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茶の湯とは…

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茶室を造らせて頂き日本の伝統文化の素晴らしさを再認識。茶室がもっと沢山造られる住文化を取り戻したい…数寄屋、茶室のことを設計(施工者)視点で発信していきます。
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2022年8月の記事一覧

数寄屋と茶室

数寄屋(すきや)とは安土桃山時代にできた茶室のことを一般的には指します。庭園に面した別棟として四畳半以下の小さな茶室を建てたのが始まりであり、芸道に熱心な数奇者(すきしゃ)が趣味として茶道などにのめり込み、茶道を楽しむために建てた建物です。茶室の様式を取り入れた日本建築を総称して現代では数寄屋建築と呼ぶようになりました。茶道だけでなくその他の日本文化や、風流を楽しむための数寄屋は「好みにまかせて造った家」という意味になります。 数寄屋が建てられ始めた当時、座敷には床の間、違

近年の数奇者

原三溪(はらさんけい) 岐阜生まれ。横浜にて製糸貿易で財を成す。横浜本牧に三渓園を造り、紀州徳川藩の臨春閣(りんしゅんかく)や月華殿(げっかでん)、春草盧(しゅんそうろう)などを移築した。 益田鈍翁(ますだどんのう) 利休以来の大茶人と言われた。明治維新後に横浜で貿易商を営み三井財閥を大成させた。京都、大徳寺聚光院(だいとくじじゅこういん)の利休忌に合わせて開催される月釜茶会(つきがまちゃかい)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)を偲ぶ光悦寺で11月に開催される光悦会(こうえつ

片桐石州 松平不昧

片桐石州(かたぎりせきしゅう) 片桐石州(かたぎりせきしゅう)は奈良県大和郡山市の1万6400石の大名。徳川家の菩提(ぼだい)所である京都東山知恩院(ちおんいん)の作事奉行(さくじぶぎょう)などを勤める。茶の湯は千利休の子、千道安(せんのどうあん)の弟子、桑山貞晴(くわやま さだはる)に師事。茶湯三百ヶ条という指南書などを残した。茶湯さびたるは吉、さばしたるは悪敷と申事(茶の湯において、自然と古び良い味となったものこそ良く、意図してそのように作ったものはよくない)と述べたこ

小堀遠州(こぼりえんしゅう)

擁翠亭(ようすいてい) 小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、安土桃山から江戸時代前期にかけての大名であり建築家、作庭家、書家などの多方面の才能を見せた茶人。「遠州」という名は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年に名乗った。孤篷庵(こほうあん)の庵号。二代備中国代官で備中松山城主、のちに近江国小室藩初代藩主となった。 茶の湯は「きれいさび」と称され、遠州流として現在も続いている。生涯で約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及ぶと言われており、彼の著名な門下と

千宗旦(せんのそうたん)

千宗旦(せんのそうたん)は利休の後妻千宗恩の連れ子で千少庵を父に持ち、母は利休の娘お亀、少庵の京千家を継いだ千家3代目となる。家督争いを避けるために10歳の頃に祖父利休の希望で大徳寺に預けられる。16歳の時1594年(文禄3年)千家再興が叶い僧籍を離れて弟子らとともに利休流のわび茶の普及に努めた。祖父の利休が豊臣秀吉により自刃に追い込まれたことから政治との関わりを避け、生涯仕官はしなかった。茶風は祖父利休のわび茶をさらに徹底させ、清貧という意味から、乞食宗旦(こじきそうたん)

織田有楽斎(おだうらくさい)

織田有楽斎(おだうらくさい 長益 ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名で茶人。如庵(じょあん)と号した。千利休に茶道を学び、利休十哲の一人に数えられる。後に有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、東京の三井本邸に移築され、現在は犬山にある茶室如庵は現在国宝に指定されている。 元庵(げんあん) 利休と同時代を生きた織田有楽の数々の創意工夫が見られる大坂天満屋敷にあったという茶室。鰻のように長い平三畳台目に太鼓襖二枚で、客座はゆったりとした幅を持たせて

古田 織部(ふるたおりべ)

古田 織部(ふるたおりべ 古田重然 しげなり)は室町時代末期から安土桃山時代にかけての武将で茶の湯の造形が深かった古田 勘阿弥(ふるたかんあみ 重定)の子で戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した。17歳で織田信長の使番として仕官し、22年間織田信長に仕えた。1582年ごろに千利休に弟子入りし千利休とともに茶の湯を大成し、茶器、会席具製作、建築、作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代から江戸時代前期にもたらした。千利休の高弟7人を指す「利休七哲」のひと

利休七哲

利休七哲(りきゅうしちてつ)は利休七人衆とも言われ、千宗旦(せんのそうたん 利休の孫)が加賀の肥前の前田利長(まえだ としなが)、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川忠興(ほそかわ ただおき 三斎)、古田織部(ふるたおりべ)、牧村兵部(まきむら ひょうぶ)、高山南坊(たかやまなんぼう 右近)、芝山監物(しばやま むねつな)とした。 その後宗旦の子、江岑宗左(こうしんそうさ 逢源斎、表千家四世)が1663年(寛文3年)の夏に執筆した江岑夏書 (こうしんげがき)に、利休弟子衆七人衆

千利休 妙喜庵侍庵

草庵風(そうあんふう) 千利休は茶席の大きさを二畳まで狭め、茶室を独立した建物にし、草庵風と呼ばれる様式を確立した。入り口は、武士は刀を外して腰を曲げて入らなければならない躙口(にじりぐち)とし、茶室の中は身分に関係なく、人として対等であるという考えから武士も刀掛けに刀をあずけ茶室に入った。 茶室・待庵(たいあん) 妙喜庵 侍庵(みょうきあん たいあん)は日本最古の茶室建造物であり、現在一般化している、躙口(にじりぐち)が設けられた小間(こま)の原型で、数奇屋建築の原型とさ

茶の湯の歴史 千利休

千利休(せんのりきゅう) 鎌倉時代に禅の伝来とともに喫茶文化(きっさぶんか)として茶も伝わった。喫茶文化とそこに禅の心を取り入れて質素な道具の中に美しさをみいだし「わび茶」を大成させたのが千利休(せんのりきゅう)。精神世界に茶の湯を落とし込み現在まで表千家、裏千家、武者小路千家の三千家をはじめとして多くの流派が受け継いでいる。織田信長、豊臣秀吉に支え秀吉の命令により床の間や壁などに金箔を貼った「黄金の茶室」をしつらえたりするが、日本人の精神性を伝える「わび」、「さび」の心の

茶の湯の歴史 村田珠光、武野紹鴎…

千利休が現在まで通ずる侘茶を確立し、3代目の千宗旦(せんのそうたん)や、その子どもで三千家を興した次男一翁宗守(いちおうそうしゅ)武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)表千家、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)裏千家の偉人達は知っているが、茶道の流派は煎茶も入れて400近いそうで、どんな方たちがそれぞれの茶の湯を開いて行ったのか興味が湧いてきたので、浅い知識ながら調べ始めました。間違ってる所があったらごめんなさい… 村田珠光(むらたじゅこう)