見出し画像

昔の竹馬はこれです!江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』上巻を訳してみた~第1回(全4回)

山東京伝をご存知でしょうか?江戸後期の売れっ子作家でたくさんの作品を生み出した人なのですが、晩年に力を注いだのがこの考証随筆『骨董集』です。発行された文化12年(1815年)の時点で、すでに過去のものとなった文化・風俗を骨董と捉え、それらを調査・記録し世に広めることで、古き日本を振り返り、今のあり方をよく見直そう、という京伝の思いが込められた作品となっています。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

全4冊(上・中・下の前・下の後)の超大作のうち、まずは上巻を4回に分けてお送りしたいと思います。

1.好事の心得

画像2

日本永代蔵(明記された年号はない
けれども、推測するに貞享の時代だろう)』
にこうある。

「連歌師の宗祇法師のところに
(泉州堺をさしていう)
ますます歌道が流行ってきた時、
貧しい木薬屋に気の利く人がいて
主人の句前のときに
胡椒を買いに来た人がいたので
座中へ断って一両かけて三文受け取り
心静かに一句を思案してつけたという。
優しい志だと宗祇はことのほか褒めたそうだ」

思うに、風雅を好むもこの志なくしては
財産を無くするもとにもなり、
生業を疎かにしては風雅を好むどころではない。

これは知られた話だが、
宗祇が褒めたという点で珍しく、
さらに子どもの心得にも良いと思い書いてみた。

2.昔の威儀 附 紺屋の白袴

昔は貧しい男女も威儀を繕うことが
重要とされた。威儀を繕うというのは

画像3

装いを正しくすることである。

『七十一番職人尽歌合(文安宝徳の時代)』
の絵には、すべて職人商人みな小素襖を着て、
女性は頭を布で巻き上着を羽織り、
また壺折にして着る風情を描いている
ことから、それを推し量るべし。

能の狂言は室町殿の時代に要望されて、
珍しく面白いことを作り出されたものだ
という古老の説があるが、
そのいで立ちも当時の身なりである。

女性は白い布で頭を包み、
両端を左右に結びたらしていて、
これをゆぼうしという。
掛衣を壺折にして着る様子も
『職人尽』の絵によく見られる。

今よりおよそ四百年ほど前の
庶民の女性の身なりは、
能狂言のいで立ちを見て、
概ねそのようだと知るべし。

『南留別志』巻の二にはこのようにある。
「田舎の女性は木綿の単衣のようなものを
帯の上から着て礼服とする。
昔の小袿こうちきなどが残っているの
もそうである。

また、鉢巻きをするのを礼儀とし、
職人歌合などの絵にも能の狂言にも
こうした姿が見られる。
これが一般庶民の女性の装束である」

田舎の人は堅実なので、古風を失わず
昔の威儀の一端が自然と残っているのだ。

「紺屋※の白袴」ということわざは
今も使われるが、これは古いことわざである。
『山乃井(慶安元年印本)』巻之四に
「わらに降る雪や紺かき白袴」という句がある。

   ※紺屋=染物屋

画像4

『崑山集(慶安四年撰明暦二年刻)』にも
この句が載っていて、
貞徳※の句とあれば古いと思われる。

思うに、当時の紺屋はつねに袴を着ていたので
このことわざもあったのだろう。

今の世では盲人・猿回しなどが
いつも袴を着たり、
遊女がつねに打掛を着たりするのは
昔の威儀のなごりなのである。

   ※貞徳=松永貞徳。江戸前期の歌人

3.竹馬

中国の竹馬という遊びは後漢の時
すでにあったといえば大変古い。
しかし、日本の古代の竹馬は
中国の竹馬とは違う。

葉のついた生竹に縄を結んで手綱とし、
これにまたがって走るのを竹馬遊びという。
竹馬の友というのはすなわちこれである。

あとに記載した図を見てほしい。
今の世にある馬の頭の形に作ったものではない。

『袋草紙』雑談のくだりにはこうある。
「壬生忠見は子どものころ内裏に召されたが、
乗り物がないため参内できないと
申し上げたところ、それならば
竹馬に乗って参内すべしと仰せがあり、
よってこの歌を献上した。

竹馬はふしがちにしていとよわし
今夕かげにのりてまゐらん

『未木抄』
竹馬を杖にも今はたのむかな
わらは遊びをおもひいでつつ

画像5

『新撰六帖』五 むかしをこふ
竹馬におきふしなれしそのかみの
よよはふれども忘れやはする

この古歌を考えるに、ふしがちにしてといい、
杖ともたのむともいい、また、
ふしなれしともいうのは、
すべてこのあとに現す図の生竹に乗って
遊ぶ光景によく見られる。

『異制庭訓』遊戯のことを並べて
述べるくだりに、竹馬馳というのがある。
あとで示す図のごとく、
生竹を馬にして競い合うことである。
『異制庭訓』は虎関和尚の作なので、
古いものだろう。

『下学集(騎竹之年 互角の童子を
指して竹馬の年と言うなり」とあり、
騎竹という言葉も竹に乗って遊ぶ
というところからきている。

4.昔人の質朴

『一代女(貞享三年印本)』一の巻にこうある。
「つい四十年前までは、女子は
十八九歳でも竹馬に乗って家の前で遊び、
男子も成長した二十五歳で元服した。
こうも忙しく変わる世の中か」

思うに、ここに四十年前というのは
正保※の頃にあたり、正保※は現在の
文化十年より約百六十七年ほど前である。

そのころの人というのは質朴で、
こざかしくなかったので、
こういった幼い行動が多かった。

今では十八九の女子が
こんな遊びをするだろうか。

ここでいう竹馬も今の竹馬とは
違うだろうから、
昔のような生竹かどうかも怪しいものだ。

   ※正保=江戸初期

画像6

古代竹馬図

<上>この図は元禄十三年の印本
円光大師伝の中から写したものである。
正和※年中の古画を写し記したものなので
その由来から長く経過している。

正和※年中は今の文化十年より
およそ五百年あまりも昔のことだから、
いにしえを思うべきだろう。

   ※正和(しょうわ)=鎌倉時代

<下>五百年の昔の子どもの遊びの風情。
今とは変わらない様子が見られる。

画像7

<上>『狂画苑(安永四年印本)』に
百鬼夜行の古画を小さくしたものがある。
そのなかにこの図があり、
落書きではあるけれども
当時の竹馬の様子をみる良い資料となる。

『好古小録』と『本朝画史』を
合わせて考えると
百鬼夜行は明徳※の頃の古画である。

明徳※は、今の文化十年より
約四百二十年ほど前だから
馬の頭の形に作った竹馬も
昔あったものである。

   ※明徳=室町時代

<下>百鬼夜行はすべて落書きの怪物なので、
竹馬に足を書いてあることなどは嘘である。
だからだいたいの様子と見てほしい。

画像8

中国の古銅器に子どもが竹馬を持った形を
鋳造されたものがある。
銅色から宋時代の物という鑑定があるが、
その手本を入手して
竹馬だけをここに写してみた。

これを宋の宣和年間の物とすると、
日本では鳥羽院の保安※の頃にあたる。
保安※から現在の文化十年は
約六百九十年ばかり経つ。
それほど古いものなのである。

子ども五歳にして鳩車を楽しみ、
七歳で竹馬を喜ぶと、
鳩車と対比して言われるが
中国のこの図のような竹馬だろう。

総合して考えるに、
生竹を馬にするのは日本式で、
馬の頭は中国式だろう。
少し前から今までの間には、
すでにこの形が出来上がっていたと思われる。

  ※保安=平安時代

画像12

5.蝙蝠羽織図

<上>この絵、筆者は詳しくないのだが
画風から時代を考えると、
寛永正保※の頃の古画ではないだろうか。
その時代の絵と合わせて見たところ、
概ね間違いないと思われる。

<下>慶安二年の印本『尤之双紙』上之巻に
短い物の品々に関するくだりがあり
「袖ふくりんかはぼりはおり云々」とあるが
蝙蝠羽織の古い言い方である。

この絵の羽織の短いのは当時の蝙蝠羽織だろう。
これを寛永正保※の絵とすれば、
今の文化十年より
およそ百七十年ほど昔のことである。

    ※寛永正保=江戸初期

袴の文様は田字草で
『本草綱目』のうきくさである。
今は花かつみという。

6.冑人形

画像11

『増鏡』内野の雪のくだりに
「五月五日所々より、御かぶとの
花くす玉など、色々に多く参れり」
とあるのは、第八十八代後深草院が
位に就かれ、まだ幼くていらっしゃった
建長三年辛亥五月五日のことである。

『南畝叢書』に載るその随筆には
増鏡の文を引用してこう言う。
「冑花は紙で冑を作り、その上に
さまざまな花をかたどる。
または紙で人形を作って置いたりして
子どもの遊びとなる。
今の端午の菖蒲冑はこの名残である」

自分はこの説により、ふと思いついた。

『日本歳時記(貞享五年印本)』
の中の絵から察すると、冑の上に
人形を作り置かれた図があったので、
これを見るに、冑人形という名前は
もとは冑の上に人形を作り置いた
場合だけを言ったのだが、
後に冑と人形は別のものになり、
人形だけでも冑人形と言い、
省略して冑とだけ言うようになったのだ。

このことからつまり、先ほどの随筆で、
冑の花は冑の上に紙で人形を作って
置くことを言うという説に合致し、
冑人形は冑の花の名残であることは疑いない。
冑人形の意味も、これで明らかだろう。

画像12

あとに写し現した図を見て考えてみよう。

『日本歳時記』巻之四端午の
菖蒲冑・太刀のことを言うくだりに
「このこと、昔は厚い紙に人形を彫って
薄い板を冑の形にこしらえ、
あるいは真菰の葉で馬を作り、
または木を長刀のように削ったりなどして
戸外に立てて置いたりした。

しかし、近年は風俗的にきれいなものが
好まれるので、木で人馬の形を作り、
張り子にして彩色を施し、
さらに甲冑を着せて剣戟を持たせ、
戦いの様相にして戸外に立て置くようになった。
これを冑と言う」とある。

思うに、紙に人形を彫って、
板を冑の形に拵えるやり方は
昔の冑人形の質素なものであって、
貞享の時点で昔というのは
いつの頃のことを指すのだろうか。

『園太暦』文和四年五月五日のくだりに
菖蒲冑のことがあるが、
これも古い時代のことである。
文和※は第九十九代後光嚴帝の御代である。

   ※文和(ぶんな)=南北朝時代
           (鎌倉時代と室町時代の間)

ちなみに『山之井(慶安元年印本)』
『誹諧糸屑(元禄七年印本)』
など五月五日のくだりで、
菖蒲刀・菖蒲のぼりなどに並び
削りかけの冑という記述があるが、
木を削って冑の形に作ったものだろうか。

画像11

冑人形図二種

<上>貞享五年板 
『日本歳時記』巻之四にこの図あり

前述のように、人形を厚い紙に彫り抜いた
質素なものである。

<下>この図は延宝天和の時代の
絵のなかにあり、
草画のため微細ではないけれども、
考証のひとつとして写してみた。


【たまむしの独り言】

やっと大作『骨董集』に着手することになりました。

かなりの長丁場ですが、集中力をうまくコントロールして、乗り切りたいと思います。

ところで、今回は翻刻を省き、現代語訳だけにしてみました。

今まで翻刻を載せたのは、原文と比較して、超初心者でも読むことにトライしてみるきっかけを作りたかったからです。

そのため、原文も字の大きいものが大部分を占めていました。

ですが、この『骨董集』は内容をイメージしてもらい、日本の昔の文化に触れることを一番に考えたため、古文書を読むことから離れてみました。

いつも題材が変わるたびに、自分にしかわからないマイクロマイナーチェンジをしてみるのですが、今回はあえて訳だけを書くという、大きなことにトライしてみたのです。

うまく伝わればよいなと思っています。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?