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打出の小槌の由来とは?江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』中巻を訳してみた~第6回(全6回)

前回の第5回目では、「二束三文」という言葉の由来や、「三味線」の発祥についての考証でした。今回がこの『骨董集』中巻の最終回となりますが、日本の昔話から「打ち出の小槌」と「猿蟹合戦」についての考証が登場します。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

1.題目踊図蒔絵香合だいもくおどりのづまきえこうごう

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すべて沃懸地いかけじ※で蓋の面にこの蒔絵まきえ※あり。
大きさは図の通り。

 ※沃懸地=蒔絵の地蒔の一種
 ※蒔絵=漆工芸の装飾法の一種

思うにこれは寛永時代の古器ではないか。
洛北修学寺村あるいは松ヶ崎などの
題目踊りの図だろうか。
肩に掛けたたすきは、丹前帯たんぜんおびというものである。

『松の葉』元禄十六年板、巻の一、
三味線とりくみの歌に
「京では一条柳屋の娘が四ツ割帯をたすきに
かけて、実に腰がしなやかな」とあるが
まさしくこれだろう。

これは初めて三味線の本手組というものを
作り出した時の歌で、寛永時代のことである。

少女は額に髪を垂れ、髪を結んで鉢巻きを
した姿も、昔の格好である。

寛永元年から今文化十年まで
およそ百九十年経っている。

2.祖父祖母之物語

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『異制庭訓』遊戯のことを語るくだりで
振鼙ふりつづみ石子いしなご䃯打づんばい竹馬馳たけうまはしり編木摺さくらすり
文字結もじむすび文字書もじかき書占ふみうら何曽なぞ宿世結すくせむすび
宿世焼すくせやき・祖父祖母之物語・目比めくらべ頸引くびひき
膝挟ひざはさみ指引ゆびひき腕推うでおし指抓ゆびはじき」と並んでいる。

今思うが、鼗鼓ふりつづみ擲石いしなごは『和名妙』に見ら
れるので、古いのはもちろんである。

また、西行の歌に
「石なごの玉の落ち来るほどなきに
過ぐる月日は変わりやはする」と読めるのは、
今でいうお手玉のことである。

文字結もじむすびは花結びの類で、書占ふみうらは歌占いの類か。
宿世結すくせむすびは今でいう縁結びのことだろう。

祖父祖母之物語は、今の子どもの
”じじばばのむかしばなし”というものが
これにあたるのではないだろうか。

目比めくらべは今でいうにらめっこだろう。
『長門本平家物語』に見られるので
古いものである。

前にも言ったように、異制庭訓は元亨釈書の
作者虎関和尚の作なので、庭訓往来より前の書
だから、書かれた内容は古いというべきだ。

これだけではなく、子どもの遊びの由来を
探してみると、古いものが大変多いので、
よく考えて追書すべきである。

『辨疑書目録』に異制庭訓は玄恵法印作、
元遊学往来と同じ本である、とあるのは
誤りだろう。

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元禄五年板の『書籍目録』に虎関作とあるのが
正しいと思われる。

なぜなら、遊学往来は玄恵の作で、
寛文二年印本とされ、その文章は異制庭訓と
異なっているからだ。

ある人が言う。
異制庭訓とは本当の題名ではない。
玄恵の庭訓往来が世に出た後の名だろう。
けれど、本当の名が伝わっていないので、
こう呼ばれているのだ、と。

『源平盛衰記』巻の三十四に
鼓判官が石四ツを持って一二を突くとある。
石子いしなごの類だろう。

『小大君家集』や、源俊頼朝臣の『散木集』
などに、石などりの歌が見られる。

子どもの遊びの考察はこれだけではない。
別録するつもりなので、ここでは以上とする。

3.挊游無木したらむき

『遊学往来』に
「子どもの遊びは鼗鼓ふりつづみ編木摺さくらすり䃯打づんばい
獨楽迫こままわし拍毬てまり石子いしなご挊游無木したらむきし打ち、
小白物はやしもの・竹馬・草鶏そうけい・小車等の遊戯を
もととして、諸学これに従って、怠れば
ついに無能の者となる」とある。

この挊游したらろうは俗に弄の字で、もてあそぶ
と読む字だが、意味によってはわかりにくい。

今思うのだが、伊勢の御神事に設楽撃ちという
ものがあるので、手を叩いて歌を唄う

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ことではないだろうか。この名が子どもの
遊びの名に転じ、手を叩いて歌を唄う遊びを
挊游したらというのだろう。

一方、無木むきというのは、撃壌げたうちのことでは
ないだろうか。東海道で”もぎ”というようだが
東国で”めつき”といい、”めき”のことである。
”つ”を付けて強く発音する。
”むき”ともいい、”もぎ”ともいい、
”めき”ともいう。
”む”・”め”・”も”の音は相通じる音である。

〖長い逆三角▼〗のような形の小さい木を
地面に立て、同じ形の木を持って打ちつける
遊びである。これは中国でも古くからある。

『三才図絵』に「木を以って壌となす。
前広く後へ尖り、長さ一尺四寸。広さ三寸。
その形くつの如し。年の暮れに子どもの遊び
となす。まさに戯れんとするに、まず一壌を
地にそばだてて、遥か三四十歩において、手中の
壌を以って、これを投げて当たる者を上となす」
とある。(また、風土記にも見られる)

ここ東国で”めき”という遊びもこれと同じで
ある。日本も中国も同じ遊びなのだろう。

『和漢三才図絵』には撃壌に”げたうち”と
仮名がついている。『遊学往来』の無木は
このことなのだろう。

4.打出小槌 猿蟹合戦

『異制庭訓』に祖父祖母之物語とあるのは、
「昔々じじとばばがいました」という発音を
とって名付けられたものだが、子ども向けの
昔ばなしはたいへん古いものである。

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自分が二十四五年前、昔ばなしの由来を
調べて書き溜めたものは
童話考と名付けて一冊になった。

今だ考えの足らぬところもあるが、
長い間温めておいたものだ。

さて、隠笠かくれがさ隠蓑かくれみのは古歌にもたくさん
詠まれているが、打出の小槌のことを
書いたものは少ない。

けれど、『平家物語』祇園女御の段に
「これぞ誠の鬼と思われる。手にしたものは
噂に聞いた打出の小槌ではないか」
(『盛衰記』巻の二十六にも打出の小槌の
ことが書かれてあり、これと同じ内容)
とあれば、古い言い伝えなのだろう。

また、平康頼の『宝物集』巻の一に
「さて、人の宝には打出の小槌という物
こそ、良き宝なので手に入れた。そして
広い野を出してみたり、住む家、面白い夫婦、
役に立つ従者、馬牛・食物・衣服など、
心のままに打ち出てみようとした。

<中略>

よく心得なくてはならないという。
また、ある人が近くで出してみた様子では、
打出の小槌は素晴らしい宝だけれども、
残念なのは、物を打ち出して面白がっている
うちに、鐘の音が聞こえてくると、打ち出た
物はみなこそこそと消えてしまうという。

そのため、見事にそこにあり続けるものと
思っていても、先ほどのような場合は、
広い野中にただひとり裸で取り残されてしまう。
それはみっともないと思わなければならない。

<中略>

昔から、隠蓑の少将という物語も、
あるまじきことを作り出すとして

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語り継がれた」とある。

これはつまり『酉陽雑俎続集』の旁色が得た
金の椎子つちと、日本も中国も
相似しているということである。

『狭衣』に、隠蓑の中納言がいらっしゃるという
記述がある。『宝物集』には隠蓑の少将の物語
とあり、隠蓑という物語は古くからあった
ということを知るべきだろう。
しかし、今は知られていないようだ。

また、猿蟹合戦という昔ばなしの元と
思われるものもある。

『義楚六帖』二十四、根本雑事には
「隠人あり、果樹の元にあって座す。猿に果を
投げられて、額を破る。これを忍びて報わず。
後に猟者あり、仙人と友となり、来たりて
樹下にあって座す。投げること前の如し。
猟者怒ってこれを射て死を致す。仏と天授と」
と書かれてある。

思うに、猿蟹合戦の話は、この果樹を根本として
枝葉をつけてできたものだろう。

昔ばなしの起源を調べると、多くは仏説から出た
ものだとわかる。あるいは、国史物語の文章や、
さらには、中国の故事に基づいたものもある。

とりとめのないものとはいうけれども、
よくその道理を分析してみると、子どもに
善悪を教える一助となっているのかもしれない。

物事のはじまりに心ある人の作り出したもの
なのだろう。

虎関和尚の異制庭訓は、現在の文化十年より
およそ五百年前の書なので、祖父祖母の昔ばなし
の古さを思うべきだが、五百年前の昔ばなしは、
単に子どもの口伝えで伝わっただけなので、
今残っているのは不思議としか言いようがない。

なお、愚考だが、他日童話考を発行しようと
思っているので、ここまでとしたい。

5.ちまき馬 きうり牛

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『散木集』に、
幼い子どもが茅巻ちまき馬を持つのを見て、
 ちまき馬は 首からきわぞ 似たりける
作った人もわからないようで、
 きうりの牛は 引き力なし
こういった連歌がある。

思うところ、「ちまき馬」はちがや※で作られた
馬だろう。そして「きうり牛」は、きゅうりで
作られた牛である。これは、「ちまき馬」を
千牧ちまきの馬にかけ、「きうり牛」を木売りの牛に
かけた秀句なのだ。
 
 ※茅=かや・すすき・すげなどの総称

今の世の聖霊祭りに、まこも※もしくは瓜やナスで
牛馬を作って手向けるのはこれらの名残だろう。

 ※菰=イネ科の多年草

『散木集』は源俊頼朝臣の集だが、源俊頼朝臣は
鳥羽院の御代、天仁の頃の人なので、
大変昔である。天仁元年から現在文化十年に
至っては、およそ七百六年に及ぶ。

また、今の信濃・常陸・下総などの国々で
まこもで小さな馬を作って、七夕に手向ける
ことがあるというのも、例のちまきの馬・
きゅうりの牛は、もともと七夕に手向けるもの
だったからだと思う。

牛は特に七夕に縁があり、同じ七月にそれが
影響して霊棚たまだなに手向けることになった
のではないだろうか。もしくは、霊棚に

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手向ける方が先で、七夕に手向ける方が後か。
ともかく、起源は古いということだ。

6.奈良の庭竃にわかまど

『世間胸算用』(元禄五年印本)巻の四に、
「正月奈良中の家々に庭いろりといって、
釜をかけて焚火して庭に敷物をして、
その家中、旦那も下人もひとつになって楽に
座り、普段の居間は開放して、土地の習わし
といって、輪に入れた丸餅を庭火で焼いて
食べるのは、貧しいことではない」とある。

ここから昔の庭竃にわかまどの様子を考えてほしい。
これは前に取り上げた地火炉ぢかろ※の
古い習慣なのである。

 ※『骨董集』中巻第1回「火燵・地火炉」参照

元禄二年の句(高き家にのぼりてみればの 
御製のありがたきを今もなほ)
 叡慮えいりょにて 賑ふ民や 庭竃

『五元集拾遺』
 庭竃 牛も雑煮を すわりけり

これらの句もあるので、庭竃は奈良だけに
限ったことではないが、奈良がその発端と
なっているのだろう。

江戸吉原では、今も正月に庭で焚火をする
という。これにはさまざまなこじつけの説が
あるけれど、実は庭竃の名残だろう。

昔行われた様子を聞くと、奈良の庭竃の
影響ではなく、元吉原の

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頃から伝わった古い習慣だそうだ。
今は庭で焚火をするだけとなった。

7.長崎柱餅 并 幸木さいわいぎ

『世間胸算用』巻の四、
長崎の年の暮れのことをいうくだりに、
「餅はその家々のめでたい先例に基づいてつく。
柱餅といって、最後に一臼※を大黒柱に
打ち付けておき、正月十五日の左義長※の時に
これを炙って祝う。

 ※左義長=どんど焼き
 ※一臼=一回でつける餅の分量

庭に幸い木といって横渡しにしたものに、
ブリ・いりこ・串貝・雁・鴨・雉子、さらに、
塩鯛・赤いわし・昆布・鱈・かつお・ゴボウ・
大根、三が日に使うほどの料理を、
この木に吊り下げて竃をにぎやかにする。

既に大晦日の夜になれば、物もらいも顔を
赤くして、土で作った恵比寿・大黒を荒塩台に
乗せ、当年の恵方の海から潮がやってきたと
家々を祝い廻るのは、船着場を第一とする場所
だからなのだよ」とある。

これは元禄期間のことで、長崎の人に聞いて
みたところ、この柱餅の風習は今もあるそうだ。

餅を延命袋の形に作って、大黒柱に打ち付けて
おき、春になって自然に落ちるのを待って
炙って食べるのだという。

8.宗祇の蚊帳

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今、俗に、見栄を張るというのは、
嘘を言って自らを大きく見せることだが、
百七八十年前のことわざで、「宗祇そうぎ蚊帳かや
といったようだ。宗祇法師と同じ蚊帳で
寝たと嘘を言って自慢した者がいたことから、
世のことわざとしてできたのだろう。

『崑山集』(慶安四年撰、明暦二年刻)
(一度三井寺で面白く語り継がれた物語を
聞いたのを思い出して)

 同じ蚊帳に寝しは 則ちけふ義かな

これは世のことわざに真実味がなく、
余生のことを宗祇のかやというのだけれど、
それを故事に使ったものだ。

以上、『崑山集』に見られる。このことわざは
元禄頃までも言い伝えられたそうだ。

『西鶴なごりの友』(元禄十二年刻)巻の四に
「ある時、旅宿で山家に通う商人が集まったので
今宵は七月七日、星も会う夜の天の川、
カササギの渡せる橋というのは、
カラスがくちばしをくわえあって、
その上を星が渡ることだと
詳しく語った人がいた。

すると、皆が感心して、
あなたは身分が下に置かれた人、
もしくは公家の落とし子か、と言う。

自分は貧しい身だが、以前、連歌師の
宗祇法師が諸国を修行しておられた時に、
人の縁とはわからぬもの、東海道の岡部宿で
相宿となり同じ蚊帳で寝た、と言った。
昔の物語とは面白いものだ」とある。

昔、宗祇法師は深く尊敬されたことがこれで
わかるだろう。このような人情は今もある。
珍しく面白いことわざなので、書き残して
おくことにした。


【たまむしのあとがき】

今回で中巻が終わりになり、この後下巻となりますが、『骨董集』に関しては、今回で一区切りとさせていただこうと思います。

コンプリート達成ならずです。残念!

すべて制覇することを念頭に置いて進んできたものの、徐々に専門性が高くなり、扱うテーマが現代では馴染みの薄いものが増えてきて、伝わりにくいと感じるようになってきたためです。

下巻になるとそれが一層顕著になっていきますので、このまま続けるのは正直しんどいな・・・というところですかね。

ということで、次回からは心機一転、また新しい素材で、より身近に感じられるものを選んでお届けしたいと思います。ご期待ください。

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