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「見世棚」の名前の由来を知る!江戸時代の古文書、山東京伝『骨董集』を訳してみた

山東京伝『骨董集』リターンズ。今回は下巻の中から、どうしても訳してみたかった「見世棚」について、限定してお伝えしようと思います。見世棚というと、お土産屋さんのアレですね。商品をずらっと並べて置く台ですよ。上記の絵を見れば百聞は一見にしかずですが、すでに現在と同じ形です。その言葉の意味やできた背景について、山東京伝はどのように語っているのか、読んでいきたいと思います。
  ※これは考証随筆で、全文が訳したものです。

見世棚1

見世棚

今の世で商人が物を売る場所を
「たな」とも「見世」ともいう。

昔は家の端に棚閣たなを設け、その上にいろいろな
売り物を置き並べて売っていたので、
「たな」という名がつけられた。

その棚は売り物を置いて、往来の人に
見せて売ることが目的だったため、
中世では「見世棚」ともいった。

後世それを省略して「見世」と

見世棚2

だけいうようにもなった。

後に取り上げる古図を見れば、
昔の見世棚の様子を知ることができる。

今ある餅屋の出し台という物などは、
見せ棚の名残ともいうべきだろう。
(中国では、総じてみせ棚である。
唐の絵に町家の様子を描いたものがあるので
それを見るとよくわかる)

今でも京都には魚の棚や衣の棚、
江戸にはあまだなや十軒だななどという
名が残っている。

町家の軒下を棚下というのも、
古い言葉の名残だろう。

てんの字を「たな」とも「みせ」とも読むのは、
当て字である。

『和名抄』巻十、居宅類の項で
「四聲字苑には、店というのは物を売る
場所を指す建物のことである」とある。

また、晋の崔豹は『古今注』上之巻で
「店はうりものを置き、この物をひさぐ※所以なり」
と言う。

 ※ひさぐ=売る

この字の意味から、
「たな」とも「見せ」とも読む。

さて、商人が物を売るところを「棚」
というのが古いという証拠は、
『宇津保物語』第四、藤原君の巻(流布本第七)
たかもとの御子が商いをすることを
述べる箇所にこう書かれてある。

「ここは御厨子所みづしどころ※。寝殿の北の方にある。
白髪の女が一人と水を汲む童女一人が
食べ物を盛っていた。
これがだんだん変化し、棚のそばで
女が物を売るようになっていった。(中略)

 ※御厨子所=台所

空車むなぐるま※に魚や塩を積んでやって来た。
関係者は察知して、棚に置いて売る」とある。

 ※空車=リヤカー

見世棚3

このことは、『くぼのすさび』上巻にも
書かれているので、早くからあったようだ。

うつほの時代※は詳しくわからないけれど、
源氏より前のものなので、棚に置いて物を
売るというのは、たいへんに古い行いだろう。

 ※宇津保物語は平安時代の物語

『土佐日記』には「山崎の小櫃おびつの絵も」とあり、
為家卿本※や人見卜幽軒ひとみぼくゆうけん※の附註本※には
「山崎の棚なる小櫃おびつの絵も」とあるのを、
岸本由豆流きしもとゆずる※は早くから見出して
『土佐日記考証』に書いていた。

 ※為家卿本=藤原為家の『為家卿集』
 ※人見卜幽軒=江戸前期の儒者
 ※附註本=土佐日記附註
 ※岸本由豆流=江戸後期の国学者

これも棚を構えて物を売ることが
古いものだという証である。

『土佐日記』は紀貫之の作で、承平五年(935年)
の紀行文なので、とても古いものだ。
承平五年から今の文化十年まで約879年。

中世で見世棚と呼ぶ証拠は『庭訓往来』
にもある。「市町は辻子小路を通り、見世棚を
構えしめ、絹布けんぷの類、土産・菓子は売買の
便りに有る様、相計らわるべきなり」

『一時軒随筆』巻二に「庭訓は玄恵法師、
元弘四年正月二十一日これを書す」とあるので、
見世棚という言い方も古いものである。

さらに『下学集』(文安元年撰)上巻にも
見世棚の名が見られる。

また、『勧進聖判職人歌合』(天文六年より
少し前の物だが、別の説もある)には
鳥売りの花の歌にこうある。

〽春はまたところも花の千本に
 見せおくたなの鳥のいろいろ

この歌から、見世棚の意味は明らかだ。

『奇異雑談集』(天文中の作だが別の説あり)
巻二に「家主は婦人で夫はいない。一二年ほど
ひとりやもめである。つねに茶屋の本座にいて
茶を売っている。

見世棚4

ところが、表で板を用意し、仮棚を吊って
キュウリ5・6本を売るようになった」

思うが、今も八百屋は棚を設けて
瓜やナスなどを置いて売っているので
これと似ている。

『運歩色葉集』(天文十六~十七の撰)
巻四には見世棚の名が見られる。

『北條五代記』(ひらがな本、巻十)天正十八年
のくだりに「さてまた、松原大明神の宮の前、
通町十町ほどは毎日市が立ち並び、
七座※の棚を構え、与力する者が手買い振り売り
をして、百の売り物に千の買い手があるといい、
人が集まっている」とある。

 ※七座=七つの専売店

また、「町人は小屋を作り、諸国津々浦々の
名物を持ってきて、売買市をする。もしくは
見世棚を構え、唐・高麗の珍物や、京都・堺の
絹布けんぷを売る者もいた」ともある。

新市に一の棚をかざるというのは
『狂言記』巻四の柿売りの言葉や
巻五かつこほうろくの言葉など
そのほかにも狂言には多い。

『続狂言記』巻一、河原新市という狂言に
「今日は河原の新市でござる。いつものごとく
酒を売りに参ろうと存じます。(中略)
参るほどにこれでござる。ここもとにみせを
出しましょう」とあるので、単にみせとだけ
いうようになったのは、最近ではないようだ。

『清水物語』(慶長中作、寛永十五年刻)上巻に
「四条五条の辻に小間物みせというのがあるが、
これは棚ひとつにいろいろな物を取り集めて
置いて、人の用次第で売るものだ」

『貞徳文集』(松の屋蔵本)下巻に
「料紙商売について、見世棚はしかるべき場所
にあるからお尋ねください」

見世棚5

この文集は寛永のはじめに作られたもので、
文中に思う点はあるが、慶安三年に発行された。

これらを次の古図に合わせ、いにしえの
見世棚の様子に思いを馳せてみよう。

『商売往来』にも見世棚の名が見られるが、
近世までもこう呼ばれていたのだろう。
今でもまだ呼ばれているところがあるのか
知るのは難しい。この『商売往来』は
元禄以降のものなので、考証は別にする。

次の古図から考えるに、当時は看板や
水引のれんなどはなく、長のれんしかなかった。

長のれんに三つ橘・玉・子持ちすじを描いて
のれんをかけた上から海老をかけるのは、
今の目印の元となったもので、
橘屋・玉屋・海老屋などというのは、
もとはこの目印からできた名前なのだろう。

軒下にごみ除けと思われる物が
描かれているが、今の水引のれんは
ごみ除けなのかもしれない。

見世棚挿絵

見世棚の古図

(上段の訳)

これは鏡わりという絵巻に載っている
京都四条の町の見せ棚の様子。
この絵巻の時代のことは詳しくないが、おおよそ
文安(1444~1449年)宝徳(1449~1452年)
の頃の物と思われる。

語り出すと長くなるけれど、
外百番※のうちの松山鏡の唄いは
この絵巻の言葉書きに似ているところが
あるからだ。

 ※外百番=百番の謡曲

よって、文安宝徳の物とすれば、
今の文化十年まで約360~370年経った
古画ということになる。

当時の町家の様子を今目の前にする心地だ。


【たまむしのあとがき】

テナントのことを指す「店子」をなぜ「たなこ」と呼ぶのか、長いこと不思議に思っていました。

しかし今回、「店」を「たな」と呼ぶのは当て字なのだということが、ようやくここでわかりました。

その背景には、こうした見世棚というものの存在があり、見世棚=店たな=店=たな、とつながっているのが見えて、すごくスッキリしました。

日本語って面白いですね。

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