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境界線について

普段よく考えているテーマがこの【境界線】である。

例えば、ある人が「こんなことがあってつらいよ」という話をしてきたとする。
人には共感力というものがあるので、その話を聞いてある程度は腹が立ったり一緒につらくなったりするものだろう。
それは、その話をした人の気持ちを理解しようと努めているから。

でも、そうではなく、必要以上に感情を受け止めすぎてしまったり、あるいはまるでそれが自分に起こったことのように感じてつらくなってしまう人がいる。

そういう人は、自分との他人との間の境界線が曖昧な場合が多い。

自分の立ち位置がわからない、他人との距離感がわからない。

それが原因で共依存関係を生み出してしまったり、人間関係でのトラブルが多くなることもある。

なにより自分が一番つらいだろう。

その大きな一因となるのが、幼少期からの親との関係だと思う。
つまり、アダルトチルドレンにはこの境界線が曖昧な人がとても多い。

なぜ親との関係が影響するのか

アダルトチルドレンたちは大抵、自分を抑圧し、親の顔色をうかがいながら生きてきた。

幼い頃から自分を抑圧し続け、自身の感情からも目を背け続けると、やがては自分を失う。

そして、自分の人生を自分の足で生きる代わりに、無意識にまわりの大人のために生きるようになる。

それは他人の人生を生きているも同じことだ。

そこに境界線など存在しない。
人との距離を学ぶことはできない。

また、抑圧を繰り返すと、外に出せずにたまった感情はまるでダム湖のようにたまり続けることになる。

そんな自分を無視し続けた結果が鬱となって現れたり、憎しみや悲しみの感情すべてが自分に向いて自傷行為へと繋がったり。
慢性的な孤独や寂しさを感じるようにもなる。

最終的に水がたまりすぎたダムはぷつんと決壊する、という未来も待っていたりする。

その修復は簡単ではない。

だって、人格が形成される幼少期から青年期を含めて長年にわたってコツコツとダムを積み上げてきたのだ。

もとの川筋がどんなんだったのか、川の流れがどんなんだったのか、全く元通りに取り戻すことはできないばかりか、わからないものを修復するというのは並大抵のことではない。

今日、境界線について考えたキッカケ

あるツイートにあるリプライを見たことがきっかけとなった。

その元となったツイートは、

『虐待のニュースを親子で見ていたときに娘が言った言葉で自分の娘がたくましく育ってくれているということを再確認した』

というものだった。

そのツイートにはほとんどが好意的なリプライがついていた。

ただ、その中にひとつ気になるリプライがあった。
それは、

『そのツイートはひどい。死をネタにしている。虐待されている子どもの前で堂々と言える内容か?』

というものだった。

私は正直、そのリプライをした方は過敏に反応しすぎではないか、と思った。
多くの人がそう思ったようだ。

ただ、返信などいろいろ見ていくうちに、その人が言いたいことはなんとなくわかった。

でも、ツイート主さんは虐待された子に対して何かコメントしたわけではなく、ただそのニュースを見た自分の子について語っただけなのだ。
子どもの発言も、決して人を傷つけるようなものではない。
むしろ、虐待経験者さんたちからの称賛の声もちらほら見た。

虐待に対して怒りを感じる気持ち、また、それをネタにすることを許せない気持ちはとても理解できる。

でも、それをこのツイート主さんに向けることは少々過敏な反応ではないか、と思ったわけだ。

大抵、このような反応の裏にはその人自身の過去のトラウマが隠れている。

もしかしたら、このリプライを送った方も虐待経験者かもしれない。

そうでないとしたら、少し境界線の薄い方なのかな、という印象を持った。

自分の問題と他人のことを切り離して考えていない。

例えば、この元となったツイート主の親子は、虐待というニュースにつらいという感情で共感を覚えつつも、やはり一歩引いたところから客観的に見ることができている。

自分たちの立ち位置を失ってはいない。

親は自分の子の様子を主体的に見ているし、子は自分の立場からの話をきちんとできているからだ。

でもそれに対する例のリプライは、どの立場からの批判なのかかなり曖昧なのである。

一見、一般常識的に無神経だ、というような書き方をしているがむしろ多くの人の意見はそうではないし、だとしたら怒りを感じたのは自分の気持ちや体験からなのか、それとも虐待され亡くなった子の立場になって発言したのか。

それがあやふやなのと、もし虐待被害者の気持ちに入り込んでしまっての怒りだとしたら、それは踏み込みすぎではないかな、と感じた。

もしその方自身が虐待被害者だとしたら、トラウマからくる怒りなのは明らかなのだがそこはわからない。

もちろん、他人の問題に共感し親身になることは大切である。
とくに大事な人に対してはそういう能力は磨いていきたい。

でも、それは自分が相手の立場や感情へ踏み込みすぎるのとは少し違うと思う。

アダルトチルドレンは、まわりの大人たちの立場と感情を汲んで生きることが処世術だった。

でも家庭以外の大きな社会に出たとき、それは生きづらさを生んでしまう。

やはり自分と他人は別の人間だということを根底で理解していないといけないと思った。

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