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私たちの心に棲む「山姥」とは② 「飯食わぬ女房」

山姥シリーズの最初に登場するのは「飯食わぬ女房」です。「山姥、山を降りる」(山口素子著)を参考に、自分なりの考えも織り交ぜながら、このお話を見ていきたいと思います。
 
まずはどんなお話かというところから始めましょう。
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独り者の貧しい桶屋の男がおった。「どこかに飯食わぬ女がおったらいいなあ」と独り言を言った。するとその晩、見たこともない女が訪ねてきて、「飯食わぬ女房が欲しいといった桶屋さんですか? 私は飯を食いません。そしてよく働きます、どうか女房にしてください」と言う。
 
男は女房にして家に置いた。たしかによく気の利く働き者で、飯をちっとも食わなかった。しかしこの女が来てからというもの米がぐんぐん減っていく。
 
怪しんだ男は、出かけるふりをして天井に隠れておった。女房はやがてかまどに大釜をかけ、米をはかってどっさりと飯を炊いた。そして大鍋にどっさりとみそ汁を沸かした。飯が炊きあがると大きな握り飯をいくつも握って外した戸板に並べた。それから結んでいた髪を解くと、頭のてっぺんに大きな口が現れた。女はそこに握り飯とみそ汁とどんどんと放り込んで、すっかり食べ終わると髪を元通り結んで、元の良さそうな女房に戻ったのだった。
 
「これはとんでもねえこった。女房は山姥だったか。早く追い出さねば」と男は思った。そして夕方、外から帰ったふりをした男は「おまえはうちの女房には向かない。なんでもやるから出てってくれ」と言った。女は「それなら出ていきますので、どうか大きな桶をひとつこさえてください」と言った。
 
桶ならお安い御用だと思い、男は女のために大きな桶をこしらえた。山姥の女房は隙をみて、男を桶に突き落とし、その桶をかついで山へ向かった。男はなんとか桶から逃げ出そうとしてみるもののなかなか出ることができなかった。しばらくすると山姥は山道で木に寄りかかって休んだ。大きな木の枝が頭上に見えたもので、男はその枝に飛びついてなんとか抜け出した。
 
山姥は知らずに空っぽの桶を担いでさらに山奥へズンズンと歩いていったが、やがて男が逃げたことに気が付いて追いかけてきた。このままでは追いつかれてしまうと思った男は、ちょうど谷川の川原に菖蒲と蓬が茂っているのを見つけそこに飛び込んで隠れた。山姥も追っかけてきて、その中に飛び込んだ。菖蒲の葉先が山姥の右目を刺し、蓬の茎が左目を突いて、目が見えなくなった山姥は川に落ち、流されて死んでしまったそうな。
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お話は私たちの心の世界、そして登場人物は私たちの心の要素と捉えて、このお話を見ていくとどのようなことが見えてくるでしょうか。
 
主人公である「貧しい桶屋の男」は私たちの自我、すなわち意識世界の「自分」です。
 
その自我は、ちっぽけな意識の世界だけで生きていて、無意識の世界との繋がりを失っています。 主人公は、女房をもらうなら、飯食わぬ働き者がよいと甚だ身勝手なことを考えますが、無意識の世界から切り離された自我というのは、目に見えることだけを信じて、合理性や効率性、自分にとっての都合の良さばかりに捕らわれ、人と人との情緒的な繋がりや精神性といった目に見えないものには関心を払わなくなってしまいます。
「人間関係は面倒くさい、そんなことに煩わされたくない、手に入れるものは安くて楽できて便利なものがいい!」そんな感じでしょうか。今の世の中なら、「飯食わぬ女房」の替わりに「なんでも言うこと聞いて寂しさを紛らわせてくれるロボットがいい」となるでしょうか。

本来、人間の心は、常に意識と無意識が繋がりを持ち、バランスを取ろうとしています。

たとえば、寝ているとき夢を見ることがありますね。たいていは忘れてしまいますが、そのなかには不可解だけれどなぜか強い印象を残し意識の隅にずっと引っかかったままになったりする、そんな夢があったりします。
 
失言や、失策行動をやらかして、「あれ、なんでこんなこと言ってしまったのだろう?」、「まさか自分がこんなことをするなんて」と慌てたり、後悔したりして、そうなってはじめて自分の本音に気づくこともあります。

あるいは、いくら頭をひねってもアイデアが浮かばなかったのに、ボーっとしていたら不意にひらめいて、よい仕事に繋がるということもあるのではないでしょうか。

これらは、すべて自我に対する無意識からの働きかけであり、それを自我はキャッチして戸惑ったり、「どうしてだろう?」と考えたり、ひらめいたことを実際に活かしたりという形で無意識の働きかけに反応を返しているのです。
 
このように私たちは自分の無意識の領域と緩やかに関係を持ち、バランスを取りながら人生を送っています。そして私たちはそれをどこか感覚的にわかっているからこそ、直観を大切にしたりするのではないでしょうか。こんなふうに無意識からのメッセージを自然に受け取れる自我は柔軟性があるといえます。
 
ところが、なかにはとても硬い自我を持っている人がいます。硬い自我は意識できている自分が自分のすべてであると思い込んでいるために、すべてを意識の支配下に置かないと気が済みません。そのため不快と感じたり心が脅かされるようなことはすべて意識から締め出します。「抑圧」や「否認」という心理的防衛が強固に働きます。そうすると無意識下に抑圧されたコンプレックスが、内側でどんどん膨張し、自我を逆襲するということが起こります。

桶屋の男に表されている自我は、まさにその状況。自分の心の無意識の領域にまったく関心を払わず、繋がりを持とうとしないために、無意識に押し込められたコンプレックスは負の力を増大させて、恐ろしい山姥と化して、男はその山姥に襲われそうになるのです。
 
社会的に成功し、知名度も高い人が、社会的に許されない悪事を働いたり、不祥事を起こし、自らの人生を破滅に追い込んでしまうことがちょいちょいありますよね。なんで?どうして?と思いますが、こうした心のカラクリが働いている可能性があります。
 
では、次に山姥だった飯食わぬ女とは、いったい何なのか考えてみたいと思います。


飯食わぬ女房は、男性原理の優位な社会で極端に理想化された女性イメージと捉えることができます。「すべてを与えるが何も求めない従順な良き妻だったり、惜しみなく愛を与える良き母」というイメージです。

一方「山姥」は、私たちの集合的無意識にある元型*的イメージであり、その特徴から、生と死を司る女神元型、母元型と捉えることができます。

元型・・・地域や文化、時代を超えて、人類が共通して生まれてながら持っている心の動きのパターンであり、それ自体を把握することはできないがイメージとして、神話、伝説、物語、夢などに現れる

本来、女性性や「母なるもの」は自然に根ざしています。自然はあらゆるものを産み育て、豊饒性をもたらすものであるのと同時に、飲み込み、破壊し、死をもたらすものでもあります。人々の心にその元型が息づいているからこそ、生と死を司る女神の神話や、肯定的な側面と否定的な側面を併せ持つ太母(グレートマザー)が登場する話が、世界のあちこちでたくさん生まれてきたわけです。

「母なるもの」を肯定的な側面だけに縛り付けようとすると、無意識では、その否定的側面が力を強め、やがて男性も女性もその負の力に脅かされるようになります。
 
良い母親を頑張りすぎてしまったり、社会の押し付ける女性性のイメージに自分を合わせようとして苦しむ人が多いのは、「飯食わぬ女房」を知らぬ間に生きてしまっているからではないかと思うのです。そのことに気づき、本能的な力を取り戻すことは大切です。


隠れて女房を覗き見していた男は、恐ろしい山姥の姿を知ることとなりますが、覗き見るとは、無意識という異次元の世界に触れるということであり、今まで意識していなかった自身の心の内の暗い側面を覗いたということ、自我が無意識との接触をはかったことを表しています。

自我は無意識の領域に関心を払うことで、無意識からエネルギ―を受け取り、意識世界のなかでそのエネルギーをうまく解放し活かしていこうとします。本来、そうした自我と無意識との相互交流の中で、自我も含めた自己が成長し、変容し、成熟へと向かっていくのです。
  
「自分のことは知り尽くしている、自分のことは自分が一番わかっている」、私たちはそう思いがちです。けれど実際は、広大で深い無意識の領域を抱えていて、自分自身には未知の部分がたくさんあり、思いがけないところでそうした未知の自分に出会ってしまうものだということをわかっていることは大切です。
 
出会ったときに、それに対してどういう態度を取るかによって、自己成長は促されもすれば阻まれもします。その時生じる嫌悪感や恥の感覚を痛みとともに受け入れていくのか、それをないことにして再び闇に葬り去るのか・・・
 
桶屋の男に表されている自我は恐ろしい山姥と向き合い、受け入れるだけの強さがありませんでした。無意識の世界と向き合うにはある程度の自我の強さが必要です。その強さがなければ、自我を守るには追い出すしかないし、危機を脱するためには逃げるしか手はありません。
 
結局、男は自ら山姥をやっつけるわけでもなく、折衝するわけでもなく、なんら積極的な関わりをしないまま薬草や厄除けにも使われる菖蒲や蓬という自然の力を借りて、難を逃れます。この自然の力はセルフ(自己)のひとつの機能とも考えられ、日本人特有のあり方と河合隼雄は言及しています。

今回、男はなんとか逃げきり、命拾いすることができましたが、いずれきっとまたどこかで違う山姥に出会ってしまうのだろうと思うのです。その時、男はどんな態度を取るのでしょうか。

蛇足かもしれませんが、痛いところや闇に封じ込めたあれこれを突かれて、それでもまだ真摯に向き合おうとせず、逃げ切ることばかりに終始する日本の政治家たちのイメージについ重ねてしまいます。

このお話に触れて、自己成長していくことの厳しさや難しさを改めて感じました。
 
もし、女房の山姥の姿を知った男が、彼女に対して違うふるまい、たとえば「飯を食っていいんだよ。これからは一緒に飯を食べよう」と言ったなら、状況はどうなったでしょうね。

山姥は恐ろしい側面を露わにしたまま、男を飲み込もうとしたでしょうか、それとも優しく、慈しみ深い側面を見せて、ふたりは仲良く幸せに暮らしたでしょうか…

長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

感想やご意見などありましたら、コメントお寄せ頂ければありがたいです。
 
 
 
 
 
 
 
 

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