見出し画像

掌編小説「ゴミ屋敷の幽霊女」

 長い坂の下にその家はある。
 
 古い木造家屋で、幽霊が住むゴミ屋敷と呼ばれている。
 広い庭には大きな木々が手入れもされずに生い茂っている。その木々の間を縫うように多種多様な雑草が我が物顔にのさばっている。植物に侵略されたようなその庭に、これまた多種多様ながらくたが所狭しと置かれている。
 長い髪を腰まで垂らし、真っ白なファンデーションを塗りたくった顔に真っ赤な口紅をつけた、頭のおかしな幽霊みたいなばあさんが一人で住んでいると噂で聞いたけれど、まだ見たことはない。
 
「どうせ高校行く金ないんだろ」
「教科書なんていらねーよな」
 そう言って大笑いしながら、クラスの奴らは僕の通学鞄をその幽霊が住むゴミ屋敷の庭に放り込み、笑いながら軽やかに学校に向かって坂を駆け上がって行った。
 僕は去り際に蹴られた尻をさすりながら、低い垣根越しに中を覗く。
 庭には雑多なものが置かれている。蓋の取れた二層式洗濯機、ハンドルの曲がった自転車、弦の切れたギター、錆びた三輪車、汚れたぬいぐるみの山、焦げ目のついた鍋…町中の廃品を拾ってきて庭や家に溜め込んでいるが、敷地からはみ出してはいないし匂いもないため、勝手な噂が囁かれるだけで市や警察が動いたことはないと母親が言っていたのを思い出す。
 僕は溜息をついて玄関に回る。新しい鞄や教科書を買ってなんて働き詰めの母に言えない。
「あのー」
 聞こえるはずのない小さな声で呼びかけ門扉から様子を伺う。誰の姿も見えず気配もなかったので、忍び足で庭に入り鞄をとってすぐに逃げようと決意する。
 ぬいぐるみの山の中から覗く僕の鞄の持ち手が見えた。
 ダッシュして鞄に手を伸ばす。
「ゴミじゃない」
 突然背後から女の低い声がしたので心臓が止まりそうになって鞄を抱きしめる。
「それも、これも、ゴミなんかじゃない」
 ゆっくり振り返ると、髪の長い青白い顔をした痩せた女が立っている。年齢不詳の幽霊女。でも化粧はしてないし、唇も赤くないし、まだばあさんという年齢でもなさそうだった。
「す、すみません。僕の鞄が、その、間違ってこの庭に入ってしまって」
「まちがって…」
 僕はぺこっと頭を下げると走って外へ出ようとした。
「ひっ」
 駆け抜けようとした僕の腕を幽霊女が掴んだ。
「饅頭食べるか」
 首をふるふると横に振る僕をじっと見てにっと笑う。
「そうか、食べるか」
 僕の腕をその細さからは信じられない力で引っ張って、縁側へと連れて行く。振り切ろうと思えばできたはずなのに、僕はただ引きずられていく。
「ほら」
 皿に積んだ大量の饅頭が縁側に置かれていた。これもどっかから拾ってきたんじゃないのか?僕が手を出せずにいると女はにっと笑った。
「幽霊が怖いのか」
 僕が驚いて黙っていると女が続ける。
「いつも道で子供らが騒いでる。幽霊屋敷だゴミ屋敷だって。歌声も笑い声もいじめてる声も全部聞こえる」
 坂を上った道のその先には小学校と中学校がある。だからたくさんの子供がこの家の前を通るのだろう。その子供たちの声をこの人はいつも聞いているのだ。
「まだ用なしなんかじゃない。ゴミなんかじゃない。だからつい拾ってしまう」
 女は庭を見つめながら言った。
「幽霊じゃないし、ゴミじゃない」
 彼女自身に言い聞かせるように女は続ける。
 一体この人はいくつで、家族はどこにいて、どんな風に生きて、どうしてこうなってしまったのか。
「幽霊じゃないし、ゴミじゃない」
 僕は俯く。今度は僕のことを言われたような気がした。自分は生きてる価値もないゴミみたいな存在だと思っていることを見透かされた気がした。心臓がぎゅっとした。
 その人は立ち上がると庭の隅にあったハンドルの曲がった自転車に手をかけて歌うように言う。
「大丈夫、大丈夫、まだまだいける、まだいける」
 サドルをぽんぽんと叩く。
「さ、行くぞ」
 自転車を押して庭を出るその人に僕は慌てて付いて行く。
 坂の下で、自転車の後ろの席を指さして僕を見る。乗れというのだろうか。ふるふると首を横に振る僕を、有無を言わせぬ目力で睨む。
 僕はそっと自転車の後ろにまたがった。女はサドルに座ると「よっこっせー」という謎のかけ声をかけて漕ぎ出した。
 ぐらりと自転車が揺れて僕は慌ててサドルの後ろ端を掴み腹筋に力を入れる。その人は、曲がったハンドルに空気の甘いタイヤの自転車のペダルを立ち上がって必死に漕ぐ。僕が駆け上がったほうがずっと早いスピードだ。
「大丈夫、大丈夫、まだまだいける、まだいける」
 呪文みたいにその言葉を繰り返してハアハア言いながら漕ぐ。
 しかし坂の途中で自転車はほぼ止まってしまう。僕は慌てて降りて、何故かそうしなきゃけいないような気がして自転車を押した。
 歩いた方が楽だし、どうやら自転車で送ってくれようとしたらしいがその意味もない。
 だけど僕は必死で自転車を押し、女は必死で漕いだ。
 長い坂だ。毎朝重い足を引きずって上る辛い坂だ。
「大丈夫、大丈夫、まだまだいける、まだいける」
 いつの間にか頭の中で僕も一緒にその言葉を歌うように繰り返していた。
 やっとのことで坂を上りきった僕たちは息を切らし汗を光らせていた。女がにっこり笑った。
「ほらな、大丈夫だっただろ」
 僕はゼエゼエしながら全然大丈夫じゃないし…と思ったけど、女の満足そうな顔を見たらなぜだか大丈夫な気にもなるのだった。
 まだまだいける、まだいける。
 ふと振り返ると、上り切った坂が長く僕の眼下に伸びていた。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?