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カルト救出体験談をまとめるにあたって。

ども。
毎度、院長です。
前回は業務連絡を先にしようとしたら、本文に行き着くまでに結構な文字数になってしまったので、一旦業務連絡だけで閉じることとしました。
本文をここで、と思っているのですが、何が本文なのかわからないというか、どうにもうまく頭の中でまとまらない状況です。
多分、表向きはいくつかの項目に別れているんだけど、でも根っこは一つの興味関心のような気もするのです。
結論に手が届かないというか、そういう模索中の文章ですが、今の時の空気感をそのまま一旦は書き出しておこうと思った次第です。
後から自分が気づいていく上で、一旦書き出しておくということに意味があるような気がしているので。

拙者、2020年1月から顕在化した(日本で深刻な形で周知され出したのは2月下旬くらいからか)コロナ感染に関して、人の心と行動についてなんとなくぼんやりと眺めつつ、そして巻き込まれつつ、ここまできています。
そういう中で、東京の1日の感染者が5000人を超えたという時期だったと思うのですが、拙者は悪夢を見ました。その異様さは以下の感じです。
本郷通りを駒込駅に向かって歩いていると、そこかしこに死体がブルーシートに包まれた状態で放置されている光景を横目にして、駒込駅に到着。
駒込駅プラットホーム上には、クローゼットにクリーニングの包装袋のままの洋服を吊るしているかのような状態の沢山の死体を横にして、拙者は電車を待っている、という状況。
なぜ洋服を吊るすように死体を吊るしているのか(死体を立たせているのか)と、駅職員に確認すると、「場所を取るから(立たせてある)」とのこと。
プラットホームの限られたスペースで、寝かせた状態だと場所を取るからって・・・・。
生きている人間に感染させないよう、ビニールシートで覆っているだけの物体、いや、もはや燃やせるゴミとしての死体。
死者がとうとう、こういう形で放置されるようになったのか、日本も・・・と重苦しい思いを夢の中で持っていて、起きてからもずずず〜んと心に重荷を抱えたような気分でいました。
アウシュビッツの写真で、死体が積み上げられているのを目にしたことはありましたが、拙者の夢ではコロナ感染者が行き倒れ、その死者から感染しないようブルーシートや包装袋に包まれた死体が、横たわり、もしくは立てかけられているところでした。

コロナ禍では、自分の命を守るために、自分が感染しないために、自分が生き抜くためにという、剥き出しの生、生存だけのための生というものが、至る所に溢れ出た感覚です。
マスクやトイレットペーパーなど、ありとあらゆるものが買い占められ、死者の埋葬もままならない状況でした。
ワクチン接種についても推進派と反対派との分断も鮮明で、情報を慎重に吟味するという落ち着きを失ったかのように見えることもしばしばでした。
移動の自由は制限されますが、日本においてはそれについて異議申し立てするよりもむしろ、制限を無視する人に対して厳しい目が向けられるようになっていました。
このような中で、自粛警察というものが横行したのも、戦時中の再来なのだろうと思ったりしました。
「欲しがりません、コロナに勝つまでは」とのスローガンが、掲げられているかのような。

こういう世相に違和感を覚えつつ、自分の態度も決めかねつつ、ぼんやりと眺め、日々の業務を行う、という感じでここまできています。
一方、比較的早い段階から、こういう事態に強い違和感を覚え発信していたイタリアのアガンベンという哲学者の発言に力をもらうところも大きく、それを積極的に発信している國分功一郎という哲学者にも、勇気づけられています。
國分功一郎は、精神科医療の中でも結構注目を集めている哲学者です。
拙者は、奈良県生駒市の関西聖書学院を会場とした、カルト救出者育成コースのプログラムの2021年11月1日に開催予定の「元カルト信者の体験談、Q &A」というところで、元カルト信者に関与しつつ観察してきた内容と、それに対する考察とを発表することとなっています。
本当に予期していないところでの、ひょんなことからカルト脱出に関わった(というより、気がつくと関わることになっていたという方が正しい)ことを通して、日本におけるカルト救出の第一人者であるウイリアム・ウッド師と話をする機会を得、そこからジャン・ドウゲン師ともお会いし、今回の発表の依頼を受けることとなったのでした。
その原稿を作成している時、どうもすっきりしない、はっきりと言い切れないところが出てきたのです。そんな時、國分功一郎の本は一つの貴重な視点を与えてくれているような気がしています。
カルトに関して、どうもすっきりしない、はっきりと言い切れないところというのは、責任の所在についてです。
入信当時はある程度本人の能動性があるのです。しかし、入信後は巧みなマインドコントロールがあり、抜けられなくなるのです。
これはわかりやすく区分しただけで、実際はこんなふうに綺麗に分かれているわけではなく、入信前後からマインドコントールがある程度ある中での、形の上での能動的入信となり(信者が団体に強引に誘拐されたりすることはほぼなく、決定権が信者側にある入信という形)、入信後は絶対的な決定権を持つ教祖の存在によるマインドコントロールと、組織的なシステムがマインドコントロールをより一層強化するような形になっていて、抜け出せないというような構造のように思われます。
このマインドコントロールというのが、信者側にすれば受動的な要素になります。「マインドコントロールされる、マインドコントロール下にある」という言い方でもお分かりの通り。
しかし、この能動性と受動性の対立だけでは説明のつかない心理状態があることが、今回カルト脱出に関わり、その後の元信者の生活において観察する中で、出てきているのです。
それは、嗜癖の存在です。
拙者、この能動性と受動性の対立だけでは説明のつかないカルトの構造として、嗜癖に通じる心性が関わっているということに、今更ながら気がつかされたのです。
嗜癖というのは例えば、アルコールの問題などがわかりやすいかもしれません。
アルコールは体に良くないし、人間関係においても破綻をきたすことが分かっているけど、やめたほうがいいと思うのだけど、そうこう思っていると禁断症状も出るし、結局は何が何だかわからないうちに飲んでしまう、というような状態。
しらふに戻ると悲惨な状況に変わりなく、どこから手をつけたらいいやらわからず。
いや、本当はどこからか手をつけたほうがいいことはわかっちゃいるけど、今更やりようもなく、また飲むしかない。
これはアルコール依存者の意志が弱いからとか言われがちですが、本当にそうなのか。
私たちは意志の力というものを、どういうふうに捉えているのだろうか。
例えば、今のコロナの時代、同調圧力や政府の決定した方針に人道的に従えない、しかし従わないと死刑になる(もしくは村八分になる)、というようなことが起きた場合においても、私たちは自分の意志を貫けるのか。
そもそも、そういう事態の時に、自分の意志というのは「自分が生存し続ける」以外の何物でもなくなっているのではないか。
こういうことを考えていく時、マインドコントロール下にある信者の心理状態にも、似たようなことが起こっているのではないか、と思われるのです。
何が何だかわからないけど、とにかく教祖の言う通りにするしかない。教祖の言う通りにすればお褒めの言葉がもらえたり、位が上がったり、その組織の中での生存に関して居心地は悪くないだろう。
しかし、自分の心の奥底の違和感に従って行動を起こせば(マインドコントロール下においては、このような違和感は相当な程度で封印される構造になっていると思われるが、仮にそのような違和感から行動を起こせるほどの状態であるならば)、教祖の言うことに反することになる。そうすれば懲罰が待っている。
以前脱会していった別の人が体験したような、あの耐えがたい辱めが待っていて、教祖の言うような地獄落ちになる。ああ、自分はそういう恐怖に耐えられない。
それに、今更カルト組織から脱会して一般社会に戻ったとしても、やれる仕事もない。貯金もない。もう若くはない。人生のやり直しを図るには、もう遅い。
カルト組織で過ごした空白の時間が長くなれば長くなるほど、そこで喪失したものの大きさと後悔と無力感とが、これからの人生を立て直していく気力や体力を、いつの間にか圧倒してしまっている。
しょうがない、とりあえず教祖の言うことをきく、というような、能動的とも受動的とも言い難い状況に置かれるのです。
このような状況を、國分功一郎が「中動態」という「態」をめぐって論を展開しており、興味深い視点を与えてもらった気がしているのです。

まだまだ、書き留めておきたいことはあるのですが、内容がどんどん広がってくるので、一旦ここでこの記事は終了します。
次回以降、別の気づきについて書き留めたいと思います。