ぼくは「物語」だけあればいいのに、ここで作るのは楽しくてー、
※このnoteは劇団ノーミーツ1周年記念企画「劇団員24人全員がnote書く」のひとつです。劇団ノーミーツの主宰、脚本家、演出家の小御門優一郎が書いております。
他の劇団員のnoteはこちら
劇団ノーミーツ、立ち上げて1周年だそうでございます。
いや、早いですね。ぼく思うのですけど、光陰が過ぎ去っていくスピードってまるで矢が飛ぶようじゃありませんか?
たった一年しか経っていないけど、色んなことがありました、色んなことが変わりました。
ぼく個人のことで言うと、それまで勤めていた会社を辞めて、立ち上げた会社Meetsのメンバーになり、肩書きが「脚本とかも書いてる会社員」から「脚本家」になりました。
とは言っても別に物書きの試験に合格したとかじゃありません、自分で勝手に名乗り始めただけです。「物語」の作り手に憧れ続けていたぼくは、いつかそうすることを決断しなければならない時がやってくるのだろうなと、前々から思ってはいました。これは、そのタイミングが思っていたよりだいぶ早く、2020年にやってきたというお話しです。
それではこれより、厚かましくも昨年「ぼくは書くことを生業としている人間です!」と自ら宣言するようになった小御門優一郎(生意気にもペンネーム)という男の1年を、劇団ノーミーツの活動と共に振り返っていきたいと思います。
長くなるだろうなぁ!!!
一応、主宰の一人、立ち上げメンバーなのでね。
皆様、画面右側に表示されているスクロールバーの大きさをご確認ください。そうです、そのバーがブラウザウィンドウの下辺にタッチするまで、この記事は続きます。覚悟は決まりましたか?
そろそろ、始めさせていただきます。
「創像工房in front of.」と「21g座」
いや早速ノーミーツより前の話!!
すみません。昨年、世の中に対して自粛が呼びかけられるよりちょっと前の2020年2月、ぼくは阿佐ヶ谷の小劇場で演劇公演を打っていたのであります。ぼくがオンライン演劇を始める前はどんなことをしていたのか、そこから書かせてくださいませ。
ぼくは大学入学とともに、「創像工房in front of.」という演劇サークルに入って「演劇」を始めました(どんどん遡る…)。
(『門外不出モラトリアム』にも出演してくれた小川千尋さんがそのサークルの先輩で、入学式後に小川千尋さんからチラシを受け取ったことが演劇を始めたきっかけだったりします。)
意外なことにハマりました。あーでもないこーでもないみんなで言い合って、これやばくね?ってなってもギリギリまで粘って、なんとか完成させたものをお客様にお見せして、もちろん厳しいことも言われることもあるけど気に入った方からは褒めてもらえる、このサイクルに完全に脳を灼かれてしまいました(ギャンブルと似てますね)。今でもつるんでる岩崎とか、今一緒に住んでる飯塚とか、気の合う友達もたくさんできて、大学を留年するくらいにどっぷりとハマっていった小御門でした。
サークルの合宿で海にきた岩崎(左)と小御門(浮き輪)
ぼくらが海に行くといつだって曇天である。
演劇公演を作ったり、映画を撮ったり、コントをやったりと、色々経験し4年生になってサークルでの態度もでかくなってきた頃、学校の外の演劇祭やコンテストに参加してみたくなりました。結構勝負ごと、好きなんです。これは今でも変わりませんが、色んな切り口からの審査や批評にも耐えうる「面白さ」を備えた作品を生み出してみたいと思ってまいます。そんな血気盛んな当時21歳のぼくが大学の外でも活動していくべく2015年に旗揚げしたのが、「21g座(にじゅういちぐらむざ)」という劇団です。
21g座のロゴ。
小御門は夏はもっぱら、このロゴがあしらわれたTシャツで過ごす。
21g座では、飛んだり跳ねたりしゃべりまくったり、けっこう身体性を伴う元気なやつをやっていました。
劇団旗揚げ後、いろいろ演劇祭やコンテストに出るのですけど、これが全然勝てないのですわ…!惜しいところまでいっても、最後で勝ちきれない。審査結果には納得しつつ、やっぱり悔しくて、大会に出まくっては審査員特別賞がダブらせたりしていました。
『平成百鬼夜行』(2015)
特別賞受賞を喜びつつ顔をしかめる小御門(右)
実はこの大会には別の団体からオツハタが出ていた(梅田も裏方にいたらしい)。そして、オツハタの団体に最優秀賞を持っていかれてしまった。一生忘れない。この時オツハタを見るのは初めてで、彼のフェイスと動きと声が合わさった総合的面白さに、脅威を感じたことを今でも覚えている。
『虚構の浮力都市』(2015)
劇王神奈川に出場した時の写真(奥、小御門)
この時も審査員のお一人に全然ハマることができずにポイントを合算したら負けてしまった。この作品内で岩崎をとんでもなくスベらせてしまい、それに対する罪の意識を未だに抱えている。
「21g座」としてたくさん大会に出た後、サークル員としての活動も締めくくりたくて(やりたがりすぎる…)、卒業公演を作っていたりしたら、「人生の夏休み」と称され万金に匹敵する価値を持つ大学の4年間が、あっという間に露と消えていったのでした…。
『在りし日の街〜謳歌せよ我が世〜』(2016)
卒業公演に出演する小御門(右)とヤギの着ぐるみ(中身:岩崎)
アディショナルタイムと林健太郎
サークル活動は終わっていきましたが、とはいっても小御門は留年していたので、ストレートで卒業したサークル同期がいなくなってしまったアディショナルタイムの1年があったのです。そんな時就活のインターン先で出会ったのが、林健太郎という男でありました。同じ大学の同学年で、実はあの時ニアミスしてるじゃん!なんて話から、いつのまにか卒業制作の映画を一緒に作ろうということになります。
一緒に作り始めると、林は全然知り合いじゃないカメラマンの方に特攻して撮影監督をお願いしようとしたり、音楽もこの人からトラックもらおうなんて言い出したり、なんだかぼくがこれまで触れてきたものとは違う推進力で作品を作っていこうとする無邪気な少年のような男で、ぼくは初めてプロデュース面を任せて製作だけに集中するということを経験しました。劇団の主宰というのはそこのところ色々兼ねがちなので、なんだか新鮮な制作期間でした。
もう一つ新鮮で面白かったのは、林がそもそも映画企画のGOを全然出してくれなかったことです。ぼくが入っていたサークルでは「脚本家、演出家がいちばんやりたいと思っていることをみんなで作り上げよう」っていう優しい気風があって(その深堀とかは厳しくやるのだけど)、「その企画をどうやって作っていこう」という話はしても「その企画は面白いのか、ウケるのか」っていうところまではなかなか遡って話さなかったんです。そこを林は「渋い」とか「狭そう」とか「広がらないな」とか言ってバシバシ叩いてくる。それは今も変わらないんですけど、林って本当に純粋に面白そうか否かでしかジャッジしていないので、不思議と即却下されても全然悪い気はせず、「ダメだったかぁ〜」って思えるんですよね。
カメラロールに保存されていた最古の林(2016.12.30)
今と全然変わらない(若返っていっているという説もある)
結局卒業制作の映画は、上にもヤギ着ぐるみの写真を貼った卒業公演を作っている時のぼくの制作期間を映画として撮り直すという謎の企画に着地し、卒業式ギリギリまで撮影やら編集をしていました。その時作った映画はいくつかの映画祭に出したんですが箸にも棒にもひっかからず、今では幻の作品と化しています。
『楽日』(2017)
今では取り壊されてしまってもうない、高円寺の明石スタジオという劇場を使って撮った演劇の映画。
映画を作り終えて気づいてみたら、2、3日後には入社式でした。林とは偶然入社先も同業だったので数日後の業界研修やら懇親会やらでまたすぐ顔を合わせることになるのですが、彼とは一旦、別々の会社に別れていくのでした。
会社員生活と「小御門優一郎」の誕生
そんなこんなで、卒業旅行に行くこともないまま4月を迎え、ぼくは松竹株式会社に入社しました。
2ヶ月間の研修を経て配属されたのは「歌舞伎」の部署で、退職するまでずっと歌舞伎でした。今振り返ってみても、刺激に満ちた3年半でした。演劇のジャンルとして通ってこなかった「歌舞伎」を学べたことは大きかったし、普通にお芝居として歌舞伎大好きになりました(歌舞伎観てみたいけど何から観たものか…、みたいな気持ちをお抱えの方!是非一緒にいきましょう!)。
ぼくの働きぶりはというと、働き始めてすぐに結構なポンコツであることが明らかになりました。それなのにめちゃくちゃ貴重な経験をさせてもらいました。お世話になった皆様、ご迷惑をおかけした皆様、この場を借りて言っていいものかわかりませんが、心からの御礼と謝罪申し上げます…!いつか松竹に恩返しができるよう頑張っていきたいと、思っております。。。
ポスターの校了後、印刷会社さんを交えた打ち上げで果てる小御門
ぼくは一度寝ると周囲がどんなにうるさくても眠り続けるという習性をもつ
入社して2年ほどは仕事に順応していくことにいっぱいいっぱいなのですが、すこーしだけ慣れてくるとまた何か「物語」を作りたいという欲求が、ぼくの中でムラムラと湧いてきます。
ちょうど各々別の会社で働いているサークル同期たちも、同じ欲求を募らせていた頃合いだったらしく、短編映像でも作ろうよという話になります。その時、会社に映像の監督やりたい人がいるよと紹介されたのが、宮原拓也という男でした。なんとなくすぐに気が合って、ぼくが脚本、宮原が監督という体制で、短編映像を作って神奈川県愛川町の映画祭に出品します。
『TOO MATCH』(2018)
マッチングアプリ使ってたら会社の女性陣にバレたという恥ずかしい実体験から書いた(元をとれて良かった)。ぼくは脚本と芝居だけつけて、監督の宮原に任せるというスタイルも初めてで面白かった。サムネの赤間くんは『門外不出モラトリアム』にアンサンブルとして出てくれた。
久々に作ったらもう、めちゃくちゃ楽しかった。嬉しいことに優秀賞もいただけたのです(また勝ち切れてない…)。
映像作りを楽しく終えたぼくはすぐに、「21g座」として演劇作りもまたやりたい!という気持ちになりました。演劇をできる場所探しをして、幸運にも「神奈川かもめ『短編演劇』フェスティバル2019」という演劇祭の出場団体に選出していただけました。会場がKAATという立派な劇場で、喜び勇んだぼくはずっと一緒にやりたかったけど学生時代はそれが実現できていなかった、オツハタに出演オファーを出します。彼はその時期、色々あって大変だったらしいのだけど最後は受けてくれました。他には、ぼくを「創像工房in front of.」に勧誘してくれた小川千尋さん、サークルの後輩でありなんと会社の後輩にもなった小林くんにも出てもらって、短編作品の稽古に入りました。演劇も久々に作ったらもう、めちゃくちゃ楽しかった(審査結果は惨敗だったけど…)。この時くらいから、一度距離ができちゃった人とも、会ったばかりの人とも、作品づくりを基点にすれば楽しく関わりあえるじゃないか!という気持ちがぼくの中に芽生え始めます。
そういえばこの時のかもフェスには「柿喰う客」も出場していて、偶然にも出演キャストの中にサークル同期で「柿喰う客」に入った田中穂先くんがいたりしました。ノーミーツを始めてからめちゃくちゃお世話になることになる中屋敷法仁さんとも、直接お話しさせていただいたのはこの時が初めてで、顔合わせのテーブルで緊張しながらお話ししたのを覚えています(中屋敷さんはこの時もずっとマシンガンで喋りつづけておられました)。
『永世迷人』(2019)
オツハタ(右)と小川千尋さん(左)。可能性が減るのがいやで初手が指せなくなった棋士の話。思えばぼくは「不能者」を描くことが多い。
ぼくが自主活動で映像や演劇をやっていることを会社には言っていたし、仕込み本番期間は有給をいただけたし、なんなら本番も会社の人がたくさん観にきてくれました(本当にいい会社だ)。
だから本名名義でやったって問題はなかったと思うのですけど、ぼくはここから「小御門優一郎」というペンネームを使い始めます。実はずっとペンネームというものを使ってみたかったし、「書くための名前」を作ることで、「ぼくはまだまだやる気だぞ」ということを自分と周囲に対して宣言して、書くのを辞めてしまわないようにしたかったという気持ちもあったと思います。でもこのかもフェスの運営をしている方々は、学生時代に出場した劇王神奈川の運営もしていた顔馴染みの方々が多かったので、悲しいことにこの時ペンネームは全然定着しなかったのでした…。
復活の「21g座」と新生の「劇団ノーミーツ」
会社員として働きつつ、1day本番の演劇祭に出場した小御門は、どんどんやりたさが膨らんでいってしまい、今度は劇団としてまた「公演」をやりたいと思い始めます。
そこで、21g座旗揚げ当初からずっと一緒にやってきた土肥遼馬と「復活公演」を打とうと決め、2020年2月に阿佐ヶ谷の小屋を抑えました。そこから相変わらず働きながら、久々の「公演」実施に向けて、諸々の準備をスタートさせたのです。単発のコンテストに出るのではなく、「公演」を打って再び劇団を動かし始めるのですから、そこそこの覚悟をもってその決断をしたつもりでした。
21g座復活公演「復刻版初回生産限定盤」(2020)のチラシ
主宰のぼくと副主宰の土肥による2本立て公演でした。
幕間の映像は宮原が監督してくれた。
久々にチラシを作ったり、オツハタから「会わせたい役者がいる」と上谷圭吾という男を紹介され、会ったその日の内に出演をオファーするなどしながら製作を進め、あっという間2019年は暮れていき、2020年がやってきました。
その頃、「コロナ」という未知のウイルスが、ぼくたちの生活にだんだんと近づいてきているらしいというニュースを聞くようになりましたが、会社の仕事をやりつつの公演の準備でぼくはいっぱいいっぱいでした。
迎えた2月の公演本番、予約をキャンセルするお客様も少しいらっしゃったけど、ありがたいことに公演全日程なんとかやりきることができました。
久方ぶりに、思いっきり「演劇」ができた気がしました。複数団体が出る演劇祭やコンテストは、大会の都合上舞台や照明の演出にどうしても制限が制限がかかってしまったりするんですけど、その時は自分たちだけだったので、存分にやりたいことを詰め込みました。
『オルタナティヴ・ギシキ』(2020)
人の弔いを代行する「葬送代理店」が舞台のお話。オツハタ(左端)と上谷(右端)と2020年の内にあと数本公演作りをすることになるとは、この時思いもよらなかった。
幸運なことに「公演」をやりきることができたぼくは、2020年3月はある種欲求を解消したばかりの「満たされた」状態で迎えました。歌舞伎界的にも大きな行事がある予定でしたので、今年は仕事をがんばらなくちゃという気持ちでいました。
しかし3月に入ると、いよいよ「コロナ」はもう対岸で起こっている出来事ではなく、我々の生活を実際に脅かす脅威として認識され、会社で作っている演劇公演は軒並み中止を余儀なくされました。関わることになっていた大きいプロジェクトも延期されることになり、あれよあれよといううちに、勤務形態は在宅勤務に切り替わりました。
当然、どうしたらいいかわからなくなる訳であります。家で顔を合わせることが多くなった飯塚とこれからの不安について毎夜話し合ったりしながら、どうすることもできずに時は過ぎていきます。
そして4月に入ってすぐ、日付が5日から6日に変わったばかりの深夜、林から連絡が入ります。
送られたきたURLをクリックすると、広屋佑規という知らない男がいました。聞けば、もともと野外ミュージカルなどの体験イベントを作っていた人物で、自粛で進めていたプロジェクトが全てストップし途方に暮れ、林とこれからどうするかを話していたそう。
そこでいきなり、「Zoom演劇」が作れないだろうかと持ちかけられました。ぼくはその話を聞いて、「やってみてもいいな」なんて思って、軽い気持ちで引き受けました。そう、軽い気持ちでした。ちょうどその数日前、リビングで飯塚が自身のHIP HOPクルー「Dos Monos」のメンバーとZoomで打ち合わせをしているところを通りがかって会話に合流した時、「今の、ちょっと舞台ぽかったな」なんて思ったばかりだったので、できなくはないだろうとも思ったのです。広屋との自己紹介はそこそこにすぐに、ブレストに入りました。
こうして、劇団ノーミーツ(この時まだ名前はありませんでしたが)の最初の3人が集まり、その活動が始まっていったのです。
団体名が決まった瞬間
最初の作品が投稿される直前だった
「物語」に対して節操のないぼくだからやってみようと思ったのだろうけど、それでもやらない可能性もあったと思う。
広屋、林と話した最初の夜からは、今思い返しても怒涛のペースでした。次の日にはついこの間21g座の公演に出てもらったばかりのオツハタと上谷をミーティングルームに呼んで実験を始め、はじめにホラーを作ることを決め、またその次の日には追加で同じく公演に出てもらっていた新野七瀬さんにも繋いでもらい撮影を行い、同時並行で団体名を考えたり、仮のアイコンを作ったり準備を進め、4月9日の21時すぎ、劇団ノーミーツとして初めてのコンテンツである「Zoom飲み会してたら怪奇現象起きた…」がTwitterのタイムラインに投稿されました。
この頃、もちろん依然として生活への不安もあったし、Zoomで演劇を作ろうと言ってもわからないことばかりだったけど、その試行錯誤自体は楽しく感じていたのを覚えています。
そういうところ、節操ないなぁなんて思います。だって自分の劇団の公演が終わったばかり、勤めている会社の演劇公演が延期されている、「リアル演劇がやれない」間に早速「オンラインで演劇やってみました!」なんていって、新しい団体を立ち上げて新しい表現形態とよろしくやり始めたんですから。
でも、ぼくってそういうところがあるのです。正直、現実を忘れさせてくれる「物語」であるなら、その形態はなんでもいいんです。ぼくが憧れ続けたのは「物語を作れる人間」であって、絶対「演劇」じゃなきゃいけないなんてことは全然ないのです。
大学の入学式のあと、小川さんに演劇サークルのチラシをもらう前、そもそも塾生会館付近をうろうろしていたのは、文芸サークルか映画サークルを入ってみようと思っていたからなのです。
でも同時に、そんなぼくだからこそ劇団ノーミーツ、やれたんだろうなと思います。自虐っぽい軽薄アピールの次に自己肯定始めてすみません。「オンライン演劇」って、「演劇」と「映像」ふたつの性質を持っているんですけど、それってよく言えばいいとこ取りできるみたいな風に言えますが、どっちにもなり切れない中途半端な媒体とも言えるんです。「演劇」か「映像」、そのどちらかに特別な愛を持ってしまっていたら、作っていて嫌になってしまうこともたくさんあったことだろうと思います。ぼくはというと、難しなぁとは思いつつ、基本的には2020年に生まれた新しい表現媒体で、このタイミングにしか生まれない物語を生み出すことを楽しんでいました。そんなぼくの性質を林が見抜いたうえで誘ってくれたのかはわかりませんが、劇団ノーミーツで脚本と演出を任せてもらうこと、結構ぼくには合ってることだったんじゃないかと思います。
とは言え、そんな「物語」に対して節操のないぼくとは言え、です。劇団ノーミーツをやらない、広屋と林の誘いをお断りした可能性もなかった訳ではないなと思うのです。
先にも書いた通り、2020年春先のぼくは幸運にも自分の公演をやりきることができて、ある種欲求が満たされた状態でした。だからこそ、次の表現媒体の模索に割とすんなり入っていけたのですが、これがもし、延期や中止をせざるを得ない状況にあったら、流石にその気持ちは変わっていたと思います。やりたかった「演劇」ができないまま、それならば「オンライン演劇」をやろうという切り替えは、すぐにはできなかったかもしれない。
だから、ぼくが劇団ノーミーツを始めることに繋がったすべての要因に、この場を借りて感謝申し上げたいと思います。
劇団ノーミーツを始めて、嬉しいこと、楽しいこと、叶えられたこと、たくさんありました。ぼくがノーミーツを始める世界線に導いてくれたすべて、ありがとう。
ぼくにとって劇団ノーミーツは「新登場」キャラと「再登場」キャラのドラマ
さて、よ〜〜〜〜〜〜やく劇団ノーミーツ旗揚げまで話を進めることができました。劇団ノーミーツ立ち上げからの1年を振り返るためのnoteだというのに…。
ここまで長々と書かせていただいたように、さまざまな要因、タイミングが重なって、ぼくは劇団ノーミーツの主宰の一人になることができました。そこから始まったのは、ぼくにとって「新登場」キャラと「再登場」キャラによって織り成されるドラマです。
最初に出会った広屋から始まり、ノーミーツ旗揚げ以降、すごい人たちとの新しい出会いが本当にたくさんありました。30歳近い大人になってこんなに数多くの新しい友達ができたこと、それによって新しい世界が広がったことはもちろん嬉しいことでありました。でもぼくにとってそれと同じくらい、いやなんならそれ以上に嬉しかったことは、ぼくが「演劇」を始めてから出会い、一緒に作品を作ったことのある人たちとまた一緒に作品を作れる場所を持てたことです。
一緒に大学の卒業制作映画を作ってくれた林が誘ってくれて始まって、一緒に公演作りをしていた好きな役者であるオツハタや上谷が引き続き演者としていてくれて、演劇を始めるきっかけになった小川さんが旗揚げ公演に出てくれて、岩崎も当然のように仲間に加わってくれて今では2人作家体制でやれていることも、ぼくにとっては胸熱な展開な訳であります。他にも数え上げればきりがないくらい、このnoteに登場した皆様は尽く劇団ノーミーツが始まってからの物語に「再登場」してくれて、力を貸してくれたり、一緒に考えてくれて、ぼくはそんな展開がくる度に胸を高鳴らせておりました(こういう自己中心的な視点からなんでも事象を物語化して勝手に喜んだり落ち込んだりするぼくの性質には、いつか天罰が下されるだろうとは思っている)。
そして、「脚本家」になりました。
一気に飛んだ!とお思いになりましたか?ええ、飛びましたとも(どれだけの方がここまでたどり着けたのでしょうか…?)
劇団ノーミーツ結成後、具体的にどんな活動をしてきたか。それを書くのは、また別の機会に譲りたいと思います。
劇団ノーミーツ、昨年の4月に結成し、自主の短編作品から始まって、コラボ短編、長編公演などいろんな作品を作りました。
「ダルい上司の打ち合わせ回避する方法考えた。」
初めてバズというものを経験。
旗揚げ公演『門外不出モラトリアム』
初の長編公演。オンライン演劇でもなければ、自分がタイムリープ×青春ものという大金字塔ジャンルをやることもなかったと思うので、いい経験となった。
第二回公演『むこうのくに』
デバイス視聴である前提を活かして、Zoomを超えた作品づくりを目指した。図夢歌舞伎の演出補佐と完全に時期が被り、Zoomの前に自分の限界を超えてしまうのであった。
第三回公演『それでも笑えれば』
内容的にはヒューマンドラマに挑戦して、新しい観劇体験として選択システムを取り入れた。第65回岸田國士戯曲賞の最終候補作品にノミネートしていただけた。劇団ノーミーツを始めてから一番嬉しい出来事であった。
ぼくは2020年という年が始まった時は、間違いなく脚本家として無名でした。自分でもそれまで「脚本家です」と言ったことはなかったのではないだろうかと思います。
それでも劇団ノーミーツを始めて、これだけ多くの公演で脚本・演出を担当させてもらえて、これまでとはちょっと比べ物にならないくらいの数の方に公演を観ていただいたりすると内心思う訳であります、「今が勝負をかける時なのではないか…?」と。一度その思いがよぎってからは大して悩みませんでした。最初にも書いた通り、ずっと憧れてきたことだから、きっとこれと同じくらいのチャンスは、これを逃したらもうやってこないと思ったから。
まだまだたくさんの「物語」を作りたい、
まだしばらくここで作っていきたい。
はい、ということで「脚本家」を名乗り始める決断部分をあっさりと語らせていただいたところで、ようやくお別れのお時間が近づいて参りました。
去年3本の長編公演(21g座の復活公演も含めたら4本)を作りましたが、ぼくはまだまだ、「物語」を作りたりません。
この記事内でも言った通り、面白い、現実を忘れさせてくれる「物語」であればなんでもいいです。だから「オンライン演劇」にもまだポテンシャルはあると思うし、なにか良いアイディアが思いついたらまだ作りたいと思いますけど、今年はもっといろんな形態での物語表現に挑戦したいと思っています。
ありがたいことに、「オンライン演劇」以外の「物語」を作ることもお願いしていただけるようになったりして、これは頑張っていきたい。これは絶対の確定事項としてある訳です。
YOASOBIさんの楽曲「三原色」の原作小説を書かせてもらいました。
SCRAPの脱出ゲームも今書かせていただいております。
もうひとつ、思うのは、もうしばらくこの「劇団ノーミーツ」という場所を作りたいということです。
作るものは「オンライン演劇」から色々変えるかもしれない。でも「劇団ノーミーツ」という場所で作るのは、まだしばらく変えたくないな、そんなことを思っています。
だって、ノーミーツで作るって楽しいんです。
これはちょっと困ったことかもしれませんね。
ぼくは「物語」だけあればいいはずなのにー。
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