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旧約聖書の労働観に関する覚書

 賃労働に従事する身として、人間社会における労働のあり方や、労働がどのようなものとして捉えられてきたか、ということに関心があり、最近はとくにキリスト教における労働観について調べている。しかし、一つのテーマについて掘り下げて調べてみようとすると、芋づる式にわからないことが増えていくのが世の常で、キリスト教文化圏における労働観の変遷を追っていくには、まずその前身となったユダヤ教の価値観や、使徒教父たちにも大きな思想的な影響を与えた古代ギリシア、及びキリスト教がその社会の中で発展・拡大していったところの古代ローマの労働観についても知らなければ、適切な理解は得られないのではないかと考えている。

 とはいえそうなるとその道筋は遠大で、一朝一夕でどうにかなるものではなく、またまとめるにしても膨大な分量になってしまいそうなので、とりあえず手のつけられるところから手をつけてみることにする。今回は、主に新約聖書の中の、労働に関する言及を抜き書きして、簡単な考察を加えることとする。

堕罪前後の人間の労働

 新約聖書の労働観に入る前に、旧約聖書における労働観をざっと概観しておく。とりわけ、アダムとイヴの堕罪の前には労働はどのようなものであったか、そして楽園追放後はどのような点で変化したのか、をまず確認したい。

神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うすべてを支配させよう。」
神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
創世記1.26-28(新共同訳、以下聖書の引用はすべて新共同訳から)

 このように、まず人間は「神にかたどって」「男と女に創造された」。エデンの園における彼らは、何をしていたかというと、

主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。
創世記2.15
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
創世記2.19

 ここでの人間の役割は、神の備えられた楽園を耕し、守ることであり、そこに住まう生き物たちを名付けることであった。エデンの園を耕して守るという労働は、罪の結果としての労苦ではなく、神の御業である世界を世話して守り、祝福を維持する、喜びと安らぎに満ちた活動であるとされている。そして生き物に名前を付ける活動はまた、神の創造の業に与ることのできる喜ばしい仕事である。つまりここでは人間の労働は、神の御業に協同する誉れ高い活動であるとみなされている。それでは、神の言いつけを破って知恵の実を食べた後の人間はどうなるか。
神はアダムに向かって言われた。


「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」
創世記3.17-19

 神からの離反により、土は呪われるものとなり、野の草を食べようとするアダムに対して、茨とあざみを生えいでさせるものになった。この記述は、創世記1.29の「見よ、全地に生える、種を持つ草と種をもつ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」と対照をなすものである。創世記のこの記述から、労働とは人間に対して罰として与えられたものであるとする見解が広まっているが、多くの人はこの解釈を誤ったものとして斥けている。この箇所は、かつては食べ物は神から何不自由なく与えられていたが、神の命令に背いた今では、それは失われ、食べ物を得るためには苦しまなければならなくなった。地の産物が与えられないわけではないが、それは苦しみと悲しみを通して、不安の中で確保されなければならない。今や人間は額に汗を流して日々の糧を得なければならなくなった。このことが呪いであり、罰なのであって、これは必ずしも労働そのものが罰であることを意味しない、とされている。

旧約聖書の労働観

 また、出エジプト記の十戒について記した箇所を見てみると、

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。
出エジプト記20.8-10

とある。これは安息日についての戒律を述べたものであるが、七日目はいかなる仕事もしてはならない、と命じるとともに、それまでの六日間は働いて、仕事をするように書かれている。

いかに幸いなことか
主を畏れ、主の道に歩む人よ。
あなたの手が労して得たものはすべて
あなたの食べ物となる。
詩編128.1-2

 ここにおいては、人間が手を労して食べ物を得ることが、幸いなこととして謳いあげられている。また、ここに述べられていることは、マタイによる福音書の「働く者が食べ物を受けるのは当然である(マタイ10.10)」という考えにも通ずるものであるように思われる。また、箴言集の中には、勤勉さを称揚し、怠惰を諫める箇所が多数ある。

怠け者よ、蟻のところに行って見よ。
その道を見て、知恵を得よ。
蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが
夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食料を集める。
箴言集6.6-8
手のひらに欺きがあれば貧乏になる。
勤勉な人の手は富をもたらす。
夏のうちに集めるのは成功をもたらす子。
刈り入れ時に眠るのは恥をもたらす子。
箴言集10.4-5
人は手の働きに応じて報いられる。
箴言集12.14
勤勉な手は支配し
怠惰な手は奴隷となる。
箴言集12.24
怠惰な者は獲物を追うこともしない。
勤勉な人は人類の貴い財産だ。
箴言集12.27
怠け者は欲望をもっても何も得られず
勤勉な人は望めば豊かに満たされる。
箴言集13.4

 このように、注意深く旧約聖書を紐解いていると、後のパウロ書簡などにおいても見られる、勤労を美徳とし、怠惰を忌み嫌う価値観がすでに形成されているのがわかる。労働を罰として捉え、嘆き悲しむような調子はあまり見られず、むしろ働いて日々の糧を得ることを賛美しているものが目立つ。

 次回以降では、福音書に見られる労働観や、パウロ書簡で述べられる労働観について見ていきたい。余力があればそのまま初代教会における職業活動や、宗教改革から現代に至るまでの労働観の変遷について書き継いでいけたらと考えている。

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