学校の学びの意味は?「ふせふり」の共有で対話的活動
1 はじめに〜学校って必要ないのでは?〜
突然ですが、「学校の学び」と「塾の学び」って、どこがどう違うんですかね?いろいろな先生と話をしている中で、このような言葉が聞こえてきました。
「教え込みじゃダメなのよ。ちゃんと考えさせないといけないのに。」
「文科省は内容だけは終わらせろみたいなことを言っているけど、急に進めたって子どもによくないわよ。」
「体験活動が大事なのよ、体験のない学びはよくないわ。」
最近、聞こえてくるこういう言葉聞いていると、「うん、うん、そうだよなぁ。学校って大事だよなぁ・・・。」と学校有意に思ってしまう反面、
「そもそも、違いってなんなんだっけ?」
という問いが浮かびます。
「学校は生き方だ!」とか、「塾は受験だけだ!」とか、学校と塾が違うとはよく言うけど、そもそも、その違いを自覚していない教員が指導していたら、結局、下位に見ているとされる塾となんら変わらない指導がされてしまうよね・・・。
・・・。
これ、結構切実に考えないといけないことのような気がします。
ただでさえ、インターネット上では、コロナ休校中の塾・業者や私立学校のオンライン授業に注目が集まり、かたや公立学校は、アナログ的対応や家庭への課題の質の悪さが指摘されています。
これは、ちょっと悔しいぞ。このままいったら、
「オンラインで十分学習できるんだから、学校必要なくね!」
という声まで聞こえてきそう。。。
「ショッーーーーーーーーーーーーーック!!」
2 学校の学びの意味は?
学校の学びと塾の学びの大きな違いは、「学びの流れ」がまったく異なるということだと思います。
特に、学校の学びは「学習の流れを学習者の個性的な経験から創り出し、反省的に思考する機会を多くすることで、より充実した知的な活動を実現できる」ということです。
この流れという概念ですが、私は、
学校の学びは“Strem”もしくは”Plan”、
塾の学びは”Schedule”もしくは“program”であると考えており、
この差がかなり大きいと考えています。
この概念を用いてもっと簡単に述べると、
塾(すみません、塾や業者の方、一般化してしまって・・・)のよくないかなと思うところは、「学びを合理化(例えば、階層化や段階化)しすぎているところ」、
逆に、学校のよいところは、「学びを合理化しすぎていないところ」です。
この比較だけ聞いたら、「学校ダメじゃん!!」って思いますよね。
「無計画ってことじゃないかー!」
いや、普通にそう思いますよね・・・。
しかし、ポイントは「しすぎていない」ところ。
計画したものを作り直せるゆとりをもてるのが学校の学びの意味なのです。
そう考えられる根拠は、デューイに求められます。
3 デューイのいう「示唆(suggestion)」と「反省(reflection)」から
デューイは「知性的」な知的活動は、「示唆」および「反省」という2つの思考の連続的かつ相互補完的な役割によって推進されるとしています。
探求の過程には必ず「示唆」が登場するため、段階的に学習を進めたり予見して学習をすることはできません。また、「示唆」は個人の知的能力と経験に依存していることから、普遍的かつ規則的にその登場を期待することはできないとしています。
うーん、ちょっとよく分からないですね。
ここで、ちょっと概念の整理。特に、「示唆」と「反省」について
「示唆」とは、対象に対する「反省」によって生まれた経験的観念が突発的に表出する思考のことです(つまり、思いつき!突発的ゆえ、統制不可能な性質をもっていると言えます)。
「反省」とは、「示唆」と対象との意味的な関連や連続性を確認する思考のことです(例えば、空が黒いのを見て、「雨が降りそうだなぁ」と思うこと)。
そして、両者の相互補完的な役割とは、「反省」によって適切な「示唆」が速やかに発生するようになる。あるいは、適切な「示唆」が速やかに発生することにより深く多岐にわたる「反省」ができるようになる、という意味です。
そして、この「反省がすごくなってくること」をデューイは「熟慮(deliberation)」と呼んでいます(これを説明するとさらに長くなるので、割愛します)。
あれ?デューイの言ってること違くね?と思っていた人、するどいです!
「デューイって問題解決的な学習の始まりみたいな人だよね・・・。問題解決的な学習って、段階的な探究過程のことじゃん。あれあれ・・・。」
この点については、私もまだまだ理解が十分ではありませんが、デューイは、決して問題解決の思考過程が段階的かつ手続き的に進められることを述べているわけではありません。
一般的に「問題解決的な学習」と言っているものは、残念ながらデューイの考えからはほど遠いものです。歴史的に見ると、デューイが「反省的思想の5つの側面あるいは局面」、すなわち探求過程の状態および様相を述べ始めた頃(1910年代)は、人間の知的活動が合理的に統制可能だと考えられていたため、デューイの考えていた「知性的」な知的能力についての論理が十分検討されるがなく、細分化かつ段階的に分けられた探求過程にのみ注目が注がれてしまいました。
その頃、デューイは探究の流れを5つの思考の状態に整理しました。
①「示唆」(suggestion)
②「知的整理」(intellectualization)
③「指導観念(guiding idea),仮説(hypothesis)」
④「推論(reasoning)」
⑤「行動による仮説の検証(testing by action)」
これだけ見ると、なるほど、デューイは探究の流れを段階的に分けているではないかと考えることができます。
しかし、デューイはいう(1930年頃)。
「反省的思想の5つの側面あるいは局面は前後関連は固定していない」と。
つまり、「示唆」は突発的に現れるもの(俗にいう閃きみたいなもの)だから、探究が進行する過程において固定的な段階として設定することがそもそもできないわけです(なぜ、その時、その「示唆」が現れたのか、事後に対象との因果関係を求めることは反省によって可能です)。
そして、この「示唆」と「反省」の相互補完的な営みを通して、知性的な思考が育っていくのです。
ちょっと簡単にまとめすぎてしまったかもしれませんが、このデューイの見解については、師である藤井千春先生の研究に詳しいので、興味がある方は、概要がまとめられている以下のURLをご参考ください!
![スクリーンショット 2020-05-20 20.26.37](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/26235328/picture_pc_97549e0be8a45427044b6bfd8705e1a5.png)
4 「ふせふり」の導入で、多様な「示唆」と十分な「反省」の機会を!
すなわち、デューイの根拠を引用して、学校教育の良さを考えると、合理化しすぎていないゆえ、多様な「示唆」を生み、十分に「反省」する機会を保証することができるということでしょう。
そこで提案したいのが、「付箋によるふりかえり」、通称「ふせふり」の導入です。
特に難しいことはありません。「ふせふり」は以下のような流れの活動です。
① 授業の終わりに付箋を配り、
② 付箋に振り返り(反省)を書いてもらい、
③ 掲示板に貼り、
④ 次の授業の始まりの時に、みんなで読み(共有)、そこから生まれる「示唆」から授業を始める。
付箋を書かせるポイントは、「必ず書かせる」ということではなく、子どもの言葉1つ1つにこめられた想いを大事にすることです(そういう意味で、初めや慣れないうちは白紙で提出することもOK!)。
「反省」を通じて多様な「示唆」を生み出したいのであれば、問題が連続しているような授業後に振り返りを書いてもらうのがよいと思います。
大切にしたいことは、次の時間にしっかりと「ふせふり」を共有する場をもつこと。共有性の高さに付箋を使う意味があります。
また、多様な「示唆」をもとに、十分に「反省」する機会を設定したいのであれば、単元の終わりなどに時間をとって書いてもらうのもよいと思います。
この振り返りの書き方については、成田喜一郎先生の論考を読むことで、さらに理解を深めることができると思います。ぜひ、ご参考ください。
![スクリーンショット 2020-05-20 20.30.17](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/26235624/picture_pc_c1ffab8bd83e15089bf27af6c6424be9.png?width=1200)
成田喜一郎「エスノグラフィーとしての「創作叙事詩とその解題」とは何か」2020.5.19閲覧
教師の動きのポイントは、
① 授業中のその子その子の思考をしっかりとらえておくことで、付箋を書いている時に、誰のそばによって、どんな言葉をかけたらいいか、明確にすることができること。
② 書いている間にも、時々問い返しや共感を示してあげることで、よりその子の「反省」の質が高っていくこと。
③ 次の授業までにしっかり読み込むことで、どの子の振り返りから授業を創るか、個に寄り添った授業づくりが可能になること。
特に③の部分は重要で、「今、その子の個性的な学びが探究過程において、どういう局面にいるのか、そして、その局面に対して次にどういう局面が必要なのか考え、手立てをとる」ということに他なりません。これは、教師の教育方策でもあり、専門家としての力の見せ所でもあると言えるでしょう。
5.おわりに
もちろん、すべての活動において、この「示唆」と「反省」の往還を十分に保証することは難しいです。とはいえ、塾的な学びの中においても、日頃から自身の「示唆」に対して十分な「反省」ができている子は、「示唆」と「反省」の往還が自分の中で繰り返され、質の高い知的活動が実現されていることでしょう。そういう意味で、学校が無意味とか、塾・オンラインが無意味などという極端な議論はナンセンスになります。
少なくとも、今、学校の先生にできることは、改めて学校の良さを自覚し、それをこれからの生活にどのように活かすか考え、これまで以上に子どもたちを「知性的」に育むもうとすることではないでしょうか。
ちなみに、ふせふりの掲示板ですが、これ、めっちゃ便利です!
なにを隠そう、写真の紙は付箋ではありません。紙を付箋の大きさに切って、そのまま貼っているだけです。
この不思議な掲示板の情報はこちらです。
![スクリーンショット 2020-05-20 20.26.09](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/26235662/picture_pc_1487245815fdf691e59198ee0656bfaa.png?width=1200)
キングジム<KING JIM> 電子吸着ボード ラッケージ 黒 RK9060クロ/RK9060黒
本当は、もう少し、ふせふりを活用した授業の具体にも迫りたかったのですが、それはまたの機にということにしましょう。本校を通じて、学校教育の良さを改めて見つめ直すとともに、ふせふりの今後の可能性を考えて頂けたら嬉しいです。
(デューイについて分かりやすく説明できたかな・・・。難解すぎなんですねー。)
※掲載している写真については、モザイクまた、研究目的や情報発信を条件に同意を得ております。
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