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田舎の公立小中学校からケンブリッジに行った話 - 番外編その1

番外編ということで、少し軽い話題で、地方出身と言ってもどれぐらいの地方だったのか、ということについて幾つかのエピソードを紹介していきたいと思います。今回は国際的な経験(の乏しさ)についてです。

小学生時代の国際交流

都市部の子供であれば、海外の人に出会う機会も多いのではないかと思います。また、都市部でなくても有名な観光地などに住んでいれば、海外の方との交流もあるかもしれません。

私の場合、まず小学校時代に外国の人を見たのは小学校4年生の時の1度きりです。なぜはっきりと覚えているかというと、本当にその時しかなかったことと、生まれて初めて外国人を見たからです。

小学校4年生の時に友達4、5人でいつものように学校から帰る途中でした。アングロ・サクソン系の明らかに外国人、という中年の白人男性が歩いているのを見かけ、みんなで大騒ぎしてその人の周りに寄っていきました。と言っても誰も英語を話せないので、興味津々で横について歩くだけです。その人が話す言葉が英語だったかどうかすらわかりません。その人が持っていたメモ帳に何かを書いていましたが、何を書いてあったかもわかりません。ただその日の日記(学校の宿題で毎日書かされていた)に、あれはSみたいな文字が見えたから、SCHOOL?と学校帰りかと聞いていたのではないか、と書いた記憶があります。

5分ぐらい一緒に歩いていくとその人は通学路とは別の方に歩いて行ってしまったのでそこで分かれました。友達の一人で少しませていたやつが、後ろから大声で「ペ○ス!!」と叫んでいたのを覚えています。最低の小学生です。

中学生時代の国際交流

中学校になると英語の授業が始まり、Assistant English Teacher (AET)という人が多くて年に1回ぐらい来て、中学校の3年間で合計2回海外の人に会いました。1ヶ月ぐらい前になると先生からAETの先生が来るから、みんなで挨拶の準備をしましょう、ということになって自己紹介文を考え、当日一人ずつ自己紹介する、というだけの交流です。

1回目は中一の時で、自己紹介用に名前を書いた紙を机に置くのですが、「Naporeon」とローマ字で書いていたら、AETの先生が机の所にやってきて、RをLに書き直される、という恥ずかしいミスをしました。これが一回目。

2回目は中3の時で、同じく自己紹介の練習を1ヶ月ぐらい前から準備しました。この時は友達とSimon & Garfunkleの歌を歌うという、一方的なコミュニケーションで終わりました。

中2の時は多分学校が荒れすぎていて、AETの先生が来てくれませんでした。

高校時代の国際交流

高校時代は以前書いたように都市部の高校に行ったので、もうちょっと機会がありました。と言っても英語で何かを誰かと話したのは2回です。AETの先生も数回来ましたが、何をやったか覚えていません。

1回目は交換留学生が1週間ぐらい同じクラスに来た時で、彼が同じクラスのやつの家にホームステイしており、一度みんなで家に遊びにいきました。と言っても彼は割と日本語が話せたので、英語と日本語で何かを話す、という具合でした。さすがに都市部に住んでいる友達は多少英語ができて、何か話していていました。私はその留学生が何か言ったときに、「Me too!」とだけ答える、というまたしても一方的なコミュニケーションに終わりました。

2回目は友達と学校近くにある図書館に行った時です。20代ぐらいの白人女性の人に、図書館はどこですか、と日本語で聞かれました。舞い上がってしまった私は、英語で「Over there, turn left!」と答えました。左に曲がったので多分通じたんだと思います。

というわけで高校を卒業するまでに私が英語で海外の人とコミュニケーションを取ったのは4回、それも全て一言か二言、という状況です。

同級生の国際経験

小学校、中学校の同級生では、その当時外国に行ったことがある人も、飛行機に乗ったことがある人もいませんでした。
なんで知っているかというと、以前少し書いたように夏休み明けなどに教育委員会のアンケートか何かで、先生がクラスの全員に挙手式で聞いていたからです。質問は2つで、

  1. 休み中に外国に行った人

  2. 休み中に飛行機に乗った人

という質問でした。記憶に残っている限りで、一度も手が上がったのを見たことがありません。もっともそんな状況で手を挙げると、休み時間中にクラス中のみんなから根掘り葉掘り質問攻めに合うことが目に見えていたので、正直に手を挙げなかっただけかもしれません。多分パスポートを持っている人も、一人もいなかったと思います。

家族の国際経験

父親、母親ともに海外に行ったことはないようで、パスポートも持っていませんでした。今でも持っていません。飛行機に乗ったこともない、と言っていましたが、これは新婚旅行で徳之島に行って、その時にプロペラ機に乗ったことがある、ということが最近判明しました。

1つだけ家族で特殊な事情があったとすると、曽祖父が英語の通訳をしていたそうで、それが理由で祖父も少し英語ができたらしいです。ただ、通訳をしていたというのは曽祖父が死んだ後に近所の人に聞いて初めて父親は知ったらしく、祖父も変わった人であまり話したことがないので、英語がどれぐらいできたのかはわかりません。

今から思うと、私が留学という選択肢を持てたのは、曽祖父と祖父の話を聞いたからではないかと思います。

まとめ

今回は私の出身地での国際交流機会の乏しさについて説明しました。高校を出るまでに英語でコミュニケーションを取ったのは4回です。そんな状態でも留学はできます。留学が進路の選択肢に入ってさえいれば。

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