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利休七哲

利休七哲(りきゅうしちてつ)は利休七人衆とも言われ、千宗旦(せんのそうたん 利休の孫)が加賀の肥前の前田利長(まえだ としなが)、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ほそかわ ただおき 三斎)、古田織部(ふるたおりべ)、牧村兵部(まきむら ひょうぶ)、高山南坊(たかやまなんぼう 右近)、芝山監物(しばやま むねつな)とした。

その後宗旦の子、江岑宗左(こうしんそうさ 逢源斎、表千家四世)が1663年(寛文3年)の夏に執筆した江岑夏書 (こうしんげがき)に、利休弟子衆七人衆として前田利長を瀬田掃部(せたかもん)に入替えた。

その後も構成は微妙に変わり、1789年からの寛政期に版行された古今茶人系譜以後は、織田有楽(おだながます 長益)、荒木道薫(あらきむらしげ 村重)、千利休の長男である千道安(せん どうあん)などもあげられるようになった。

諸説あるがいずれも後世に呼称されたもので、当時から呼ばれていたわけではない。この七人のうち、後継者となったのは大きな領地、大封を持たない古田織部だった。蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ほそかわただおき)、芝山宗綱(しばやまむねつな)の武将は利休門三人衆(りきゅうもんさんにんしゅう)とも呼ばれる。


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