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毎日の連続投稿が途絶えて、私に残ったもの。

GW前から、毎日こつこつと書いてきたnote。
30日目をむかえ、バッジをいただいたその翌日、
毎日連続投稿の記録が、途絶えてしまいました。


書き上げた長文記事の最後の校正を、
布団の中でかけていて、
息子と一緒に、そのまま寝落ち。

飛び起きた時、時計はすでに、
夜中を回っていました。


あぁ、やってしまった…。


本当にくやしかった。
悔やんでも、悔やみきれず、
その日は、なかなか寝付けませんでした。

せっかく習慣化してきて、自信もついてきたところだったのに。何より1ヶ月、こんなふうに
書き続けられたことも、初めてでした。
記録が途絶えてしまったことが、
とにかくショックでした。


数時間前に送信するべきだったその記事を、
力なく深夜に投稿。
「2週連続投稿、すごい!」の画面は、
ただ虚しく、私の目に映るだけでした。

その日から、noteを書く気力が、
ぷつんと途切れてしまいました。

本当は、10日続けて書けた報告記事と比較する
ように「30日経過して、いまも続けて書いてます!」なんて、気づきと喜びに溢れた軽やかな記事を書くつもりだったのに。


でも、あれ…?
それって、いったい誰のために
そうしたかったんだろう?


毎日、書き続けています、と言うのは、
誰の、何のため?
そもそも、毎日書くのは、誰のためだった?

もやもやっと、疑問が沸いてきました。



そして、気づいてしまったんです。

私は「毎日、書き続けています」と、
ただ言いたかっただけ

がんばってるね、と誰かに認めて欲しかっただけだったんだな、と。
子供みたいで、恥ずかしいけど。
それが本心だっただなぁと、気づきました。


だから、毎日書こうとした。
必死で記録を更新しようとした。
毎日、noteやブログを書き続けている尊敬すべきあの人たちと同じように「今日も書いてます」と、さらりと言いたかっただけ、
ただ、それだけでした。


そして、もうひとつ。
届けて恥ずかしくない完璧なものを、
喜んでもらえるものを、役立つものを、
手抜きせずきちんと書かなきゃ…と、
書いていくうちに、どんどん勝手に自分を追い込んでいってしまっていることにも気づきました。

文量やその質について、とても神経質になっていたように思います。
それこそ誰も、何も、言っていないのに。

自意識過剰。
そもそも、そんなに誰も気にしてない。
いい意味で、私のことなんて誰も知らないんです。それが、心地好いと思っていたくらいなのに。


自分のことになると、どうしても厳しくなってしまう癖があります。
毎日書き続けるなかで、考察のような重めのものを書いた次の日に、同じような熱量、文量の記事を連続で書ける訳もなく、
ふんわりした日記を、間に挟むように書いて投稿する自分に対して、手を抜いているような、逃げているような気がして、自分に嫌悪すら感じるようになっていました。
これは、完全に私の気質なんです。どんだけ自分に厳しいんだ、と思うけど…。


もちろん、誤解のないようにお伝えすると、
誰かのnoteに対して、そんなふうに思ったことや感じたことは一切無く、
これは、常に自分に対して向けられている感情です。

noteには、コラムから日記、写真、俳句、漫画、論文のようなものまで、
「こんな日常も素敵だなぁ」、「おもしろいなぁ」、「勉強になる!」、「感動した!」と、日々読ませていただいています。
それを読んで、こんなふうに書けたらいいなぁ、いろんな人に、この世界観が伝わっているんだろうなと、むしろ羨ましく感じるくらいです。


カチッとした文も、他愛もない日記も、
つぶやきのようにこぼれ落ちた言葉も、
長い文も、短い文も。
そう、全部、自分なんだ。



毎日、自分の感情が動いたあれやこれや、
色々なものを書くことで、誰かに自分のことを、知って貰う。
そのために書いていたはずなのに。
初めて10日間続けて書けたときに、
そう気づいてたはずなのに。
どこかで、見失っていました。


それから、数日して気持ちを立て直して、
執筆を再開。すこしふっきれたのも事実です。
続けて書くことの、プレッシャーから解放されたような感覚もありました。
1日空いたり、2〜3日続けて投稿してみたり、
ムラはあるけれど、いまはあまりこだわらず、
根っこにある、自分が書きたい、書こうと思うことを大事にしてみる、見つめてみる、見守ってみる、そんな感じでいます。

停滞期に感じたのは
書いていないとやっぱり気持ちが悪い、
アウトプットしないと思考が停滞し、
インプットもできなくなる(循環しない)、

そして、何よりも、
書きながら頭の整理をしていた自分にとって、
書かないことから派生する影響は、想像以上に大きい、ということでした。

みるみる思考が固まっていく、拡がらなくなっていくのが、手に取るように分かるんです。
それは、本当に気持ち悪い感覚でした。


例えば、仕事のことに関して。
現に、新型コロナの影響によって、私のフィールドである観光分野は、大変な状況に置かれているわけですが、日々いろいろな情報が、国内の現場はもちろん、世界中からも入ってきます。

そして、それは驚くほど刻々と状況が変化し、
その情報も、あっという間に陳腐化していく。
下書きで温めているうちに、気づいたら
自分にも、誰かにも役立たないものになっていく感覚が自分の中にありました。

そんな激流の中にいて、思考や行動の邪魔をする見栄や承認欲求みたいな感情は、重く、
荷物になるだけ。

だから、そういうものをすべて手放して、
自分が、真に書きたいと思ったことを、
書きたい時、もしくは旬の時に、
形式や文量、枠にとらわれることなく、
書いて表現したい。

それもこれも、すべて自分なんですと、
胸を張って、書いて発信していこうと、
いま、おもっています。
たとえ、それが毎日じゃなかったとしても。

雨の土曜日。
頭の中は、昨日飲んだソーダ水の泡みたいに
書きたいことで溢れています。