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遠心性と気晴らし、求心性と調和について

ども。
毎度、院長です。
前回、拙者の活動が実に遠心的であり、バタバタ何かと忙しく集中してはいるものの、自分に留まるということができないでいるというあたりについて、ずっと気になっているところをぼちぼち書いたのでした。
パスカルによるパンセの「気晴らし」の指摘を今回改めて振り返り、拙者は気晴らしばかりしてきた人生であったな、と思うのです。(今この記事を作っている場所にパンセがないため、以下はネット上からの引用となります)

つまらぬことがわれわれを慰める。なぜなら、つまらぬことがわれわれを悲しませるからだ。

(パスカルの「気晴らし」(divertissement)と モンテーニュの「気をそらすこと」(diversion)
・山上浩嗣)

人間の偉大さは、自分が悲惨であることを知っている点で偉大である。 木は自分が悲惨であることを知らない。したがって、自分が悲惨であることを知るのは悲惨であるが、自分が悲惨であることを知るのは偉大である。

(同上)

われわれの悲惨を和らげてくれる唯一のものは気晴らしである。しかしそれこそがわれわれの悲惨の最たるものである。なぜならこれこそが、われわれが自分について考えることを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅ぼしてしまうからだ。

(同上)

このように一生が過ぎていく。人はさまざまな障害と闘いながら休息を求める。だが障害を乗り越えたとたんに、休息は、それが生みだす倦怠によって堪えがたくなってしまう。休息から抜け出して、騒ぎを求めなければならなくなるのだ。

(同上)

拙者は、あれこれの気晴らしに対して本気になっていたというか、その熱中しているもの、そのものが自分の人生だと思っていたのですが、それはあくまで気晴らしにすぎず、だからと言って自分の中心のようなものがなんなのかもわからず。
そういう風に思うきっかけの一つというか、熱中していたものが気晴らしでしかなかったんだなと振り返るきっかけとして、拙者が20代前半の頃とても好きだった、とあるバンドの女性歌手の最近の動画を先日、目にしたことに端を発するのです。
20代前半の頃、拙者はどこにいくにもその人の音楽を持っていっていたものでした。
それにも関わらず、大学の体育の冬季集中講座、長野だか新潟だか大学からはかなり離れた場所での2泊3日のスケート講座だったと思うのでが、あろうことか、そこに好きな歌手の音源を持っていきそびれていたのです。
現地に到着してそのことに気がついてからは、もういてもたってもいられなくなり、その集中講座を途中で退場、拙者一人で自宅に戻って音楽をひたすら聴いていたのでした。
もちろん、この集中講座の単位は落とし、また別の講座を取り直すことにいたしましたが、その時は音楽はしっかと携帯しておりました。
この女性歌手には当時、長々とファンレターを出したりして、猛烈に大好きでした。
そうこうしているうちに拙者、その歌手のモノマネならかなり上手くできる程度になっており、その歌手が敬愛するアーティストの音楽なども片っぱしから聞きまくっておりました。
しかし、ある時期からパタっととその熱が冷めたのでした。当時は何故そこまでパタっと熱が冷めたのかはっきりとはわかりませんでしたが、バンドが解散し、その女性歌手がソロでやっている音楽が面白くなくなったから、という感じでした。
そして月日が経ち、先日彼女の動画をたまたまネットで見たのですが、拙者はこの人の何を好きだったのだろう?と、本当に狐につままられたような感覚に陥ったのでした。
動画では、普通の8ビートのわかりやすい平和なロックで、とても通る伸びやかな高音で楽しそうに歌っていて、「ああ、この人、音楽が好きというより、歌うのが本当に好きなんだな」というのが十分伝わってきたのでした。それにものすごく上手くなってるんですよ、歌が。歌唱技術もかなり上がっているんだろうと思われます。ただ、音楽そのものがなんとも拙者の好みではないのです(なんの引っかかりもないっちゅうかなんちゅーか、こういうのを深みがないっちゅうのですかね)。
拙者が好きだった20代の頃のこの女性歌手は、「歌わずにはいられない」というような焦燥感とかやりきれなさとかはち切れそうな切羽詰まった感情が、とても印象的だったのです。そういう感じだから、多少音程が不安定に聞こえようが何しようが、もうその迫力の凄さに圧倒されていた感じでした。上手いとかどうだとかの評価を超えていたのか、拙者にとってはそういう価値基準は当時全くなく、ただただものすごいパワーに魅了されていた感じです。
それで、改めて拙者が魅了されていた時代の動画をネットで見てみると、やはりそれはそれですごいのですよ、今見ても。
当時、拙者が20代前半の頃に好きで好きでしょうがなかった頃の女性歌手の切実なパワーがそのまま動画から伝わってくる感じで、タイムトリップした感じでした。
この辺りのことについて、村上春樹が小説に関して書いてあり、音楽に関しても、人生に関しても適用できるような気がします。

若い作家が小説を書くときの良さっていうのは、文体がどこか抜けていようが、スカスカしていようが、澱んでいようが、ちょっとバランスが悪かろうが、熱意と勢いがあれば正面突破できちゃうところですよね。むしろそういうバランスが悪いところが、読者にとっては魅力になったりする。これは若い作家のーせいぜい四十歳までのー得な点だと思います。(中略)
四十まではそれでうまくいくんです。だからって、四十過ぎても同じようなことをしていると、人はてきめんに読んでくれなくなります。もっと大きなもの深いものを書きたいという気持ちと、それを書くためのテクニックが並行して向上していかないと、だんだん読者ってついてこなくなっちゃう。それは正直なものですよね。

(夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです・村上春樹)

ロックの場合、拙者の好みでいうと、20代から30代前半までが熱意と勢いでやっていけるところかなと思うたりします。そのあとは、村上春樹のいうような、大きくて深いものを演奏したいという気持ちとそれを表現しうるテクニックが並行して向上していかないと、面白いと思えなくなってくるのだろう、という気がします。
人生に関しても、年齢を重ねるごとに、若い時のような勢いや熱意は保てなくなりますし、もし仮にそのような姿勢を維持できていると自分で思っていても、周囲にはすでに飽きられていたり、最終的には自分の中に違和感が募ってくるのではないかと思います。

拙者は、自分に関する違和感を物心ついた頃から抱き続け、何かの気晴らしや気を紛らわすことに集中することが人生だと取り違えてきたのだろうと思うのです。
若い頃は熱意や勢いで紛らわすことができたことも、歳を重ねるごとにそうはいかなくなり、遠心的な人生から求心的な人生へと方向転換するところに関して、考えるようになってきています。
でも、この求心的な人生というものに関してですが、前回の記事では「我、イエス・キリストのうちにあり、我がうちにイエス・キリストあり」というような、信仰的なところでザクっと書きました。
この点に関して、もう少し具体的に、と言ってもやはり抽象的ではあるのですが、それでも信仰的なところに限定されない表現として、面白いなと思う文章がありましたので、それを引用します。

免疫学の研究によれば、人体のなかの、神経系、内分泌系、免疫系の各システムは、それぞれが独立して機能しつつ、しかもお互いがうまく調和的に働いておりますが、これら三者を統合する中枢は存在しない、とのことであります。三つのシステムがそれぞれそれなりの統合性をもってはたらいていて、しかも、全体としてうまく機能していますが、それはひとつの中心によって統合されてはいないのです。私の友人の有名な免疫学者である多田富雄は、したがって人体というのは「スーパーシステム」であると言っています。
ここからヒントを得て私が今考えていますのは、人間の心もスーパーシステムとして見るべきではないか、ということです。これまで何度も意識のレベルの違いについて述べてきました。そして、論理的には矛盾することも、一人の人間の心の中では共存し、むしろ、その共存に価値がある、という考えも示してきました。私は人間の心は、意識の異なるレベルでそれぞれの統合性を保ちつつ、全体的には中心をもたずにスーパーシステムとしてうまく機能しているのではないか、と考えようとしています。つまり、心全体としてうまくはたらいているとき、そこに敢えて統合の中心を求める必要はない、と考えるのです。
(太字の部分は原文では傍点)

(ユング心理学と仏教・河合隼雄)

いくつかのことがそれぞれ独立しつつも調和し機能する、そういう心のあり方、信仰のあり方について、拙者はとても関心を持っています。また、そういう意味において、求心性というもののバランスを考えているところです。