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今更すぎる【鬼滅の刃】に手を出した話

 2019年のアニメ放送開始以来、社会現象ともいえる特大ムーブメントを引き起こした『鬼滅の刃』。説明するまでもないが、鬼に一家惨殺された少年が、鬼にされてしまった妹を人間に戻すために戦う物語である。

 私はその大流行の中において漫画原作のほんの1ページも、アニメの1秒すらも見たことがなかった。漫画好きなので気にはなっていたものの、あちらこちらでコラボだ特集だなんだと、こちらから手を伸ばさずとも流れ込んでくる情報にお腹いっぱいになっていたこともあったと思う。
 
 そして多少落ち着いてきた今、やっと手を出した。

 読み始めてしばらくは正直「確かに面白いけれどそこまで大流行するほどだろうか」という印象だった。

 ごく普通の少年が挫折と成長を繰り返し、秘めたる才能を開花させていく。そういう少年漫画らしい典型的な展開になっていくだろうと思っていた。
 
 ところが確かにそういったベースはあるものの、『鬼滅の刃』は私のイメージする「ありきたりな少年漫画」とは少し違っていた。読み進めるにつれて「おお……面白い……」とすっかりハマり、最終話を読み終わるまでには幾度泣いたか分からないほどになった。

 ここからは私の完全な個人的解釈で、『鬼滅の刃』の魅力ポイントについてまとめていきたい。あくまでも私個人の主観であることをご了承いただきたい。


■キャラクターのバックグラウンド


 本作では世界観やキャラクターのバックグラウンドが、ストーリーに直接関係ないところまでしっかり設定が練られている点が素晴らしいと思う。

 主要キャラクターはもちろん敵となる鬼についてまでも、その生い立ちや価値観などが丁寧に描写されている。
 それまでどんな人生を歩み、何に喜びや悲しみを感じてきたのか、それを知ることでキャラクターに深みが出る。それによりキャラクターの発言や行動の裏にそのバックグラウンドが垣間見えて、違和感や薄っぺらさを感じることなく、一層共感することができるのだ。

 特に鬼が人間であった頃の記憶、その悲しみや怒りを見ることで、敵であるはずの鬼に対する同情や哀れみなども生まれる。鬼殺隊の勝利を願う気持ちとの間で、読者の感情の振れ幅がとても大きくなる。
 
 さらにストーリー中に描かれる各キャラクターの成長や心の変化についても、バックグラウンドがしっかりとあるからこそより感動的に伝わってきたと思う。


■過度に説明しすぎない


 上にも書いたキャラクターの成長や心の変化について、本作では文章や台詞で必要以上に解説したり明言したりしない点も好ましかった。さりげない言動の変化や表情の描写で読者が察せるように表現されている。

 例えば猪に育てられた少年・伊之助の変化である。
 野生で育った生い立ちから強い者と戦うことにしか興味が無く、人を思いやったり死んだ人を弔うことの意味も分からなかった。しかし多くの人との関わり合いの中で伊之助は人の温かさを学んでいく。

 そして最終決戦では負傷したり亡くなった大勢の隊士の死を悲しみ、ラスボス・無惨に対して命を返せと涙ながらに怒鳴るのだ。
 さらに鬼にされた炭治郎には「俺が斬る!」と刃を向けるものの、炭治郎との思い出や優しさを思い出して結局切ることができなかったシーンなどは涙なしでは読めなかった。

 これらのシーンは展開上、伊之助の言動でなくとも問題はなかったはずだ。例えばこれが善逸だったとしても同様の想いは持っていただろうし、不自然ではなかったと思う。
 しかし伊之助だからこそ、ここまで彼らを見守ってきた読者にその心の変化が伝わり、感情がより大きく揺さぶられるシーンとなったのだ。 
 
 また無惨戦後に義勇が髪を切り、炭治郎たちに向けて柔らかに微笑みを向けるシーンも良かった。ほんのさり気ない数コマだったが、囚われていた過去の後悔から義勇の心が解放されたのだなと感じられた。

■容赦ない負傷や死


 漫画の世界では腕や足の1本や2本無くなっても不思議な力で再生したり、ともすれば死んだ人間が生き返るなんてこともままある。
 
 しかし本作のキャラクターたちは容赦なく再起不能なレベルの負傷をしていく。そして主要メンバー級のキャラクターが次々に命を落としていく。
 映画化された無限列車編では柱の一人・煉獄が命を落とし、続く遊郭編では別の柱・宇髄が片腕と片目を失い柱を退くことになる。

 最終決戦より以前の結構な序盤でこのようなことが起こるので、読者の頭の中に「メインキャラだろうがモブだろうが命は等しくたった一つ」なのだという認識が確かに残る。

 そうすると読者の心の中にも「ここで戦闘不能もしくは死ぬかもしれない」という不安が生まれ、命を懸けて戦っているキャラクターと同じように焦りや恐怖を感じ、戦闘シーンによりハラハラしながら向き合うことになる。
 自分の推しキャラが死んでしまった時のショックは筆舌に尽くしがたい。時透が胴体分断というえぐい死に方をした時は衝撃的だった。泣いた。

■ラスボス 鬼舞辻無惨


 衝撃的なキャラクターだった。
 どんな悪役でも、戦うことに対してそれなりの野望や目的を持っている場合が多い。
 しかしこの鬼舞辻無惨はただただ生きることへの執着のみで生きている。鬼を増やすのは別に世界を征服しようなどということではなく、ただ自分の命を守るため。日光を克服する鬼が現れたら吸収して自分が生きながらえるため。

 戦いの最中で分が悪くなると、何の躊躇いもなく、平然とした顔で逃走しようとする。
 「こんな屈辱を味わわせて許さん!」とか「ここで必ず皆殺しにしてやる!」などという感情は微塵もない。

 逃走しようとする無惨の顔を見ながら、私は心の中で「えーーーーーー!」と叫んだ。

 物語の後半、鬼を人に戻す薬を作った鬼・珠代が「無残はただの臆病者」というような表現をする。無惨というキャラクターはこの一言に表されているなと、とてもしっくりときた。
 自らの全てを注ぎ込んで炭治郎を鬼化させようとして失敗した時、縋るような叫びの惨めったらしさに”生”へのとてつもない執着と”死”への恐怖を感じた。
 こんなラスボス、私は今まで出会ったことがなかった。

■執念の最終決戦 無限城編 


 バトル漫画における最終決戦の展開として、まず敵側のナンバー2やナンバー3あたりの中ボス的キャラクターとの戦いを制してラスボスに挑む。そして主要キャラクター達が力を合わせてラスボスに攻撃を仕掛けるも敵わず、最終的に主人公が渾身の必殺技や会心の一撃で倒す。
 こういったパターンが多いと思う。

 しかしこの無限城編では信じられないくらいに人が死ぬ。
 主要キャラクターである柱も何人も死ぬ。ナンバー3である童磨戦ではしのぶが吸収されて死に、伊之助とカナヲの二人がかりでやっとのことで倒す。

 ナンバー2黒死牟戦では時透、不死川、玄弥、悲鳴嶼の4人で挑み、時透と玄弥の二人が死んでしまっている。
 
 瀕死だったけど実は生きてて戦いの後に喜びを分かち合う、などというパターンも期待できないほど明確な死の描写がされる。ラスボスの無惨戦の前にこんなに死ぬのかと衝撃的だった。

 さらに本作ではラスボス・無惨との戦いにおいて、最終的に追い詰めたのは主人公の炭治郎ではあるものの、炭治郎の一撃がとどめを刺すという勝ち方では無かった。いわば鬼殺隊全体を挙げての総力戦だった。

 主力である柱達、肉の壁として攻撃を受け止める下位の隊士、自らを犠牲にして毒の力で無惨を弱体化させた鬼・珠代、普段は戦闘要員ではない隊士までもが立ち向かった。
 
 戦闘中に幾人もの隊士が致命傷ともいえる傷を負い、命を落とし、それでも動ける者は力尽きるまで食らいつき、絶え間なく攻撃を与えることで無惨を倒したのだ。

 本作では人間側のキャラクターに『最強の戦士』が居ない。
 無惨は飛び抜けた戦闘力を持ち、受けた傷も回復してしまう正にチート級のボスキャラだった。

 対する鬼殺隊は傷がすぐに治ることもないし体力も消耗する、生身の人間だ。それでも勝利できたのは、生身の人間だからこその信念と信頼だったのだと私は感じた。

 自らの”生”にのみ以上に執着し、役に立たなければ部下をも簡単に殺す無惨。
 それに対して自分が力尽きたとしても必ず仲間が倒してくれると信じ、仲間につないぐため力の限りに戦い続けた鬼殺隊。
 
 物語全体にも言えるが、この戦いには『想いをつなぐ』というテーマがとてもよく表されていると感じた。


■最後に


 長々と語ってしまったが、設定自体はさほど奇抜ではないのにここまで多くの人に愛される作品となったのは、やはり読者の感情を大きく揺さぶるポイントが多く込められているからではないかと思う。
 
 なにか作品自体に血が通っているような、あたたかみや鼓動を感じる、そんな作品だと思った。

 人気絶頂のタイミングで潔く物語を締めくくったのも良かったと思う。ただ一つ欲を言うならば、炭治郎、善逸、伊之助が柱として活躍する姿も見てみたかったなぁ、ということくらいだろうか。

 私は評論家でも何でもないので、ファンの方からすると「解釈が間違ってらぁ!」や「偉そうに言ってんじゃねぇ!」といったところもあろうかと思うが、そこは優しい心でお願いしたい。

 アニメ遊郭編、楽しみですね。

 

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