てたんだ。途中で向いていないと思ったのか、それとも単に面倒臭くなって魔が差したのか……。
 魔が差した?
 それは、私じゃないか。
 紙袋の取ってを震えるくらいにぎゅっと握りしめる。
「金額は……。デザイン費と印刷費、それを今回のトータル部数で割るとなると……」
 以前、岩倉いわくら店長とえりかさんが話していた内容を思い出す。
「一枚あたり、六~八円くらい? 五百枚なら、三千円から四千円」
 計算式の答えが出たとき、少しだけほっとした。これが、数万円や数十万円になると、とんだ失態だ。
 とはいっても……。
「お金の問題じゃないからね」
 ペンタスガーデンのエントランスをくぐり呟いた。重たい足をひきずるようにして、エレベーターに乗る。このままずっと動かなければいいのに。そう思いながらも、体は普段と同じように慣れた手つきで「3」と「閉」を押していく。
 いつもなら非日常の世界へと繋がる私の好きな空間も今は味気ない。
 そうなったのは、紛れもなく自分のせいだ。スタッフとして絶対にやってはいけないことをしてしまったのだという後悔の念が、今になって押し寄せてくる。
 ……ちゃんと、謝らないと。
 私はエレベーターの鏡に映る青白い自分に向かってうなずいた。
「いと葉、待ってたのよ」
 スタッフルームに入ると、そこにはえりかさんと岩倉店長がいた。ぴりついた空気が、逃がさないぞといわんばかりに、肌にひしひしと纏わりついてくる。
「あの……。申し訳ございませんでした」
 勢いよく頭を下げると、スタッフルームの無機質な床が、視界の隅々にまで広がった。
「チラシってそれ?」
 岩倉店長の声は一度も聴いたことがないくらいに低く鋭かった。
「はい。こちらに」
 震えそうになる手を紙袋の中に突っ込み、私は例のチラシの束を取りだして見せた。
 奇跡が起こり、元通りになっているわけもなく、それらはしなびたままだ。インクがどろどろに溶けていて、ところどころ文字も読めたもんじゃない。
「……これじゃ、配り直せないわね」
 ため息交じりにえりかさんが言った。
「……すみません」
 岩倉店長は無言のまま、じっとチラシの束を見下ろしている。
「それで、いと葉。どんな事情があるの?」
 私はポスティング途中に男性と出会ったこと、その人にお金を支払って仕事を任せたことを話した。
「は? ……ありえん」
 こめかみをぐりぐりと押しながら、岩倉店長が呟く。その妙に落ち着いた声のトーンと見慣れない仕草からは、明らかな怒りが見て取れて、私は思わず息を飲む。
「申し訳ないです」
 さっきから出てくるのは、同じ謝罪の言葉ばかり。何か言わなきゃと思って焦るのに、何を言っていいのかわからない。
「最悪なことをやらかしてくれたな。正直言って、怒る気が失せるくらいに呆れてるぞ、俺は。こんなこと、今までに聞いたことがないからな。はあ。……有栖ありす、悪いが後を頼めるか? この後、すぐにあっちでレッスンがある」
 岩倉店長はそう言って私を一瞥すると、こわばった表情のまま静かに去っていった。
「いと葉、とりあえず座ったら?」
 えりかさんが椅子の背を指先で叩く。
 促されるまま、私は腰を下ろす。
 スタッフルームには、沈黙が流れる。
 フロントからは、会員さんとアルバイトスタッフの天野あまのさんの笑い声が聞こえてきた。
「聞いてー。ここのホットヨガに通ってから、友達に顔色が良くなったって言われるのー」
「それは、いいことですね!」
「もうねえ、すっかり週一の習慣よ。もっと早く来ればよかったわー」
 いつものありふれた会話が、今になってありありと頭に残る。まるで、もう二度と戻れない日常のワンシーンを噛みしめているような感じだった。
「ねえ、いと葉……」
 えりかさんがじっと目を見つめてくる。
「はい」
「あのね、あたし思うんだけど、普段のいと葉ならこんなことしないわ」
 その言葉を聞いた途端、目の前の優しい先輩に甘えて涙が出そうになってしまう。
 そうだ、あのときは心理状態がいつもと違っていた。
 失恋したし、友人と喧嘩した。
 悲しいことが続いたせいで、私はおかしくなってしまったんだ。そう言い訳して「それなら仕方ないわね」と、慰めてもらいたい衝動に駆られる。
「いつもの私、ですか?」
 今にも喉から落ちてきそうなずるい言葉と涙を飲み込み、小さな声で尋ねる。
「そう。絶対に、こんなことしない。違う?」
 えりかさんは「絶対」というワードを強調して言った。
 そこで私は、思っていた以上に先輩から信頼されていたんだってことを実感した。同時に期待を裏切ってしまったのだということに気づいて、息が詰まる。
「それは、そうかもしれません」
「いと葉だから単刀直入に言うけど……」
「はい」
 私はどんなに厳しい言葉も受け止めるつもりだった。
「ヨガのインストラクターとしてデビューするの、そんなに負担になってるなら止めた方がいいわ。あたしも一緒に岩倉店長に伝えてあげるから」
「え……?」
 えりかさんが言ったことは、私がまったく想像していなかったことだった。
 私が研修とインストラクターデビューへのプレッシャーに追い込まれて、こんなことをやらかしたのだと思ったのかもしれない。
 違う、違うんだ。
「無理するくらいなら止めた方がいいわ。これは、ネガティブな意味じゃなくて、べつに、他にも仕事はたくさん……」
「違うんです!!!」
 えりかさんが言葉を言い終わる前に、私は大きな声を出していた。
 そりゃあ、ヨガのインストラクター研修は大変だ。デビューへの怖さだってあるし、それがカレンとの喧嘩の原因にもなった。
 だけど、それが負担になって仕事に支障が出ているだなんて、思われたくない! ましてや、インストラクターデビューを止めた方がいいだなんて、言われたくない!
「……いと葉?」
 えりかさんが茫然とこちらを見ている。
「……え?」
 自分の口からはまぬけな声がぽつりと漏れた。
 あれ?
 私……。本当は、わりとデビューしたかったの?
 まさか、こんなところで本心に気づくとは思わなかった。 
「違うってどういうこと?」
「……今回のことは、私がプライベートであった嫌なことを仕事に持ち込んだだけなんです。やけになって、知らない人に依頼して……。反省しています。ヨガのプレッシャーもたしかにありますけど……。それは、今回の件の大きな要因じゃないんです。だから、デビューも止めるつもりはありません!」
 最後の一文で声が大きくなり、肩が揺れた。
 呼吸が荒くなり、息苦しい。
「それは本当? 無理をしているのではなく?」
 えりかさんの表情はまだ硬い。
「はい。ほんとです。……本当にすみません。えりかさんの信頼を裏切るようなことして。私、どうかしてました」
 イスから立ち上がり、頭を下げる。そのまま酸素を吸って、吐いて、心臓がどきどきと主張するのをなんとか落ち着かせようと試みる。
「もういいわよ。今後、同じことをしなければそれでいいの。店長が言っていた通り、前例は聞いたことがないし、チラシも戻ってこないけど、会社の存続にかかわるほど重要事項ってわけでもないんだから。あ、今言ったことは店長には内緒ね。ほら、座って。いと葉」
 えりかさんの言葉は、そこでやっと和らいだ。いつもの、透き通っているけど力強さを感じる声。私はゆっくりと顔を上げた。
「岩倉店長にもあらためて、電話しておきます」
「ええ。私からもフォロー入れておくから」
「すみません」
「よし! じゃあ、この話はこれでおしまい! 着替えてらっしゃい」
 空気を変えるようにパンっと手を叩いて、えりかさんが言った。
「はい!」
 私は大きくうなずいた。
 
 お店の雰囲気を悪くしないようにと元気なふりして振舞っていても、頭の中には、何度もボロボロになったチラシの映像が蘇ってくる。
 会員さんのチェックインを見守っているときも、洗面台の蛇口をマイクロファイバーでぴかぴかに磨いているときも、トイレットペーパーを交換しているときも……。「なんてことをしちゃったの」「これで、評価は下がっちゃったね」と、もう一人の自分が責めてくる。今、頭の隅に出てきてそんなこと言うなら、あのときに止めてくればよかったのに!
 そう言い返したくなるけど、結局、自分対自分の終わらない言い争いだ。
「はあ」
 私はトイレの個室で小さくため息を吐いた。
 やってしまったことは仕方ないともいうけれど、決して起こったことがリセットされるわけじゃない。
 私が過去にやらかした事例として、このことはずっと残り続ける。そう身をもって実感した。
 お店が落ち着いた頃を見計らって、私はフィットネスクラブ・Altairアルタイルに電話をかけた。
 最初に対応してくれたのは、一緒にヨガのインストラクター研修を受けている雲井さんだ。
 私は岩倉店長への取次ぎをお願いした。保留音が流れる。心臓がざわざわと騒ぎ出す。
 今謝ったからといってチラシが新品になって戻ってくるわけでもない。
 でも、反省していることと、もう同じことをしないということ、どちらも伝えないといけないってことはわかる。
「もしもし」
  岩倉店長の声はさっきより、ほんの少し柔らかいような気がした。いや、これは電話越しだからそう聞こえるのか、ただの願望なだけかもしれない。
「あ、笹永です! すみません。レッスン終わりに……。あの、ポスティングの件、本当に申し訳ございませんでした。取返しのつかないことして。今回のような結果になっていなかったとしても、そもそも勝手に他人に委託するのが間違っていました……」
「その件か。もう、有栖ありすとは話したんだろ?」
「はい」
「なら、俺からはもう言うことはない。時間の無駄だからな。こっちもさっき本社に伝えといたから。始末書は書いてもらうことになる」
「あの、私も本社に電話します。どなたに……」
「いや、必要ない。もう、俺が謝ったからな」
 岩倉店長は、こちらの言葉を遮るようにぴしゃりと言った。
「でも……」
 こういうのって、直接、伝えなくていいんだろうか。
「笹永。上司の立場を奪ってくれるなよ」
 どこか困ったようなニュアンスで、岩倉店長は言った。
 上司、という単語が頭に浮かぶ。
「……わかりました。ありがとうございます」
「この後、始末書のフォーマット送っておくから、書いたら、俺に返信してくれるか?」
「はい」
「じゃあ、よろしく」
 岩倉店長は、仕事を頼むときと同じ調子で言った。
「はい。失礼します」
 電話が切れるプツリという音が鳴る。
「岩倉店長……」
 ぽつりと呟く。
 正直、彼のことは、上司というよりも、自信たっぷりでナルシストな一人のスタッフだと認識していた。入社直後の研修担当も、困ったときに助けてくれるのも、いつもえりかさんだったから。
 基本的に店舗にはいないし、じっくり話したこともない。
 むしろ、ちょっと前までは、ヨガのインストラクターを目指す、という無茶ぶりをしてきた、やっかいな人だとすら思っていた。
 でも……。
 恥ずかしながらやっとわかった。岩倉チカラ店長は、まぎれもなく、笹永いと葉の上司なんだ。
 ありがとうございます、とあらためて心の中で小さく呟くと同時に、新着メールが届く。
 それは、始末書のフォーマットを添付した岩倉店長からのメールだった。


第十一話:「ぬぐえない不安」へ

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