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ゾウと行って、ゾウと観て、ゾウと帰る演劇で“もの”について考えた話

演劇作品『インテリア』を観に京都まで行ってきた。

この作品はものと来て、ものと観て、ものと帰る演劇作品です。
あなたの部屋から “インテリア” を一つ会場までお持ち寄りください。

この一文だけで面白そう!と思ったこの公演。

演劇『インテリア』は観客であるわたしの部屋、それから演者である俳優の部屋に実際にある“もの” を劇場に持ち込んで、空間に再配置することからはじまる。

先に東京公演があったようだが、わたしがこの公演を知った時には既に終了。京都での公演ならまだ行けるとのことでサクッと参加を決めた。

①ものを選ぶ

この公演の感想を話す前に、わたしがどんな“もの”を持ち込んだかを話そうと思う。

わたしが持ち込んだのはゾウのパペット人形だ。

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わたしは兵庫県にある大学出身で、確かわたしがまだ大学1年生か2年生だった時、大学院2年生の先輩と一緒に神戸の王子動物園にデートに行ったことがある。

動物園も見終わり、出口のお土産屋にいくつかぬいぐるみが刺さっていたのを見つけた。

先輩は、しばらくそのぬいぐるみたちを見つめていたわたしに

「買ってあげようか?」

と声をかけてくれたのだけど、わたしはそれを断って、ゾウのパペット人形をひとつ買ったのであった。

男の人に買ってもらったぬいぐるみと生活を共にするなんて当時のわたしにはできなかった。

それが部屋にあることが、何かプレッシャーを感じてしまう気がした。

だから断ってしまった。

パペット人形が欲しかった理由は別にあった。

元々わたしは大学にぬいぐるみをたまーに持ち込むというまあまあなレベルの変な子であった。

ある日は白いトラだったり、ラッコだったり、ウツボだったりした。

そのぬいぐるみたちは言わば変なことをするためのメンバーであった。

そのメンバーに王子動物園のゾウが加わり、例に漏れずそのゾウもたまーに大学に連れて行かれるようになり、無事に変なことをさせられていた。

その後、わたしは大学を辞めてバックパッカーとして世界一周の旅に出ることになるのだけども、言葉が通じない国に行っても子供と遊べるように、とおりがみとこのゾウのパペット人形を持っていった。

ゾウは思ったよりも世界中で愛された。

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変なことをさせられるためのゾウは、世界に出た。

大学にゾウを連れてくるのは変だけど、旅にぬいぐるみを連れてくるのは割とやっている旅人がいたので、変ではなくなった。

こうして大学という変な場所に、またある時は旅先という変ではない場所になんとなくゾウを連れ回しているうちにもう7年くらいゾウと一緒にいることになった。

何か“もの”を持ち込める今回の演劇、わたしは迷いなくこのパペット人形を持っていくことに決めた。

②ものと行く

公演当日、少し遅刻しそうになりながらわたしはゾウと一緒に京都鴨川のほとりにある劇場にたどり着いた。

観客席は既に"もの"がいくつか置いてあるスペースに対してくの字に配置されており、座席にもところどころ"もの"がぽこんぽこんと置いてあった。

それは愛・地球博のモリゾーのぬいぐるみだったり、将棋の駒だったりした。

スタッフさんの案内で、実際に一緒に来た"もの"を配置するよう促された。

わたしは既に置いてあった人をダメにしそうなクッションにとりあえずゾウを立てかけた。

座席に戻ってスペースへ再度顔を上げると、ゾウは凄まじい存在感を放っていた。

スペースの奥の方に置いたのだけど、遠くからゾウはまっすぐ観客席を見ている。

まっすぐわたしを見ている。

無機質な空間に圧倒的な存在感をまとっていた。

しかし、いや、この存在感を感じていたのは劇場できっとわたしだけだっただろう。

学芸会に我が子を観に来た母親と同じような感覚なのかもしれない。

たくさん“もの”がある中で、ウチの子だけが何より目立って見える。

「ウチの子、どう使われるのかしら、あるいはただそこで存在感を放ち続けるだけに留まるのかしら」

とドキドキしながら、上演開始をソワソワ待った。

③ものと観る

上演が開始した。3人の男女が入れ替わりにこの部屋に入ってきて、各々の生活、あるいは再配置を行う。言葉はほぼ発さない。無言のまま公演は進んだ。

最初にメガネの男性
彼は帰宅してからの変わったルーチンワークがあるようだ。

次にアウトドア派っぽい女性
男性の部屋だった場所は、ものの移動を経て彼女の部屋になった。
女の子らしくくつろいでいた。

次に美大生風の女性
この女性だけはこの部屋で生活をしない。
絵を持ち込み、配置する。

そして次にまたさっきのメガネの男性が入れ替わりで入ってきた。
先ほどのルーチンワークを行うが、部屋のものはいくつも移動してしまっている。男性のルーチンワークは部屋基準ではなく、今度はもの基準で行われる。

男性が部屋を出ると、またアウトドアガール、美大生ガールが部屋に入ってきて、各々の再配置が行われる。

今度は美大生ガールがまだ部屋にいるのにまたメガネの男性が入ってきた。

そしてまたルーチンワークがはじまる。

ものと行うルーチンワークに美大生ガールという人間がいるだけでこんなにも異変を感じるものなのか。

各演者によって行われる再配置のせいで、次の演者におこる「さっきとのズレ」が違和感としてあるのに“もの”により部屋内で「順応」が即座に生まれて面白い。

そして公演中、「これは次どうなるんだろう?」「あれはこういう意味だったのかな?」など考えながらも、頭と視界には

しっかりゾウがいた

わたしは演劇を観ている、時に演劇に没入している

しかしわたしの視界と脳内を「長年の相棒」がたまーにかっさらってくる。

ちょっとまた演劇に没入してもやっぱりゾウが入ってくる。

こんなにゾウがチラつきながら演劇を観たことは無かったし、これからも無いだろう。

演劇とリアルが錯綜する中

ついに俳優さんがゾウに触れた。

その瞬間のわたしは

(ゾウ!!!!!!!!!!!)

と思った。

たった今、この劇場でゾウが出演した!!!!!!!!

そんな感覚だった。

その後ゾウの移動と共にゾウの体勢があお向けになったりうつ伏せになったりする度に

(ゾウ!!!!!!!!!!!)

(ゾウ!!!!!!!!!!!!!)

と思った。

脳内が忙しかった。

そうしてゾウに気をとられたり、ゾウのことを完全に忘れたりしながら演劇は終了した。

④ものと帰る

公演が終了し、座席にいた観客たちがスペース内に立ち入り、次々に自分のものを取り戻しに向かう。

あるお兄さんはタバコ1箱を、お姉さんはジョウロの先っぽを、

他には小さなスピーカーだったり、ハワイのお土産だったりした。

あぁ、この人たちも公演中に

(ジョウロの先っぽ!!!!!!!!!!!!)

とか思ったんだろうか。

まずなぜ彼らは今日その“もの”を持ち込むと決めたのだろうか。

わたしよりも壮大なストーリーが込められた“もの”だったんだろうか。

あるいはさっきそこらで手に入れた“もの”でもあったんだろうか。

演劇中に自分のものの事を考える違和感。

演劇中に他人のものの事を考える違和感。

ルーチンワークを乱すものの配置。

ルーチンワークにより再び生まれるものの配置。

生活する上でものを置くのか、ものを置くことで生活をするのか。

様々な切り口で“もの”と演劇について考えることができて、面白かった。

あれこれ考えながらゾウと京都を観光し、ゾウと新幹線に乗り、日常が待つ東京に帰った。

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