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「私」とはなにか?

今日は平野啓一郎さんの「分人」を読みました。
以前、マチネの終わりを映画で見てから好きになった作家です。

既に知っている方も多いかと思いますが、本は下記のものです。

「個性」とは何なのか?
「私」という人間は何のか?
自分を知るということに関して、新たな視点が芽生えました。

本の中では、「分人」という言葉がでてきます。人は「個性」があるが、元々備わっていたものではなく、”周囲との関わりの中で形成された自分”である。
そして、私達一人一人は、色んな人と関わりを持っており、ずっと同じ自分で接することは少ないのだと。関わる人の数だけ、微妙に異なる「自分」がいて、それが分人という考えです。個人が1だとすれば、個人を分数にし、いくかに分けたものが分人という考えです。

みなさんも、気の合う人と一緒にいるときは、とっても楽しい自分。
気の合わない人といるときは、とっても暗い自分に変化することはないだろうか。

例えば、中学までは静かなキャラだった人が、高校になった途端に急に垢抜け、高校デビューした友人や自分がいたりもするだろう。私はこの本を読むまでは、その人自身が変わってしまったのだろう、と思っていました。しかし、本の中で言われている分人という考えを当てはめるなら、元々持っていた「いくつかの自分」がその環境や相手によって変わっているだけだと。本来の自分が変わったというよりも、今まではA面だけを自分に見せていた友人が、B面を高校に入ってからは出し始めただけだと。

私が何者か?という問は結構難しくもある。「個性」が大事と問われる時代において、自分の個性を見つけるのも難しくある。それは個性なんて一つに絞られるものではなく、関わる相手によって見せる「分人の総体」であるからというのがこの本が主張していることでもあると思います。

家族や夫婦、子どもに見せる自分。職場の上司や同僚に見せる自分。心置きなく話ができる友人の前での自分。その都度、自分の感情やキャラが変わることに戸惑い悩む人もいるかも知れない。時には、学生の頃は明るかったけど、社会にでて嫌いな上司に出会い憂鬱な毎日を過ごしている人が、「本当の自分って今なのかも?」と悩まされることもあるかもしれない。(私もそのような時期がありました)それが、この本では、「どれが本当の自分か」なんてわかるはずもない。どれも本当の自分であり、周りの影響によって複数の自分が作られているのだと。

そう考えると、「私」という存在は、自分で形成するものではなく、他者との関係の中で作られていくものなのかもしれない。また、一つの自分で語られることはなく、複数の自分が混ざり合っているものなのだと思う。

だからこそ、一つのコミュニティで気持ちよく過ごすことができていない自分がいれば、もう一つのコミュニティで楽しく過ごせる自分を形成すればいい。(そのような場所を見つければいい)分人はいくつか持っている方が生きやすくなるというのが本の主張だと思う。そして、自分の個性や価値観を形成していくためにも、色んな人との関わりが大切なのだと感じました。難しい話だったので、もう一度読み返してみたいと思う。


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