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戦争の記憶

前書き

私が直接聞いた話を記録になればと書いておく。
なお、戦争反対のスタンスは当然だが、市井の人々はそれぞれな感情があったのだと、それを分かって欲しい。
けしからん!とかそう言うのは求めておりません。やっぱりみんな極限で生きているからこそ、思う事があったんだと考えています。
僕たちが昭和の時代に歴史で習ったのは、国威発揚、誰もが戦争に前向き、聖戦万歳。って習って、反対の立場は憲兵が取り締まって。負けたら悔しくてみんな泣いていた。と教わった。
だけど、実際には戦時下でも人間は人間だった。
みんなそれぞれが一生懸命生きていたんだなと。

祖父の話

祖父は和歌山の豪農の次男だった。戦争には比較的遅くに召集され、大阪の練兵場で訓練を受けたそうだ。身長は170を超え、当時としては相当大男だったと思われる。その為、海軍は不可(船が狭い)パイロット系も無理(飛行機も小さい)と、なり陸軍の歩兵になり派遣されたのは、千葉か茨城の辺の田舎だったらしい。
そこで与えられた仕事は、軍馬の世話。農家の出だからと芋やら野菜を作るのがメインで、農耕用兼、士官の馬を世話してたらしい。
祖父は頭のいい人で、勉学がと言うよりは考えるのが上手な人。
練兵場で訓練しながら思った事が。

「あんなもの一生懸命やって褒められるから、最前線に優秀な兵隊として送られるんや。適当に使えんやつ、って思わせておけば重要な任務は任せられへん。ただし、憎まれたらあかん。捨て駒にされる。」

だそうだ。
賛否両論はあるにせよ、今の時代でも会社員として働く者として考えさせられる。一部の前線に出ないエリートや、士官はもういいとして、召集させられて従軍するにあたっては、こう言う考えも社会を生きる知恵の一つだと思う。
実際、千葉だか茨城かで空襲にも遭わず、土と馬だけで気が付いたら戦争が終わったらしいから、実感がある。
東京大空襲の時は、遠くの空が赤く見えたらしい。それで、何となく士官も含めて負け戦だなぁ…と口にはせずとも理解はしていたっぽい。
終戦の翌日、士官から馬一頭をやると言われて、歩いて和歌山まで帰ったらしい。馬は大阪辺りで食料と交換したらしいので、実質退職金だ。
勿論、当時の事だから訓練で手を抜いていれば殴られたり、理不尽もいっぱいあるし、言いたくない事もたくさん記憶にあったのだと思う。
実家は豪農だった為、戦後もそれほど食には困らずと幸運な人だった。
だから、今私が居る。
2019年没

親戚の方

大阪の地主で、一人息子だった方。祖父より数年早く生まれた為か、前線派遣組だ。しかし、陸軍で飛行兵の道に進み訓練が終わった頃には、終戦直前だった。
知覧で戦闘機のを与えられ、特攻の順番待ちで終戦を迎える
166機中、120機が出撃したと記録があるくらいだから、相当の幸運な人だったと思われる。
燃料は無い、爆弾も回ってこない、敵船の情報もすでに沖縄が戦場になってる為、良く分からないので、燃料切れで落ちるだけ。だったそう。
燃料もそうそうたくさんある訳でなく、ここぞと言う時に行かされていったらしい。
待ってる間、明日か今日かの日々で、お国の為に!って美談はそうそうなかった様だ。やはり、死ぬのは誰しも嫌だし、先に逝った方、そして自分も情けない姿を残して行けば、後の日本の為にならない。と思い、みんな表では、立派な戦士になりきっていたそう。
そっと、みなさん本当の事は先達の名誉の為にも胸にしまって、生き残った方もあの世まで持って行かれている様です。
私も、どんなに聞いても詳しい事は教えてくれませんでした。
言われれば当たり前で、10代の若者が戦時下でなければあれがしたい、これがしたいと夢に向かう人生の華の時期なのに、それが特攻と言われて納得してるはずがない。

戦後は飛行機に関わる事もなく、大阪の地主として生きてこられた。
仲間の事もあるのか、戦争のことは殆ど語られずでした。その分、若い奥様とお子さんたちにも優しい方でした。
2018年没

沖縄の取引先の方

終戦直前の沖縄戦は、やはり相当悲惨だったと語られていたが、ある程度地域差もあった模様。
気が付けば日本からアメリカに国籍が変わっており、ドルが通貨だった。
とても印象に残ったお話は、

「本土は戦後飢えで苦しんでいたと聞いたが、ここはアメリカで物も食べ物も豊富にあった。飢えはなく、道路は毎日米軍が整備して、どんどん家とお店が出来ていった。悲惨な戦争だったが復興も早かった。
こんな国に勝てるはずがない。
その後、朝鮮戦争、ベトナム戦争と兵隊が増える度に宵越しの金を持とうとしない兵隊が、どんどんお金を使った。チップも凄かった。
出撃前夜になると、有り金全部置いて行って、帰って来ない人も多かった。
高校は”国内”のハワイに行った。帰りは日本になってたので、出国にパスポートが必要になり、手間がかかった。」

実家ではドルが沖縄返還時に1$=305円で、一気に金持ちになり家が建ったそう。
交換時には混乱もあったようだ。

「少なくとも、私はアメリカの統治下時代を悪く思った事はない。少なくとも戦時下の日本政府よりはまとも、と思ってた。」

と語っておられた。
また、

「今も、地位協定とか基地問題とか色々あるけれど、土地を貸している人、中で仕事を貰ってる人、外のお店、たくさんが基地と共に生きている。
本土の人は良かれと思って反対反対、って言うのかもしれないけど沖縄から全部基地を取ったら観光だけでは生きて行けない。更地になったからって、とうきび畑か、ちょっと家が建つくらい。アメリカ軍基地をなくしたら沖縄は本当に貧しい。どれだけ貧しいのかは、フェンスの中と外の家を比べたら一目瞭然でしょ?」

沖縄の人にしか分からない、絶妙なバランスの取り方があるのだと教えてもらった。
観光や、文献からだけは分からない、そこで住む人のリアルな話。
日本であって、アメリカである島、沖縄の戦争とリアル。
表からは見えない、沖縄の裏側をそっと教えてくださいました。とても考えさせられる話を、本土のどこよりも美味いタコス屋で聞かせてくれました。お店は米兵で一杯でした。
なお、別の日に朝食に寄ったA&Wでは、朝からハンバーガーを頬張り、コーラを飲むおばあちゃんが一人で食事してました。やっぱりアメリカなのか…と思った。
今もお店を続けられているようです。お元気で。

元学徒動員の方

戦争が終わった時、悲しかったり、悔しかったりそんな思いは無かったそうです。
ただ、青い空を見上げて
「ああ、これでもう爆弾降ってこないんやな」
と、だけ思ったそうです。

負けて悔しくて泣いてる人のイメージは、戦後植え付けられたイメージで、少なくともこの方の周りでは、「あーやっと終わったか」だけで、負ける事は分かってたし、さてこれからも大変だな。と言うサバサバした感情だったそう。
大阪中心部、阿波座に住んでおられ、学徒動員で毎日弁当だけ持って、法円坂にある、大阪被服支廠に通ってたそうです。
終戦の前日、8月14日は大阪大空襲で法円坂からほど近い天満、京橋辺りにも多数爆弾が落下。この方は避難と、防空壕からたまたま生き延びたそうです。
ただ、帰り道に多数の焼けた遺体を見て、「一体こんなん、いつまで続くんかいな」と思ったと言っておられました。
子供ながらに放置されている遺体には、慣れていたそうです。
こんな中心部にまでバンバン爆弾落とされて、勝つわけがないと少年ながらに悟っていました。ただ、それは口が裂けても言えない事。

そして、翌日の玉音放送。
「あーやっと終わった。今日はもう工場行かんでええやろ」
「ほな、なんで昨日あんなにアホみたいにようさん(たくさん)爆弾ばら撒きよったんや?」と怒りを覚えたそうです。
もう、噂で京橋駅の惨状も街に伝わっていたようです。もう、明日終わるって分かっておきながら、市民を巻き添えに爆撃した14日の事は、ずっと怒りとして残っている。

この話を聞いたのは、8月14日。翌日の戦没者追悼式に向かう団体の中で聞きました。ちょうどその日、でした。
その方はこうも言いました。

「毎年、高齢で参加者が減っている。今みたいな話をみんな持っとる。でも毎年ちょとずつ死んで消えて行く。どっかに教科書みたいなことやなくて、戦争中に普通に生活してた人の本音も残さなあかん。みんな鉄砲撃ったこともない人らや。でもな、もう難しい。毎年14日と15日に晴れた空見て、あの時の光景を思い出す。
爆撃されへん喜びを思い出す。
大阪も、なーんもなくなった。
でも今はこうやって新幹線も飛行機もある。服もええのん着てる。自分らのやる事はもうやった。次は君らがどうするかや。
そう思うから、何十年も黙ってた事おしえたんやで、もうあの誰のんか分からん遺体とか思い出したないねん。平和な国で、平和な時間に必要のない記憶や。このまんまわしらと一緒に死んで、消えればええ記憶や。でもな、人間アホやから、完全に消えたらまたおんなじことしよる。だから、やっぱり知ってもおいて欲しいねん。ここも戦場やってん、ほんのちょっと前にな。」

最後に

今もウクライナで戦争をしている。昔と違い、様々なメディアでそれを見る事が出来る。衝撃的だがどこか実感がない。
だが、日本も戦場の一つだった時代がある。他国の現状も大事だが、自国の歴史の詳細をもっと大事にすべきではないだろうか?
たった5分、体験者から聞く言葉は生涯心に残る。そこからたくさんの事を考える。自分が生きてるのはちょっとした運命が繋がっただけだと知る。
日本の周辺も、何となく動きが怪しい。
中国の経済がバブルから落ち込んで来ている。本当に弾けたら何をするだろうか?経済が傾いた国は戦争をする、と言うのも歴史が語っている。
アジアに限った話ではないが、明日は我が身かも知れない。

震災や津波は天災であり、いつどこで起きるか分からない。地球に住む限り避けられない悲劇だ。
だが、犬や猫は戦争をしない。人間だからする。
逆説的に言えば、人間だから避けられるとも言える。
たった、77年前の歴史なら記録も証言もたくさんある。
ただ、何も知らず「戦争反対」と叫ぶのではなく、
1年のほんのこの1週間だけでも、その歴史と事実を学んでから今の平和を維持して行きたいと思う。


自己肯定が爆上がりします! いつの日か独立できたらいいな…