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レッスン11.大学への寄付で救われる者の話

「卒業した大学に、年に一度、1万円を寄付している」と言うと、驚かれることが多い。若い世代で出身大学に寄付する人は少ないから珍しいのだろう。けれど、寄付を「偉いね」と褒められることには慣れない。私にとって大学への寄付は、貴重な4年間を不完全燃焼で終わらせてしまった自分を慰め、救うための営みだからだ。


ミッション系の母校には聖歌隊があった。歌が好きだった私は入学直後、入部しようと思っていたが、活動費を捻出できそうになく、しぶしぶ諦めた。礼拝の度、キャソックを着て歌う隊員たちが羨ましかった。はっきり通る声で話せるようになりたいと思い放送研究会も訪ねたが、ウェイウェイしい同級生・上級生たちの洗礼を受け、「無理だ」とフェードアウトしている。

大学2年時に設立したサークルは、運営を一人きりでやらなければいけなかった孤独感や後輩への苛立ち、嫉妬などから周りとトラブルになった。自らの手で作ったサークルを自分でめちゃくちゃにする、セルフサークルクラッシャーほど辛いものはなかった。

ゼミでは勉強についていくのに必死で、友達もできず、なんとなく居心地の悪い時間を過ごした。他大学のゼミにも顔を出していたが、こちらも挫折。要するに私は、勉強もサークルもいまいち、ふがいない毎日を繰り返し、いつのまにか卒業を迎えてしまったのだ。

学業優秀者の奨学金は申し込み基準をクリアしていたけれど、申し込み用紙の「奨学金を得て、社会にどう貢献していくつもりか」みたいな、将来の見通し欄が埋められなかった。大学は、研究や企業の最前線にいる人たちから好きなだけ学べるすごいところだ。学生だからこそ開く扉もある。でもだからこそなおさら、目標や、やりたいことがぼんやりしていた私にとって、かえって苦しい場所でもあった。やるべきことをやれていない気がしていた。自分だけ取り残されていくような感覚が怖かった。

1万円は、自分のように「がんばりたいけど何をがんばったらいいかわからない学生」の心が少しでも軽くなったらいいなと思って寄付している。図書館の本1冊や切りそろえられた庭木、修繕された美しい建物、過ごしやすい教室環境など、なんでもいい。少しでも楽しみや、通いがいを見出してくれたらいい。目標を見つけられずもがいている自分を責めず、受け入れ、成長してから卒業していってほしい。究極の自己満足。だから、「偉いね」と褒められるとばつが悪いというか、素直に「偉いでしょ!」とは受け取れない。


11月上旬は母校の学園祭シーズン。訪れてみると、聖歌隊は創立100周年で、記念トートバッグを売っていた。「これがパイプオルガンで、ここが聖歌隊で」とデザインを説明する学生は、私と10歳近く離れている。きらきらした目と楽しそうな声に、ああ、いいなあ、こんな学生生活を送りたかった、羨ましいな、と思ってしまう。

これは羨望と嫉妬どっちだろう。どっちにしても、そんな風に思う私を、私はあまり好きになれない。トートバッグはデザインが好みだったこともあるけれど、こうして卒業してもなおふがいない自分を諌めるためにも、学生を応援するためにも、購入した。

こんな私の1万円は、本当に迷える学生の役に立てるだろうか。そんな不安も持つけれど、それでも、あたりまえだけど、素敵な人の1万円も私の1万円も、大学にとって価値は変わらず1万円だ。絶対にどこかで役に立ってくれる。

どうかこのお金が、私と、私のような学生を救ってくれますように。

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