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私にヨガの先生はできません!【第七話】清掃と恋バナ

第六話「レンタルスタジオと片井虎太郎」はこちら
第一話「無理です!」はこちら

 本当なら、水曜日はヨガのインストラクター研修がある曜日なのだけど、二月のこの日は、先生の都合が悪くお休み。
「うう、手が冷たいです」
 ドーナツ型のドライヤーのフィルターを水洗いしながら、私は肩を震わせた。スポンジみたいな素材でできた薄いそれは、放っておくとどんどん埃にまみれてしまうから、たまにこうやってお手入れしないといけない。
「冬はこれ、辛いわよねえ。でも、あと少しよ」
 隣で同じ作業をしているえりかさんの手元に視線をやると、私とおんなじように、指先の皮膚が赤くなっていた。
「これ、洗って取り付けが終わったら、次はエアコンのフィルター掃除でしたっけ」
 刺すような水の冷たさから逃れるように、私は少し先のことを思い浮かべる。
 うちの店舗の場合、毎日のシャワールームとロッカールーム、お手洗いの清掃は業者に依頼しているけれど、こういう細かいところは社員が中心となって自分たちで綺麗にする。なんでもかんでも外注していると、本当にお金がかかってびっくりする。
 私がヨガのインストラクター研修で不在のときは、アルバイトの天野あまのさんや川江かわえさんが代わりにやってくれていたらしい。
「そうね。その前に休憩しましょうか。あ! あと、レンタルロッカーの空いてるところも拭かなくちゃ。今日は他の業務ができそうにないわね」
 休館日は接客対応がない分、たまった事務仕事を片付けられる絶好のチャンス。でも、今日みたいに、清掃に力を入れる日はそこまで手が回らない。
「ですよねー。あ! フィルター掃除する前、ちゃんとマスクしないとですね」
「そうね。あれ、いつだったかしら。いと葉ったら、くしゃみがまったく止まらなくなってたものね」
「えりかさんだって、目が真っ赤でしたよ」
 二人でクスクスと声を上げ、いやいや笑い事じゃないと突っ込みを入れる。
 今日は私にとって、久しぶりの清掃日。
 大変ではあるけれど、嫌いじゃない。ランチ休憩のときに、えりかさんと話ができるから。
 業務中だと雑談していられないし、シフト制だから、休憩も被ることがない。
 えりかさんは流行に敏感だ。
 駅前にできた有名なスイーツ店のことや、発売されたばかりの美容液のこと、最近リリースされた睡眠アプリのこと。色んな話を聞くだけでワクワクする。
 それから、ちょっぴり恋のはなしも。
「そういえば、いと葉。あれから、彼からは連絡きたの?」
 私がコンビニのサラダパスタを頬張っていると、えりかさんが思い出したように言った。
「あー。もう。聞いてくださいよ。連絡がこないどころか、こないだも約束ドタキャンされたんです。これで何回目か、数えるのも疲れました」
 プラスチック製のフォークをどこか元気のない萎れたキャベツに突き刺す。
「そうなのねえ」
 たまに、私はえりかさんに恋愛相談をする。直接、彼のことを知らない分、話しやすいのかも。今の彼からあまり連絡がないということも、こないだ話したばかりだ。
「さすがにもう、無理そうな気がします」
「付き合って十ヶ月くらいだっけ?」
 私は「はい」と小さな声で返事をする。
「いと葉は、まだ好きなのよね? たしか、地元の知り合いだったわよね?」
「好き……ですね。今も別れたくないって思うから天点。はい。久々に地元の集まりに参加したときに再会したんです。中学生のとき、好きだったっていわれて、ときめいたんですよねえ」
「ふふ、なーんかそれ、ドラマみたいね」
「そうなんです! それで、舞い上がっちゃったんですけど、あっちも好意を持ってくれていたみたいで。その後、二人で食事しているうちに……っていうのが馴れ初めです」
 付き合ったばかりの楽しかった頃を思い出しながら、私は言った。
「まあ! 素敵ね」
「でも今はって感じです。あんなに、色んなところ連れて行ってくれたり、頻繁に連絡くれたりしてたのに……」
 どこからともなく込み上げてきたため息が零れる。
「単純に忙しいって可能性は? 仕事との両立が難しいとか」
「仕事が忙しいのはホントだと思います。でも、せっかく会えたときも、熱が冷めてる感じが伝わってくるんですよね。こう、なんていうか感覚なんですけど」
「ああ。そういうの、なんとなくわかるものね」
「はい……。ああー! もうどうしたらいいのかわかんないです」
 フォークからこめかみへと移動した右手の指先が、そこをぎゅうぎゅうと押す。頭で考えてもどうしようもないとき、気づくと私はこうやっている。
「……いと葉的には、こうしたいなあとか希望はあるの?」
「え?」
 不意打ちのように飛んできた質問に素っ頓狂な声を上げる。どうしたいと聞かれても、ここまできたら、もうなるようにしかならないと思ってた。
状況が良くなるも、悪くなるも、相手次第だから。
「なにか、思うことはあるんでしょう?」
 チョコレート色をした、えりかさんの瞳がじっとこちらを見ている。
 彼女の口調は優しいけれど、表情はいたって真剣だった。業務のことでミーティングしているときとおんなじくらいに。
「私は……。また一緒にどこかに出かけたり、美味しいもの食べたりしたいんです」
 気が付くと、そう答えていた。
「そう」
 穏やかな相槌に促され、私は言葉を続けた。
「よくよく考えてみれば、いつも彼から誘ってもらってばかりで、デートプランも任せきりだったから、それも負担だったのかなって……。もし、チャンスがあるなら、今度はこっちからも色々提案してみようかなって」
 ぽつりぽつりと話しながら驚く。
 頭の片隅にいるもう一人の私が、勝手にぺらぺらとしゃべっているみたいだった。「そんな風に感じてるんだ」と、どこか他人事のように理解する。
 つくづく、自分のことはあまりよくわからない。
「最高ね。いいじゃない。受け身でいるなんて退屈だもの。あのね、いと葉。女性は一歩後ろに下がって……だなんて、昔話よ! 今は令和なんだから!」
 いつもに増して力強く言い放った後、えりかさんはガブリと低糖質なブランパンに齧りつく。その仕草は、ほんの少しワイルドだ。
「そうですよね。うん! ちゃんと、気持ち伝えてみます。うまく言えるかどうかは、わからないですけど……」
 えりかさんは笑顔でうなずいた。
 言われてみれば……。
 これまで、目の前にやってくる事柄をそうするのが当たり前かのように、私はただ受け取るばかりだったような気がする。
 恋だけじゃない、仕事も。
 良いように言えば従順? 悪くいれば消極的? 自分から動くだなんて、考えたことすらなかったかも。
 今思えば、高校一年生のときの弁論大会も立候補じゃなくて推薦だったっけ。
 あげくの果てに二年生と三年生のときには、誰かがもう一度推薦してくれたのならリベンジできるのに……だなんて考えていた。
 自分から、もう一度やりたいと手を上げればよかっただけなのに。
「いと葉? どうしたの、ぼうっとして」
 えりかさんの声が、私の意識を高校の教室からベガへと引き戻す。
「いえ! すみません。なんでもないんです。えりかさんのおかげで、ちょっと気分上がってきました! できること、やってみます」
「そう? 応援してるわね」
 プラスチック製のフォークを、今度はプチトマトに刺す。
ツヤがあってみずみずしいそれは、思っていたよりも甘くて美味しかった。

第八話:「カレンのこと」へ続く

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