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アジア紀行~ミャンマー・インレー湖⑦~

サイクリングは続く

開放的なレストランでの休憩で、生き返った気分。汗もひいたし、空気も心地よい。もと来た道をゆっくりと戻る。
同じ道を通っていても、行きと帰りでは見ている景色が違っていて、初めてその道を通っているような錯覚におちいることがよくある。時々行きの記憶がよみがえるが、左右に広がるのどかな田園地帯と高床式の住居を見ていると、それが今朝見た景色なのかデジャヴなのか、区別がつかなくなる。
そんなことをとりとめもなく考えながら、のんびり、ゆっくりと自転車をこぐ。そしてときどき自転車を止めては写真を撮る。
荷物と人を満載した自動車とすれちがう。

前に「HIJET」と書かれている。ダイハツのハイゼット・トラックだ。荷台を改造して、人が乗れるようにしてある。もちろん右ハンドルだが、ミャンマーは日本とは違って右側通行である。それでも日本の中古車はとても人気があるようだ。
バイクも多い。バイクはミャンマー人の必需品の一つだ。

道路の横に水路がある。板を渡した木橋が架けられている。その向こうに高床式の家があり、橋を渡る人の姿が見える。
自転車を置いて、自分も橋を渡ってみる。草原の中に1本の狭い道が村に通じている。

右手に寺院らしい建物が見える。立ち寄ろうかと思ったが、予想以上に遠いので、途中であきらめて引き返す。湿地帯の中に家が散在する。

もとの道に戻り、しばらく自転車を走らせると、見覚えのある運河に出る。これを渡るとニャウンシュエの町だ。あたりが急ににぎやかになった。
ホテル帰着、午後2時。休憩しながら地図を眺め、このあと向かう場所を考える。

町の北に向かうか、南に向かうか。南はかなりの距離を走らなければいけない。時間を考えれば、北の「Shwe Yan Pyay Wood Monastry」がよさそうだ。「Monastry」は正確には「Monastery」(僧院・修道院)だろう。

シュエヤンピイ僧院

ホテルで1時間ほど休憩をとったあと、再び出発。
ホテルのすぐ近くにマーケットがあるが、その西側の道を自転車で北へ向かう。道の中央と左右に並木があり、道の両側には池や水田がひろがる。この道は、2日前にニャウンシュエの町に入ったときに通った、いわばメインロードだ。
遠くの山が黒い雲で覆われている。きっとあの雲の下は雨が降っているのだろう。雨がこちらまで来るのは、たぶん時間の問題だと思われる。

寺院手前の池、遠くに山並みが見える

曇り空の下をニャウンシュエの町から20分くらい走っただろうか。T字路の手前左手に木造の僧院が見えてきた。これが地図に載っていた「シュエヤンピイ僧院」のようだ。

木造寺院、雲行きが怪しい

この寺院も高床式だ。外には石の階段がある。建てられたのは19世紀というから、すでに100年以上経過している。庭先に少年僧の姿が見える。高床式の建物の床下に自転車をとめていると、あっという間に雨が降って来た。
間一髪とはこのことだ。
雨はしだいに激しくなっていく。ここで見学がてら雨宿りをすることになる。僧院の窓から、さっき入って来た門が見える。別の窓からは、すぐ隣にある仏塔が見える。

僧院の中には、同じように雨宿りを兼ねて見学する西欧人が何人かいる。
雨の音がするばかりで、静謐さが漂っている。
本尊の仏様の前の床で、少年僧が2人、何やら勉強しているようだ。これも修行なのだろう。観光客など目に入らない様子だ。

この僧院には猫がたくさんいた。そういえば、昨日訪れたインレー湖の水上寺院にもたくさんいたなあ。
こちらの僧院にいるのは、ほとんどが子ネコだった。

猫が椅子に座り、人が床に座る。
お坊さんが子ネコを見つめる。子ネコは何を見ているのだろうか。

少年僧たちの部屋をちょっとのぞくと、数人が固まってくつろいでいた。
ここはプライベートルームになるのだろうか。写真は失礼だったかも……。

雨はしばらく続き、その後薄日がさしてきた。まだ時折パラパラしているが、もう強くは降らないだろう。

ミャンマー人と仏教

僧院を訪れたことを機に、ミャンマー人と仏教について調べてみた。
ミャンマーは、隣国タイとともに仏教への信仰心の篤い国として知られている。ミャンマーに仏教が伝わった時期は明確ではないが、ピュー族の遺跡からは、多くの仏教に関わる遺物が出土し、5~6世紀ごろには、上座部仏教が伝来していたと思われる。
「上座部仏教」とういのは、スリランカ、タイ、ミャンマー、カンボジア、ラオス等の地域に伝わった南伝の仏教で、釈迦の教えを守り、自ら修行して悟りに到達することを目指す仏教である。
修行者が仏教の精神を広く説くことにより一般の人々の救済を目指す北伝の「大乗仏教」に対して、「小乗仏教」と呼ばれることもあったが、この呼称は差別的であるとして、最近は「上座部仏教」と呼ばれることが多い。
ピュー族の国家が滅んだあとはビルマ族が勢力を伸ばし、11世紀頃にはエーヤワディー川流域地域を平定してバガン朝が建てられた。これが現ミャンマーの直接的なルーツとなる。
バガン朝のアノーヤター王(在位1044~1077年)は上座部仏教を重視し、多くの仏塔や寺院を建立した。このことが、東南アジアに上座部仏教が広がる端緒となった。

ミャンマーでは、男性は一生のうちに何度か仏門に入って、(最低3日から数か月)戒律の中で僧侶と同じ生活を行う習慣がある。
僧侶になれるのは20歳を過ぎてからで、厳しい戒律を授けられて修行し、食事は早朝と正午前の2回だけで、昼以降は一切食べることができなくなる。
飲酒や遊興が禁じられるのはもちろんのこと、妻帯もできない。
女性に対する戒律はさらに厳しくて、尼として僧院で修行する人も多いが、出家とはみなされず、正式には在家信者の扱いとなるそうだ。

パゴダや寺院に参拝すると、仏様の前で何度も頭を地につけて拝んでいる人を見かけるが、参拝には次のような作法がある。
すなわち、「仏法僧」の「三宝」に敬意を払い礼拝するのである。「仏」は釈迦、「法」は釈迦の教え、「僧」は仏弟子である僧侶を指す。
人々は、仏様の前にひざまずいて手を胸の前で合わせ、続いて額の前に両手を持っていき、次に両手を地面に置いて額を床につけてお参りする。この所作を「仏法僧」の「三宝」に対して3回繰り返す。

ミャンマー人の信仰心の篤さは、各地のパゴダや寺院で、この目で見、肌で感じ取った。寺院や僧院で出会った臙脂色の衣をまとった僧たちは、質素で勤勉に見えた。しかし同時に、スマホを眺め、スマホで写真を撮る僧たちの姿もあった。禁欲の僧生活にも新しい時代の波が押し寄せているということか。

ニャウンシュエの町への帰り道は、時折パラパラと名残の雨が降るものの、頭上の雨雲は去ってしまったようだ。
途中に建設中のパゴダがあった。

ニャウンシュエの町の入口まで戻ってきた。
「WELCOME  TO  INLAY」の看板がある。明日はこの地を離れるのに。

時刻は午後5時過ぎ。自転車を返却する。
ホテルで一服した後、ホテルの隣にある「Golden Kite」という店に行ってみる。

入ってからわかったのだが、ピザやパスタなどのイタリアン・レストランだった。ミャンマーに来てピザを食べるのは抵抗があったが、しかたがない。ビールも注文する。銘柄は「ミャンマービール」。そのままの名前だ。

まだ夜が早いせいか、客も少なく、ゆったりとした時間を過ごせた。
ミャンマービールはあっさりとした味。マルガリータ・ピザはおいしかった。
明日はヤンゴンに戻る。



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