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猫のノミ取りという仕事があった!江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』上巻を訳してみた~第4回(全4回)

前回の第3回では、風呂と餅に関する謎について、山東京伝の詳細なリサーチが光った内容となっていました。今回は、耳の垢取り・猫の蚤取りといった、ちょっと風変わりなネタに加え、蛍や踊りという風流なものもあり、多彩な内容となっています。今回が上巻の最終回になります。(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

1.耳の垢取

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『江戸鹿子(貞享四年板)』に
「耳の垢取り。神田紺屋町三丁目長官」とあり、
同じころ京にもあった。

『京羽二重(貞享二年板)』には
「耳の垢取り。唐人越九兵衛」とある。

『初音草噺大艦(元禄十一年板)』巻の五に
「京と江戸を行き来する通り町の辻々を見れば、
あるいは歯抜き耳の療治」

『老人養草(正徳六年板)』には
「近頃、京の辻々に、耳垢取りといって
オランダ人のかたちに似せて」とあれば、
元禄の末か正徳の頃まであったようだ。

『五元集拾遺』
   観音で 耳をほらせて ほととぎす

この句も耳垢取りのことをいっているのだろう。

『一代男後日(刻板の年号なし、考えるに
西鶴の二十五年追善※ということから、
享保二年の板か)』二の巻に
「松浦潟平戸という所に、質素な草ぶきの
家を借り、髪を総髪にして長崎一官と名乗り、
都ではやる耳の療治人の真似をして、
京の一官顔して」とあるため、当時の京に
一官という耳の垢取りがいたと思われる。

   ※追善=死者の冥福を祈って、
       法会などの善事を行うこと

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<耳垢取りの古図>

亡き友、大朝がこの図を写して自分にくれた。
思うに、これは元禄半ばの絵ではないだろうか。

ひょうたんをつけるのは古い姿である。

英氏の画集にも耳垢取りの図があるけれど、
草画のため詳細ではないが、
感じはこの図と大差ないだろう。

2.臙脂絵売

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考えてみれば、板行の一枚絵は延宝天和の頃に
始まったのではないか。
朝比奈と鬼の首引の土佐浄瑠璃の絵や、
鼠の嫁入りの絵など、芝居の絵は坊主小兵衛が
描いたものがその初めだと思われる。

当時は、丹緑青などでまだらに彩色したり、
菱川師宣・古山師重などがこれを描いていた。

元禄の初めから、丹黄汁で彩色するようになり、
これを丹絵たんえというが、元禄の末頃から
鳥居清信やその子清倍らがこれを描くようになった。

そして宝永正徳になり近藤清春が出てきて、
紅絵べにえという、享保の初めに
新しいかたちのものが出来上がったのだ。

墨ににかわをひいて光沢を出すように
なったものは、漆絵ともいう。
奥村政信はもっぱらこれを描いていた。

『近代世事談(享保十九年板)』には、
「浅草御門同朋町何某という者が、
板行の浮世絵・役者絵を紅彩色にして、
享保の初め頃からこれを売り、
子どものおもちゃとして
京や大阪・諸国に広まっていった。
これはまた、江戸土産のひとつとなったので、
江戸絵という」とある。

後に写したものは享保の頃の紅絵売りの図である。

板行の一枚絵の始まりが延宝天和とすると、
今が文化十年だからおよそ百三十年ほど
時が経った古いものだと知るべし。

3.釜磨  并 猫の蚤取

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『西鶴織留』三の巻にこうある。

「ある年の師走に、かまどの上塗りを
仕事とする巡回を手廻し良くしようと思って、
年の暮れに優秀な男が釜磨きにやって来た。
大釜は五文、そのほかは大小によらず二文ずつ。
下働きに人を雇わない者は勝手がよい。

また、五十歳ほどの男性は風呂敷を肩にかけて、
猫の蚤を取りましょうかと
声をかけながらまわっていく。

隠居方の飼う手白三毛猫は、可愛がって
くれる人に取ってほしいと頼まれたので、
一疋三文ずつに決めて、
名誉なことと請け負った。

まず、猫に湯をかけて洗うと、身体をそのまま
狼の皮に包んで、しばらく抱いているうちに、
蚤たちは濡れて嫌がり、みな狼の皮に移って
くるので、道幅の広いところで振るい落とす。

これだけのことだが、そもそも何とかしてと
損得を考え、身の程過ぎの種となってしまった」

猫の蚤取りという者がいたと言い伝わるのは、
これである。

この『西鶴織留』は、西鶴の遺稿を正徳二年に
刻したものであり、弟子の団水の序に、
途中まで書き残して、過ぎし酉の八月に
この世を去ったというから、
元禄六年の上記文中に元禄二年とあるので、
その時代を知ることができるだろう。

『舞あふき(元禄十七年板)』の序には
「大阪の西鶴のはなしに、
小さい風呂敷包みを背中にかけ、
猫の蚤とろとろと言って、
口の過ぎる者がいたと語られた」
とあるので、これは行われず、
すぐに無くなってしまったものと思われる。

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<臙脂絵売図>

これは享保の頃の一枚摺りの板行絵

4.おぼこといふことば

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4.おぼこといふことば

御伽婢子おとぎぼうこ※は天倪あまがつ※と
同じような類のものである。

   ※御伽婢子=仮名草子で怪異奇談集
   ※天倪=幼児のそばに置き、
       災厄を移し負わせる人形 

子どものそばに置き、たたりを負わせる人形
について、『雍州府志(天和二年撰)』土産門
の項にはこう記載がある。

「白絹で人形を作り、中に糟糠そうこう(ぬか)※
をいっぱいに詰め、ほかには白粉(おしろい)を
つけたものをお伽母子ははこという。
この人形はもともと大小母子の形に作って、
はじめは母子ははこ人形といっていたのだが、
今は人形の字を省いてこう呼んでいる」
(原書は漢文のため、今は仮名書きとする)

   ※糟糠=酒かすと米ぬか

そうであれば、母子を”はうこ”と引用して
”はとほ”という通音とすれば、
”ほうこ”といってもよいだろう。

さて、人は年を取り、子どものようになって
いくことを二度おぼこといい、
女子の幼い様子をおぼこ娘という。
また、すばしり※の子をおぼこという。

   ※鯐=ボラの幼魚

こうした類は、すべて幼いことをおぼこという。

先の伽人形から派生した言葉で、お婢子ほうこ
縮めた言葉と思われるが、
それは澄んでいることを指す言葉だろう。

『合類節用』には”恍惚子”の三文字を
”おぼこ”と訓読みし、辞書にある恍惚の字の
意味は、今いうおぼこの意味ではないようだ。

この解釈は自分が推測したものなので
疑わしいが、ふと思いついたので、
そのまま書き出すことにしたのである。

5.駒形の蛍

『江戸雀(延宝五年印本)』十の巻、
浅草駒形堂のくだりにこうある。
「この堂は二間四面が南向き。

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ここで信仰厚い人は、この川(隅田川)で
穢れを取って浅草へ参る。
特に、船着きで出船・入船が泊まっているのは、
遠方の帰帆というのだろうか。
九夏三伏きゅうかさんぷく※の暑い頃は
風涼やかに吹き落とし、飛び交う蛍は水に映り、
絶景といっても過言ではない」

   ※九夏三伏=夏のもっとも暑い
         土用の頃をいう

絵からは、堂の傍らには樹木があるように
みえる。また、『江戸名所記(寛文二年板)』
の駒形堂の図を見ると、木立や草むらなどが
あって、蛍もいるような感じである。

『焦尾琴(元禄十四年板)』
   駒形に 船を寄せて この碑では
   を哀しまぬ 蛍かな

こう詠むのも、目の前の光景だからである。
今はすぐそばまで人家が建ち並んでいるので、
蛍に羽化する草むらすらもない。
わずか百年ほどしか経っていないのに、
人が集まる賑やかな場所になってしまった。

元禄六年、駒形に殺生禁断の碑が建った。
今でも知られている。

上の句の意味を考えると、哀江頭は
杜子美(杜甫)の七言古詩の題である。

哀江の字の意味を取り、この碑が建てば、
川の魚が悲しむことはあるまいという心だろう。

蛍の光で碑文を照らすことを、車胤しゃいん※の
故事などで思いを寄せたのだろうか。

   ※車胤=中国東晋の政治家

6.浮世袋

ある人が古老の説だといって語った内容である。

幼い女子が裁縫を習うその初めは、
浮世袋というものを自分で縫って
おもちゃにすることからだった。

絹を三角に縫って綿を入れ袋の形にして、
上の角に糸をつける。

どうというものではないけれど、
ただ裁縫を習うために作るものであった。

昔は遊女に熱中することを浮世狂いと言った。

遊女の家の前に柳を二本植えて横手を結い、
暖簾のれんをかけてこれに遊女の名前を書き、
その下に

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例の袋のようなものを自分で縫って付けた。
これを浮世袋と言う習わしだったそうだ。

『五人娘(貞享三年板)』巻の一に、
浮世狂いという言い方は、
貞享の頃まで使われていた言葉だろうとある。

また、巻の三に、浮世笠というものがあり、
『一代女(貞享三年板)』に浮世もとどり
『卵子酒(序に宝永六年とあり)』に浮世巾着
などという呼び方が載っているが、
同じ類のものだろう。

粟嶋あわしまという踊歌の言葉には
「折れ針・くくり猿・うき世袋・雛形」
と並べて言うので、今、粟嶋の神に手向ける
三角の袋のようなものは、
すなわち浮世袋であることを知った。

これはいわゆる謳歌の説ではないかと、
ばかげた考えと自分でも可笑しくなる。

粟嶋の神を女神と間違うより、
女子の裁縫が上達する願いをかけて、
浮世袋を手向けたのかもしれない。

7.初雪の句

「初雪や犬の足跡梅の花」という句は、
誰が言い出したものだろうか。
子どもも口ずさむ句である。

『五元集(をのがね鶏合の巻)』に
「鶏去りて竹葉を描く」とあるが、
これは五山派の僧の雪の聯句の
「犬走って梅花を生ず」の対である。

上の聯句に基づくのだろうか。
または、偶然の一致だろうか。

8.燈篭踊の古図

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延宝二年の書、都歳時記にこの図あり。
延宝二年は今文化十年から、
およそ百三十九年昔である。

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『都歳時記(序に延宝二年とあり)』
巻の四にこうある。

「長谷岩蔵花苑では六字の念仏に節をつけ、
さまざまな花を飾り、巧を尽した四角の灯籠を
頭の上に載せて踊る。

いずれも心を尽くした一点で極めて上品なのは、
都にも引けを取らない素晴らしいものである。

近頃、氏神の前にて踊りはじめ、
その年に亡くなった死者の住んでいた家に行き、
夜更けまで踊り歩くようになった。

これほどに例年催すことになったのは、
由来のないものではないだろうけれど、
確かなことを知る者はいないという」

『日次紀事』には、このように書かれてある。

「洛北岩倉・花園、両村ともに子どものうち、
女子が各々大灯籠を頭に載せ、
八幡の社前に集まって、
男子は大鼓を打ち、笛を吹き、踊りに励む。
これを灯籠踊りという。

頭上に戴く灯籠は踊る女子の家々で、
春初よりこれを作り、
互いにその作る様子は秘密にする」
(原書は漢文のため、今は仮名書きとする)

前項に写し現したのはその古図である。


【たまむしの独り言】

文中に頻繁に出てくる文化十年は1813年なので、209年前です。

この時点で、耳の垢取りや猫の蚤取りなどは、すでに消えてしまったと言っています。

この世に存在していた期間はあっという間だったのでしょう。

「駒形の蛍」では、江戸の町がどんどん人口が増え、蛍の住みにくい場所になっていく様子が書かれています。

江戸時代も260年あったので、その間には当然いろいろな変化があったに違いありませんが、都市の変化がこの間にも刻一刻と起こっていき、それがこの時代すでに自然を失っていくことに繋がっていたというのは、改めて残念に感じます。

私たちは江戸時代という期間をひとくくりで見てしまいますが、その長い間にも、たくさんの変化があったことを、こうして初めて知ることができたように思います。

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