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私にヨガの先生はできません!【第六話】レンタルスタジオと片井虎太郎

第五話「ヨガ研修の受講生」はこちら
第一話「無理です!」はこちら

 駅前のメインストリートが早くもバレンタインムードに包まれつつある一月のある日。
 レンタルスタジオの一室に足を踏み入れた私は、ぶるりと肩を震わせた。
 エアコンのリモコンのスイッチを押して、照明の明るさを調整する。廊下に接している窓のカーテンをきっちり閉めることも忘れない。
 それから、研修資料が挟まったファイルを取り出して、キンキンに冷えた床に広げた。
「ええっと、これと……」
 ヨガインストラクター研修の後半はより実践的になる。他の受講生の前に出て、ポーズの説明や体の動かし方、効果を解説をしなくてはいけない。
 いわゆるインストラクションというやつだ。
 正直、ヨガのインストラクターとしてデビューすることにはずっと迷いがある。でも、せっかく教えてもらえるなら、研修は最後までやり遂げたい。
なにより、八人いる受講生の中で、自分一人だけ途中でリタイアしたくない。その気持ちは大きかった。
 研修プログラムのラストにあるレッスン形式の卒業テストに合格するためにも、もっと練習が必要だ。そう思ったのは、研修がスタートしてわりと早い頃だった。休館日や閉店後なら、店舗のスタジオを使えるけれど、営業日の昼間はそうもいかない。
 えりかさんに相談すると「ここなら予約もとりやすいはずよ」と言って、とあるレンタルスタジオを紹介してくれた。
なんでも、アイドル時代によくここでダンスのレッスンをしていたらしい。
「ああ、有栖ありすさんのお知り合いなんですね。そういえば最近お見掛けしませんね。元気にされてますか?」
 二ヶ月前、初めてここに来た時、受付の人はそう言って笑っていたから、えりかさんはよく知られているんだと思う。
「あ……」
 そこで私はやっと気づいた。
 それだけ、ここに通っていたってことなのかも。このスタジオで、一人ダンスの練習に励む昔のえりかさんを想像してみる。完璧に見える彼女も、ふりつけを忘れたり、間違えたりすることがあったのかな。わからないけど、もしもそうなら、たくさん練習したに違いない。
「……私も頑張らなきゃ」
 ここのレンタルスタジオは、前面と右側の壁がすべて鏡張りになっていた。
 英雄のポーズ、三角のポーズ、木のポーズ。私はそれぞれのポーズの効果や注意点を思い出しながら、体を動かしていく。ウォーミングアップだ。
 次に、持ってきたコンパクトな三脚にスマホをセットして、スタジオの一番後ろに置いた。撮影する範囲を調整し、録画スタート。
 私は正面の鏡の前に立ち、習ったポーズのインストラクションをしていく。こうやって撮影した動画を見てみると、客観的にダメなところをチェックできる。
 だいぶマシになった、と思う。
 私は撮影した動画を見ながら、大きくうなずく。声もちゃんと届いているし、ぎこちなさもほとんどなくなっている。まだポーズの細かい部分は気になるけど、この調子で練習すれば、テストまでには間に合うはずだ。
 最初の頃は、スムーズにいかず、手足の動きが挙動不審になったり、言葉がつっかえすぎて何を言っているのかわからなかったりとさんざんだった。
声がだんだんと小さくなっていったり、伝えなくてはいけないことを忘れたりすることも。
 インストラクションのチェック中、最後まで見ていられなくて、再生停止ボタンを押してしまうなんてことも、一度や二度じゃなかった。
「次、なんだっけ?」
「このポーズの効果は……、えっと、それで……」
 あのときは、スマホに録画されたデータを見ると、目を覆いたくなるような自分の姿が映っていた。
 その映像を見るたびに、怖くなった。
 やっぱり、無理なのかもって。研修のラストにあるレッスン形式のテストや、デビューしてからの本番環境では、インストラクションは当たり前にできて、かつ会員さんの動きをチェックしていかないといけないから……。
 健康のためにヨガをはじめる人も多いけど、誤ったやり方をすると思わぬケガに繋がってしまう。膝や腰、首を痛めることもある。そうならないために、会員さんが安全にポーズをとれるように促すこともインストラクターの大切な役割のひとつ。
 前に比べたら、インストラクションはスムーズになってきたから、周りを見る余裕も少しは生まれているはず。
「うん。この調子なら、ひとまずテストはいける!」
 私は自分に言い聞かせる。
 あらためて、このヨガインストラクター研修プログラムは凄い、と思う。真面目に受けて、練習さえすれば、ちゃんと知識やスキルがつくのだから。
 それは、参加している受講生全員に共通することだ。
 だけど……。
 実際のヨガインストラクターデビューに必要となるのは、皆が平等に得られる知識やスキルだけじゃない。そのことは、痛いほどよくわかっているつもり。そのスキル以外の内面的なものこそが、私の不安を煽ってくる原因でもあるのだから。
 そこではっと我に返り、時計を見上げる。
「そろそろ、時間か」
 レンタルスタジオを借りられる時間は決まっている。
 今日はここまで、と思い荷物をまとめて廊下へと出ると、すぐ隣のスタジオが視界に映った。窓にカーテンがされておらず、スタジオ内が見える状態になっていたからだ。
 そこにいた身長の高い男性は、ホワイトボードの前でジェスチャーをしながら、誰もいない空間に語り掛けているように見えた。
「会議の練習?」
 一人呟いた声は、コンクリート製の廊下に響く。
 最初にレンタルスタジオというワードを聞いたとき、思い浮かべたのはダンスや芝居の稽古だった。今なら、さまざまなレッスンを持つインストラクターが使うこともあるんだろうなって想像できる。
 でも、こんな風に会議やプレゼンテーションに備える人がいるとは思わなかった。
 そんなことをぼんやりと考えていると、男性とばちりと目が合った。
 まずい。
 私は小さく頭を下げて、そそくさと立ち去ろうとした。
「あの!」
 エレベーターを待つ時間がもどかしく、階段を下りようとしたとき、背後から声をかけられた。悪いことをしているわけじゃないのに、思わずびくりと肩が揺れる。
 振り向くと、先程の男性が立っていた。
「あ、すみません。さっき、見てたの意味はないんです」
 苦し紛れのいいわけをしながら、私はぺこぺこと音が鳴りそうなくらいに、小刻みに頭を下げる。清潔感のある黒髪のツーブロックヘアにシワひとつないジャケット姿。いかにも、会社員といった風貌だ。
「あ、じゃあ、取引先の方ってわけじゃないんですね。よかったあ。てっきり、お相手の顔を忘れてしまっているのかと」
 男性はハキハキとした口調でそう言うと、ほっとしたように笑った。体格はいいけど、どこかあどけなさの残る感じ。
まだ、社会人デビューしたばかりなのかな、と想像する。
「はい。初対面です。間違いなく」
 私がはっきりと伝えると、男性はジャケットのポケットから名刺を取り出し、前かがみの姿勢となり、こちらへと差し出してきた。
「よかったら、これ」
 真っ白な名刺には、黒い文字で会社名と『営業部 片井虎太郎かたいこたろう』と書かれていた。
「かたいこたろうさん?」
 読み方があっているか、不安になる。
「はい!」
 片井かたいさんはうなずく。
 さっきから思っていたけど、とにかく元気いっぱいだ。
「あ、すみません。私、名刺を持っていなくって」
「いいんです。いいんです。うち、美容や健康系の商品を取り扱っている会社なんです。もしも、どこかでお会いすることがあればそのときは、よろしくお願いします」
 彼は勢いよく頭を下げた。
 どこかで会うって……。
 そんな偶然がほいほいと起こるのだろうかという疑問は喉の奥に押し込む。世間は狭いっていうし、営業の世界では、こういう地道なアピールが成果に繋がることがよくあるのかもしれない。
「はい。機会があれば」
 私は仕事用の笑顔を作ってみせた。
「じゃあ、僕、スタジオに戻るので」
 人懐っこい笑みを浮かべて、片井さんが頭を下げる。
「あの、練習されてるのって、会議の発表とかですか?」
 気が付いたときには、勝手に口が動いていた。片井さんは一瞬、目を丸くさせる。それから、困ったように頭を掻いて見せた。
「そうなんです。僕、説明するのが苦手で……。上司からも、熱意があるのはわかるけど、肝心の内容が頭に入ってこないって言われてるんですよね。それで、本番に近い環境で練習したいなって思って。たまに土曜日にここに来るんです」
「そうだったんですね。すみません、変なこと聞いて」
 この人は、苦手を克服するためにここにいるんだ、と思った。
「いえいえ。じゃあ、失礼しますね」
 片井さんは、そう言って去って行く。
 その背中はちっとも悲壮感を纏っていなかった。自信を無くした人のやるせなさや、重たい空気感も背負っていない。
 むしろ、青春を部活動に捧げる学生みたいに、キラキラと弾ける光に包まれているような気すらした。
「凄いな」
 思わず、ぽつりと呟く。

 片井さんが視界からいなくなった後、階段を下りようとすると、どこかのレンタルスタジオの一室から楽器の音色が聞こえてきた。
 多分、この音はバイオリン。
 途切れたり、掠れたりしながらも、有名な曲を奏でている。コンクールか発表会に向けて、練習しているのかな? と想像を働かせる。
懐かしい……。私も学生時代、音楽の授業で聞いたことがある。
「パッヘルベルのカノン」
 私はその場で少しの間、立ったまま、音に耳を傾けた。
 このレンタルスタジオの建物は広くていくつも部屋がある。どこの誰が、どのスタジオで、何のために何を練習しているのかわからない。
 年に一度の発表会かもしれないし、人生のかかったオーディションかもしれない。はたまた気まぐれにちょっと使っているだけなのかも。
 ひとつわかっているのは、私には直接、関係のないことばかりってことくらい。
 でも……。
 なぜか、そんな名前も顔も知らない人たちのかすかな気配に、励まされている自分がいた。
 私もがんばらなきゃ。
 それから……。
 みんな、上手くいったらいいな。


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