老害ブロック、ジジイブロック

尾原和啓『あえて #数字からおりる 働き方』
読みました。

1回目の通読で一番おもしろかったのは、
#アンラーニング   です。

説かれていることの必要性・重要性は、以前からわきまえており、心がけてはいたのですが、こうやってタグ付け、ネーミングをして頂くことによって、より安定的に #習慣化 できます。ハードルが下がりました。
キャッチーで覚えやすい呼び名がないことって、その事柄を思い出すことすら難しくなるし、思い出すことすら出来ないことを実践するなんて、とてもムリですからね。
このへんは、同じ本の232ページで紹介されていた「知識の壁」に関わることでしょう(余談)。

ぼくは自分なりに「 #老害ブロック 」とか「 #ジジイブロック 」と呼んでいる振る舞いがありまして。年齢を重ねていくと、ひとは、新しいものに対して否定的になる。いってみれば、アンラーニングができなくなるんです。

その理由は、ぼくなりに推測をしておりまして、
ひとが、30代まで生き残っており、現在それなりに生きている、幸せである、少なくとも自殺をしたくてウズウズしているぞ!という段階でなければ、もはや、すでに自分が身に着けた、知見とか体験というのが、すべて #成功体験 として、自分のなかに登録されているわけです。
ですから、わざわざ成功体験をくずしてまで、勝ちパターンをこわしてまで、別のことをする必要はない。アンラーニングをするのは下策である、効率が悪い、生存戦略として不利である…と考えてしまいます。
本人が、それほど深く考えてなくても、構造としては、そういうことですよね。のほほんと、なんとなく生きているひとは、自分の内側にあることを、貴重な成功体験として、なでなでしながら生きている。

この守りに入った姿勢というのは、べつに悪いことではなくて、むしろ生きていく知恵に属するかと思うのですが、そうすると、若い人の意見を聞けなくなったり、世間の新しい変化をブロックしたりするようになります。
それを、ぼくなりに、老害ブロック、ジジイブロックと呼んでいます。

身近な体験ですと、ぼくは、三国志が好きなんですけど、古参のファンなんかが、「近年の三国志の作品は、けしからん。キャラクターを全て美女・イケメンに変えているだけ」とか、「キャラクターを個別化、分断化してデータベースのようにして消費している。話の流れ、歴史の全体像をまったく理解しようとする姿勢がない」みたいなことを言うわけです。

しかし、おそらく10歳以上、自分より若くて、三国志に興味がありますー、好きなんですー、っていうひとと喋ってみると、美女・イケメンだから興味を持ったし、好きになったし、キャラの掘り下げをしていくうちに、××なことを考えるようになったんですけどー、
みたいな、「感心できる」話をしているわけですね。※老害な発言

ぼくは30代後半ですけど、30代の古参のファンたちと、上記のように、「けしからん、なっとらん」と慨嘆して、天を仰ぐ…という感じですと、優越感をくすぐられますし、相互に気持ちよくなれるから喜びしかありませんし、成功体験を強化する、塗り重ねてかためていく作業なので、にやにや、しわしわ(目尻の描写)をしてしまうわけですが、

アンラーニングせよ!!!と言いたいわけです。
そういうわけでぼくは、『劉備徳子は静かに暮らしたい』を全巻まとめて買って読んでますけど、ふつうにおもしろいんです(←失礼な感想)

老害ブロック、ジジイブロックを発動させるのではなくて、アンラーニングせよ。あえてリセットして、新しい視点を取り込んでみることで、かえって、経験を重ねた?ジジイにしか得られない視点に辿り着けるのではないか。と思うわけです!!

「その作品は、あなた向きではありませんよ、気に入らなかったら申し訳ないので読まなくていいですよ!!私たちは楽しく読みましたけどね」
って若者が言っていた作品を、ジジイのくせに敢えて読む、そして楽しかった。これは、不断の努力によって、成し遂げられ続けねばならない、態度の持ち方だと思います。