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3,行く学校・習う先生を選べたらいいと思いませんか?

「コロナ休校」をきっかけに、社会全体は大きく変わっていきますが、社会の縮図である学校もまた、社会の情勢やこれからの日本、世界のあり方とともに変わっていく必要があります。

これは何も、コロナウイルスによる騒動があったからと言うことではなく、実はもうずっと前から社会でも教育でも考えていった方がよかったものが、「コロナ騒動」によって”見えやすくわかりやすい状態になった”のだと思っています。

↑こちらの記事を取っかかりとして、その具体的な中身を未来に活かすための思考を、続けていきたいと思います。

 不登校の問題も引きこもりの問題も、それから学校のネット環境やICTの整備についても、オンラインを整備して学校と外とを繋ぐことができたら、かなり有効な対策になっていたはずです。「教育の真ん中には子どもがいて、教育は国の未来をひらくための重要なカギ」という見方考え方で柔軟に対応していっていたら、もっと何とかなっていただろうことが先延ばしになっていたなぁ……というところは否めません。

「不登校」の問題から見えてくるもの

たとえば不登校の問題。

「みんなが学校に行く」ことが当たり前だったので「学校」と「学校に行かない」という選択肢しかありませんでした。だから、「学校に行かない」子ども達は不登校になって、学びを得ることが出来ない。一方「必要な学び」を得てもらうためには「学校に来てもらう」しかないから、先生達は何とかして登校を勧める。……これはもう30年以上前から起こっていた堂々巡りです。

この問題を解決するのに、一体どうしたらいいのでしょうか?

私は、2008年度に退職するまで、学校で心身症のお子さんや不登校のお子さん達を担任し、その親御さんたちとも関わってきました。そこにあったのは「学校」と「親の会」の対立構造です。不登校生の問題は、学校では「家庭環境が?」「親子関係は?」に原因を見いだそうとし、親の会の方では「学校の友だち関係は?」「先生の対応は?」にきっかけを見いだそうとする。

「学校」と「学校の外」というひとつの線引きがあるので、起こっていることを見ても、見える世界は当然違います。そしてその狭間に落ち込んだ子どもの心は、板挟みになって身動き取れなくなるのです。

でも、今回コロナ休校によって「学校」と「学校の外」の枠がはずれました。オンライン授業で家にいても授業に参加出来る。今まで学校に行かなかった子ども達も、顔を出せた、という事例が聞かれました。

ここで休校解除になって、また「学校」と「学校の外」がはっきりしたとき、どうなってしまうのでしょう?

14年前に語りあった「全学校私立化」というアイディア

前項で述べたように、わたしは教職を去る前の10年間と、去ってからの12年間、不登校生やその親御さん、学校になじめないお子さん達のサポートに携わってきました。

「学校を作りたい、不登校の子ども達だけでなく、子ども達が自分らしく伸び伸び学べる学校を……」

そういう想いを持って「理想とする学校」の形を模索していたときに、あるきっかけで日本で初めてのフリースクール立ち上げに関わった方とお目にかかる機会をもらいました。2006年の年末のことです。その時にその先生とお話しをしたことがブログに記録してあったので、ここで引用してみます。

 この日対面した先生は、ご自分で「学校を作る」ということをされた方なのだった。この先生をS先生と呼ばせていただく。
 応接室でわたしと向かいあって座ったS先生は、まず、ご自分の今までの経歴をかいつまんで話され、学校を作るまでにどんなことをしてきたのか、今時点でどんな風に子供たちと関わっているのかなどをご自分の教育論を交えながら話された。それはとにかく、あまりに壮大な話でわたしはただただ聞き入るばかりだった。
 中でも驚いたのが「学校をみんな私立にする」というS先生の持論。
 この考え方は、わたしの固まっていた頭を粉々に吹き飛ばすくらいに衝撃だった。最初に聞いたときにはそんな無茶な、と思った。少なくとも「義務教育」をうたっているのだから「公立学校」が存在するのは当たり前だ、というわたしの考え方は、多分一般の人たち皆そう思うことなのだろう。
 しかし、その公立学校の現状を見たら……日本中、どこでも同じことを同じように詰め込む教育。学区内の生徒は皆その学校に行くことが決められて、違う学校を「選ぶ」ことが出来ない。教師は上からの指示に従って教育するしかなく、どんなに頑張っても、逆にどんなに手を抜いてもみんな同じ。仕事は教えることに特化せず、雑用から何からみんな背負っていて、しつけまでが学校に任されている現状。かんじんの「勉強」は塾に頼らないといけない実情。
 それだけの状態にある学校を変えるには「すべて私立化」して、授業料は一律に安くし、生徒が自分の学びたいことを学べる学校を自分で選べるようにする。それぞれの学校は、学校の「持ち味」をしっかり打ち出せるようにして、その特長を生かした教育方針の下に集まる生徒を教える。そうすれば、学校ごとに良い意味での「競争」が発生し、「いろいろな子供たち」に柔軟に対応できる教育が出来るだろう……。
  
                 「ただいまうつと同棲中」より抜粋

「すべての学校を私立化して、子どもや親が行く学校を選べばいい」

その頃はまだ、”中間教室”がようやくできはじめで、私立学校は大都会のみ、田舎は当たり前のように公立小中学校に行っていた時代。

この時にこの先生と語りあった「全学校私立化」というアイディアは、実現したらすごく学校が活き活きとよみがえるんじゃないだろうか??と、聞いていてワクワクしたのです。

授業料は一律に安くし、生徒が自分の学びたいことを学べる学校を自分で選べるようにする。それぞれの学校は、学校の「持ち味」をしっかり打ち出せるようにして、その特長を生かした教育方針の下に集まる生徒を教える。そうすれば、学校ごとに良い意味での「競争」が発生し、「いろいろな子供たち」に柔軟に対応できる教育が出来るだろう……。

この話をして以来、私の中にある「学校」というもののイメージがだいぶ形を変えて今に至っているのです。

「線引き」はどこまで必要か?

学齢になるとその決められた地域の小学校に入り、6年卒業すると地域の中学に。「隣の学区」の学校の方が近い子もいるのに、地域外だから遠い自分の校区の学校に行く。
児童生徒の人数に合わせて学校に先生が配当され、予算が配分される。これは「子ども達に合わせて」の対策ではなく、行政的な必要性から。

担任の先生もクラス分けもみんな学校が決め、先生も生徒も行く学校は行政が決め、学年も、勉強の内容も、みんな決められた物事に従う……「公教育」「義務教育」という名前のもとに行われているのは、「学校間、地域間の格差のない一律の学び」。教える人も、学校のある環境も、足並みをそろえようとする。

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この「足並みをそろえる」ために必要なのが「線引き」です。

地区ごと。学校ごと。学年ごと。クラスごと。
みんなそれぞれいわば「戸籍上の共通項」によって線引きされたものです。
その線引きに従って、児童生徒1人当たりの「教育予算」が配当されます。

ここまで見てきたときに、どうしても気になってしまうのは、「子ども達」自身の姿がそこにあるか?ということです。

子ども達は入学前に、「来入児」として様々な検査を受けます。
「この子は一年生でこの学校に入ってきてやっていくことができるか」という検討がなされ、クラス分けや場合によっては支援のあり方も考えられます。「学校やクラスの一員としてできるかどうか」が観点で、「この子をどう伸ばしていくか」という観点ではありません。つまり偏った言い方をすると「学校」という組織にはまるかはまれないか、と言う観点になってしまうのです。

しかし、今はどうでしょうか?家庭によっては塾や習い事に小さい頃から行ったり、幼稚園によっても英語や音楽など一年生で学ぶことよりも進んでいたりするお子さんもいます。


「一年生になったら」よーい、ドン、で横並びにスタート……ではなく、すでにその段階で子ども達の学びには差が出ているのです。4月生まれでもうすぐ7才になる子も、3月生まれで6才になったばかりの子も、みんな横並び。大人になっての一歳の差と、子供の頃の1年の差は10倍くらいの違いです。

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しかし学校ではもともと差がある子ども達をまず横並びに「そろえる」ところからはじめます。
 「学校に来る地域」で線引きをし、「学齢児童」の学年ごとに線引きをし、「学年ごとに学ぶこと」で線引きをして同じ事を同じように学ばなければならない……となると、最初からいろいろな差があるのにもかかわらずその「線引き」にあわせて無理やりスタートも横並びにするしかない、のが現状なのです。

この「線引き」を、何とか取っ払うことってできないものでしょうか?

「ゲーム感覚」と「あそび心」

私が新卒の頃に、任天堂が「テレビゲーム」を売り出し、それ以降ゲームはあっという間に人びとの心を捉えました。

スーパーマリオ、ドラゴンクエスト。
私も結構愉しみました。で、学校の授業のプリントを作るときに、その「ロールプレイゲーム」的な要素を取り入れて作ったら、子ども達は夢中になって取り組んでくれました。

「やりなさい」と言わなくても「先生、これどうすればいい?」と自ら学んでくれるので、プリントを作るのはちょっと手間でしたが、学びの時間はアドバイス程度に口を出すくらいで子ども達は学びを進めていくのです。

この「ゲーム的要素」は、実は「プログラム学習」のシステムを巧みに取り入れていて、子ども達が自ら学びに取り組む要素満載。それについては、別ブログ記事に記載してありますので、ここでは省きます。
ゲームは最高の”プログラム学習”。【使えた!心理学】その6

私は、このゲーム方式を学校でも取り入れられないかと考えています。

学校はそれぞれに「どの学校でどんなことを学べるか」を決めておく。
それに関して力ある先生をそろえておく。
生徒はどれかの入口(学校)からスタートし、幾つかのステージ(学校・教室)をめぐりながら学びを深め、レベルアップしながら進み、1年生なら1年生の学ぶべき事をすべて終えたら「ゴール」する。

装備は「学力」。子ども達のために学校に1人あたり支払われるお金は、子ども達の学びクエストの「ゴールド」としてレベルアップに従って支払われ、次のクエストで使う事が出来る。先生達はそれぞれのクエスト(教科・学習単元)のラスボスとしてそこにいて、やってくる子ども達にスライムのような基本問題から、強敵のような応用問題まで、子ども達の実情に合わせて投げかける。

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 小学校で学ぶべき事を、すべて「クリアー」したらラスボス(小学校の卒業試験)を倒しに行き、クリア出来たら小学校卒業。中学校のクエストにレベルアップして進む。

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 学校は、今は縦社会になっています。地域にひとつ学校があって、地域の子はそこで1年から卒業までずっと同じ年齢の子たちと学ぶ。
 けれども、それをフラットにして町や市の単位で様々な学校と教室を利用して行ったら……学校間はスクールバスで移動出来、子ども達が自分で自分の学びのルートを考えて(もちろん親や先生はアドバイスをするけれど)自分が「全クリ」すれば卒業出来るとなったら……「明日はどこで何をやろうかな」って考えるだけでもワクワクすると思いませんか?

「自分の学びを自分で決める」

前項の学びは、かなり極端ではありますが、考えてみたら学校や教室をフィールドに使って「学びを自分で選択し、組み立てる」ことは、今の子ども達はゲームの中でやっている事なので、それほど抵抗なくできるのではないかと思います。

 一方、やってくる子ども達が自分で進める学びのために教材を適度なハードルとして用意し、「やった!クリアー!」という笑顔の子ども達を次のステージに送り出す……それって先生方も楽しいのではないかと思うのです。

先に述べた「全学校私立化」とするとかなり大変で、制度も大幅に変えねばなりませんが、現在の学校を学びのステージに変えて活用出来るようにするのは、以外と作りやすいかもしれません。

 何よりも「与えられた場所で与えられた学び」を横並びで受けとめるより「学びを自分で選択し、組み立てる」ほうが、今の多様化社会に適応しますし、「自主・自立した学び」への近道になるはずです。その段階では「オンラインでの家庭学習」だってあってもいい。多様な学びの形が「学校」という箱に囚われずに可能になるのです。

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こういう学びが成立したら、「不登校」とか「不適応」とかいう言葉は不必要になって、いつの間にか消えちゃうと思うのですが、皆さんどう思いますか?

少なくとも私は「学びを自分で選択し、組み立てる」まなびの場作りのためにできることに取り組んでいこうと思っています。共感してくださる方と繋がっていけば、出来ない事ではないと思っています。

いろいろな人たちが笑顔で過ごせる世の中めざして、これからも発信続けていきます!是非サポートお願いします。😊