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時代のうねりの中で生み出されるもの(舞台『世界は笑う』感想)

舞台『世界は笑う』(作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ)@シアターコクーン、2022年8月下旬観劇。
座席は1階のやや後方、やや下手より。細かい表情を見るには少し遠いけれど、全体を見るにはちょうどよい位置だった。

知らない時代の、なじみのない街で起こる話

結論から書くと、おもしろかった!観てよかった!
前提として、私は平成に生まれて平成の笑いを楽しませてもらってきた人間なので、この時代の喜劇がどんなものだったのか知らない。なんなら歴史も不勉強なので、どんな時代だったのかすらよくわからない。そんな私でも、この作品は私なりにとても楽しめた。

とはいえ、3時間45分という上演時間にはそれなりに驚く。私がこれまで観てきた舞台の中で一番長かったかもしれない。でも、飽きなかった。「長さを感じなかった」というよりは、「長くてもいいと思えた」というほうが自分の感覚としては近い。

キャストは17人だけれど、出てくる人物は40人以上。とくにベテラン勢は一人何役もこなしている方も多く、個性豊かなお芝居は圧巻だった。これだけの登場人物がいて粒度をそろえるというのは、職人芸だなあと思う。「この人のこの役がよかった」と書いていたら全員になってしまいそうで、とても書ききれない。ただおもしろい人が集まっているだけではなくて、その人たちがこれまで生きてきた、そしていつかは死んでいく、人生の奥行きのようなものが見えて味わい深かった。

若手陣もすばらしかった。
瀬戸康史さんはさすがの安定感。ベテラン勢と肩を並べておもしろいというのがすごい。役柄もぴったりで、みんなに好かれる癒しの雰囲気がとても素敵だった。
千葉雄大さんは舞台に出ているイメージがあまりなかったのだけど、意外な役回りながらとてもよかった。熱さと冷静さ、荒々しさと繊細さが共存していて、多面的な魅力を感じた。
勝地涼さんもハマり役で、昭和を生きる人としても、喜劇一座の座員としても違和感なく馴染んでいた。なにを言うのかなと期待させる間や表情が絶妙だった。
伊藤沙莉さんは、昔観ていたドラマ『女王の教室』から存在感があって注目していた方。特徴的な声は遠くの席でもわかりやすく、個性は強いのに自然体というのが稀有だなと思う。

舞台美術も素敵だった。昭和の素朴な感じに加えて、若干テーマパークのようなファンタジー感もある。
プロジェクションマッピングが多用される舞台は、それこそあざとさを感じてしまって私はあまり好きではないのだけど、ここぞという使われ方をしていて効果的に感じた。
それより、なんといっても場面転換!
場転の様子を見せてくれるのが私としては最大の胸アツポイントだった。しかも大道具を動かすのにキャストまで参加している。これはアツい。見ていて本当に楽しかった。

内容としては、難解な物語ではないと思う。でも、シンプルに表現できるものでもない。
私にとっては知らない時代のなじみのない街で起こる話で、彼らと私に共通するものはなにもない。それでもどこか生々しく感じた。ひたむきで、たくましくて、情けなくて、いとおしくて、ばかばかしい。そんな人間の生き様が絡み合って渦になり、いずれ時代を押し上げていく。そのうねりを垣間見られたようで、新鮮におもしろかった。

笑いってなんだろう。おもしろいってどういうことだろう。観終わったあと、そんなことも考えていた。こんなにも人を魅了して、狂わせるものの正体はなんだろう。
でも私はきっと、そこまで突き詰めることはできないと思う。だからこそ、笑いを生み出す人たちへの敬意が湧き上がってくる。時代は違えど、これまで何度も笑いに救われてきたし、これからもきっとそうだと思うから。


※以下、ネタバレありの感想や考えたことなど、自分用の記録。1公演しか観ていないため、聞き間違いや勘違いしている箇所があるかもしれない。


喜劇人とそのまわりの人たち

まず印象的だったのがオープニング前の、千葉雄大さん演じる喜劇役者・是也のモノローグ。ものすごく強いセリフの連続で、最後まで観終わったあとにまたこの場面を思い出した。序盤も序盤だというのに、喜劇人の気概だとか笑いの捉え方だとか、作品を象徴するようなセリフをバシバシ畳み掛けてくる。「笑っちゃいけないものなんてなにもない」という叫びは誰に向けられているのか。
このシーンの千葉雄大さんのお芝居もすごく力があって、板の上の熱量をぐんと上げていくようで一気に引き込まれた。

この作品自体が喜劇かというとそうではないと思うのだけど、全体を通してかなり笑ったという記憶が残る。「服を脱がせられないマネキン」「2巻から盗む人」「犬のエサの役」など、いたるところに笑いの罠が仕掛けられていて楽しい。
個人的には、ラサール石井さん演じるトーキーがずっと弁当を食べているくだりと、マギーさん演じるラーメン屋が劇場に居座っているのを指摘される場面が、なんだかおかしくてたまらなかった。おかしなことがなにもないように見えるところに、ふいにスポットが当たる瞬間に弱い。

登場する喜劇人たちは、怒鳴ったり急に静まり返ったりと、少しこわい雰囲気もある。反面、瀬戸康史さん演じる彦造をはじめ、喜劇人ではない人のズレ具合がおかしくて和む。
彦造自身はいつも大まじめで真剣なのだけど、思考回路も言動も独特すぎて、まじめであればあるほどおかしい。人を笑わせることに命懸けな人たちが集まっている中で、田舎から出てきた一般人がおもしろいということ自体がおもしろい。そして皮肉でもある。

そう、「昭和の喜劇役者たちの話」と思っていたけれど、登場人物の多くは喜劇役者ではなかった。裏方の人がいて、ママがいて、興行主がいて、テレビ局の人がいる。小説家や、なじみの店の人や、通りすがるだけの人もいる。中でも、松雪泰子さん演じる初子は、本屋の店員をしながら劇団・三角座の手伝いをしていて、戦地から戻らない喜劇役者の夫を待ち続けるという、この作品の中でも印象的な存在だった。
喜劇に関わっていると言える人間で唯一、観客だけが出てこない。三角座の客は、彼らをどんなふうに見つめていたんだろう。

きょうだい愛がずっとあたたかい

劇中では、三角座の人間模様と並行して、きょうだい関係も描かれている。彦造と是也(助造)の兄弟は、男兄弟でそんな仲いいことある?と思うくらいの仲のよさで、一人っ子の私には眩しすぎた。お互いに向けるまなざしや声色から、兄弟愛が滲み出るどころか溢れ出ている。冒頭で弟を頼りに上京した兄が、ラストシーンでは弟のために懸命に働きかける姿も印象的。二人だけが話す方言もあったかくてよかった。

勝地涼さん演じる大和と、伊藤沙莉さん演じる撫子の兄妹も微笑ましかった。大和は「妹を幸せにする」という責任感が強くて、そんな兄をうっとおしがる撫子も、きちんと愛情を受け取っているのが伝わる。こちらも確かな兄妹愛だなあと思う。それはそうと、大和の不器用でバカっぽいけれどまっすぐな感じ、勝地涼さんならではの役作りで最高だった。妹の結婚に対するリアクションまで想像してしまった。

総じて、シビアな人間模様がある一方で、きょうだいの描かれ方があまりにもあたたかいのが印象的だった。彦造が想いを寄せる初子は三角座を裏切るし、是也に献身的だった撫子も別の人との幸せを選ぶ。でも、きょうだいの絆は一貫して聖域にあるかのように描かれている。時代や世間がどんなに背を向けようが、お互いを見捨てることは絶対にないように思えた。

2幕をふまえてもそこまで物哀しい気持ちにならなかったのは、このきょうだい愛をずっと見ているからだった。こんなに思い合えるきょうだいがいたら、何があっても生きていけるじゃないか、と。一人っ子の孤独心を刺激しないでくれ。
思えば、大倉孝二さん演じる走と鰯の兄弟も、以前は同じ三角座で一緒に喜劇をやっていたということか。身内との結びつきが強いのも、この時代特有だったりするのだろうか。

作家の性質を持つ人の狂気

笑いや劇団に執念を燃やす人たちは、みんなどこかおかしくて、まさに「みんな狂っている」。そんな中で個人的には、これまで自分が出会った人の中に見たことがある気がするのは、是也の狂気だった。そしてそれは役者としてではなく、作家としての狂気だ。

書くことを生業にしているかどうかにかかわらず、「作家の性質を持つ人」というのが存在すると私は思う。そして、それを持つ人だけが抱える狂気がある。自分自身への失望や期待とか、焦燥感や劣等感とか、恋焦がれる想いとか、社会への懐疑や怒りとか、人を笑わせたいという欲求とか、湧き上がって煮えたぎる狂気じみたものがある。
物を書きたいという衝動が芽生える人は、多かれ少なかれ、そうした狂気を自分の内に飼っているのではないか。そしてその衝動を形にしてしまえるというのも、一段階上の狂気の沙汰だと思う。

ちなみに私がもっとも是也の狂気を感じたのは、2幕で鰯兄さんと「ここに長椅子があることがおもしろい」という話をするところ。このあたりはもう完全にキマっていて、そりゃ撫子も泣き出すよという感じなんだけれど、ここで醸し出される狂気はポン中ゆえではなく、是也の作家としての性質が色濃く出ているシーンだからだと思う。

脚本にした時点で「ねらい」が生まれる。だからどうしたってあざとくなる。でも、あざといものはおもしろくない。突き詰めていけばなにも生み出せなくなって、飼い慣らせていたはずの狂気が暴走する。
そんなところまで行き着いてしまうというのは、やっぱり人間の平常ラインを超えてしまっているのだと思う。是也が兄に「自分は病だ」と話し、彦造が「そうではない、才能なんだ」と返すシーンが救いだった。
そうだ、それは才能なんだ。持たざる者である私は、彼らの苦悩や葛藤や、怒りや悲しみや喜びを、きっとわかりえない。だからこそ、覗きこみたくなる。彼らの狂気が、才能が生み出すものに触れたくなる。喜劇人のまわりで喜劇に関わってきた人たちや、公演を観に来るお客も、そういう欲求を持ち合わせていたのかもしれない。

時代のうねりの中で生み出されるもの

劇中を通して、エンタメが劇場からテレビへ移行していく気配も感じられる。三角座の人たちから熱さや哀愁を感じるのは、この過渡期であったことも大きいと思う。1幕で、温水洋一さん演じるアオタンがテレビに映る芸人をバカにして、直後にテレビ局の人間に媚びる様子がなんともおかしく、印象に残ったシーンの1つでもある。
テレビはそこからエンタメと報道の基盤として君臨し続け、そして今、同じような転換期をむかえているように思う。

私も子どものころ、テレビが大好きだった。ドラマもバラエティもアニメも、この曜日はこれを観る、という楽しみが毎日あった。
でも、今はもう地上波のテレビ番組はほとんど観ていない。同世代の会話でテレビの話題になることもほぼない。暇があればスマホでYouTubeの動画を観て、おもしろかったものを人にシェアする。動画配信サービスのラインナップの中から、映画やバラエティ番組を観たいときに観る。
あんなにテレビに救われてきたのに、自分でも驚くほど薄情に、テレビを過去のものとして位置づけようとしている。そしてそのことが寂しいという、身勝手な感情もある。

時代とともに変わっていくのは、環境や媒体だけではなくて、内容についても同じだと思う。不変的なものもあるとはいえ、一般的に受け入れられるものは時代によってきっと異なる。

「おもしろいものがおもしろい」と思っていた。私が笑う軸は常に私にあると。でも、違ったのかもしれない。その時代においておもしろいとされるものに、ただ笑わされているだけのような気もしてくる。
時代は移ろっていく。笑っていたはずのものが笑えなくなる。反面、新しい笑いが生まれたりもする。それを笑えない人たちが、笑っている人たちを「なにがおもしろいんだ」と見下したりする。

今はまだギリギリ、私は時代に追いついている側、あるいは流されている側にいると思う。でも、私も時代に置いていかれる日がきっと来る。ひたひたと迫ってくるそんな未来がおそろしい。
新しい時代の笑いに笑えなくなったとき、私は何を思うだろう。「昔はよかった」だなんて、かっこ悪いことを言うのだろうか。

時代のうねりの中で、笑いを生み出す側の人たちの苦悩は計りしれない。置いていかれるという焦りは、こちら側の比ではないと思う。
客は、というか私は、無責任だし、飽き性だし、薄情だ。その上、理解力もない。よくわかっていなくても笑うし、なにに笑っていたかもすぐ忘れる。
でも、それでも笑っていたいと思う。私には想像もできないような苦しみや葛藤を経て、生み出されるものを見届けたい。やっぱり勝手な私は、笑ったり笑わなかったりするだろうけれど、笑っているその瞬間は、たしかに救われているんだと思う。

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