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【下調べ】イスラエルの歴史

駐日イスラエル大使館より+「ユダヤ人はなぜ選民なのか?」より
 Wikipediaでユダヤ教を確認しましたが、意味が分かりませんでした。
やはりその国の記載された歴史を確認するのが確実だと思いました。

歴史年表 イスラエルの暦(5784年?)
※創世記 アダムとイブ(紀元前3761年頃?)
紀元前17~6世紀
聖書時代 アブラハム(紀元前2165年誕生?)イサク、ヤコブ(ユダヤ民族の族長)がイスラエルの地に定住。飢饉により、イスラエルの民はエジプトへの移住を余儀なくされる。

紀元前13世紀頃 出エジプト:イスラエルの民はモーセ(紀元前1525年誕生?)に率いられてエジプトを脱出、シナイ砂漠を40年間流浪し、その間にシナイ山で十戒などのトーラー(モーセ五書)を授かる。
紀元前13世紀-12世紀 イスラエル民族がイスラエルの地に定住
紀元前1020 ユダヤの王政が始まる(初代王:サウル)
紀元前1000 エルサレムがダビデ王(紀元前1030年頃誕生?)国の首都となる
紀元前960 ユダヤの民族的精神的中心をなす第一神殿をソロモン王がエルサレムに建設
紀元前930 王国がユダとイスラエルに分裂
紀元前722-720 イスラエル王国がアッシリアに敗北し、10部族が追放される(「失われた10部族」)
紀元前586 ユダ王国がバビロニアに征服される。エルサレムと第一神殿が破壊され、大半のユダヤ人が捕囚される。

第二神殿時代
紀元前538-142ペルシア・ギリシア時代
紀元前538-515 
多数のユダヤ人がバビロンから帰還、神殿を再建
紀元前332 アレクサンダー大王がイスラエルの地を征服、ギリシアによる支配が始まる
紀元前166-160 ユダヤ教の制圧と神殿の冒涜に対するマカビ(ハスモン)の反乱
紀元前142-129 ハスモン朝下でのユダヤ人による自治
紀元前129-63 ハスモン朝下でユダヤ人が独立
紀元前63 ローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占領

紀元前63-紀元後313年 ローマ支配
紀元前63-4 ローマのヘロデ王がイスラエルの地を支配エルサレムの神殿を改築
20-33年 ナザレのイエスのミニストリー(伝道活動)
66年 ユダヤによる反ローマ蜂起
70年 エルサレムと第二神殿の崩壊
73年 マサダのユダヤ人玉砕
132-135年 バル・コフバによる反ローマ蜂起
210年 口伝律法(ミシュナー)が成立

外国による統治時代
313-636年 ビザンチン時代
390年 
ミシュナー解釈書(エルサレム・タルムード)の完成
614年 ペルシア侵攻
636-1099年 アラブ征服時代
691年 
エルサレムの第一神殿及び第二神殿の敷地に、カリフのアブドゥルマリクが「岩のドーム」を建造
1099-1291年 十字軍時代(エルサレムのラテン王国)
1291-1516年 マルムーク朝時代
1517-1917年 オスマン帝国時代
1564年
 ユダヤの法典「シュルハン・アルーフ」出版
1860年 エルサレム旧市街の城壁外に初の居住区が建設される
1882-1903年 主にロシアから、第一次アリヤー(大規模移民)
1897年 スイスのバーゼルでテオドール・ヘルツェルが第1回シオニスト会議を召集、世界シオニスト機構が創設される
1904-14年 第二次アリヤー(主にロシアとポーランドから)
1909年 最初のキブツとデガニアが誕生し、最初の近代的ユダヤ都市テルアビブが作られる
1917年 英国の征服により、400年の及ぶオスマン帝国支配が終焉
英国のバルフォア外相が、パレスチナにおけるユダヤの祖国建設支持を宣言

1918-48年 英国統治領時代
1919-23年
 第三次アリヤー(主にロシアから)
1920年 ヒスタドルート(ユダヤ労働総同盟)とハガナー(ユダヤ防衛組織)創設
ユダヤ人社会(イシュブ)運営のため、ヴァド・レウミ(民族評議会)を設立
1921年 最初のモシャブ(共同村)、ナハラルが誕生
1922年 英国が国際連盟からパレスチナ(イスラエルの地)の委任統治権を承認される。トランスヨルダンがその4分の3の地域に設立され、残りの4分の1がユダヤの地となる。委任政府に対してユダヤ人コミュニティーを代表するユダヤ機関が設立される
1924年 テクニオン工科大学が初の工科大学としてハイファに創設される
1924-32年 第4次アリヤー(主にポーランドから)
1925年 ヘブライ大学がエルサレムのスコープス山に創設される
1929年 ヘブロンのユダヤ人がアラブのテロリストに虐殺される
1931年 ユダヤ地下組織エツェル創設
1933-39年 第5次アリヤー(主にドイツから)
1936-39年 アラブのテロリストによる反ユダヤ暴動
1939年 英国が白書を発行し、ユダヤ人移民を厳しく制限
1939-45年 第二次世界大戦:欧州でホロコースト
1941年 地下活動組織レヒ創設、ハガナーの突撃部隊パルマッハ創設
1944年 英国軍内にユダヤ旅団が編成される
1947年 国連がイスラエルの地にアラブ国家とユダヤ国家を創設することを提案

イスラエル建国
1948年
英国委任統治の終了(5月14日)
イスラエルの独立宣言(5月14日)
アラブ5カ国によるイスラエル侵攻(5月15日)
イスラエル国防軍(IDF)創設
独立戦争(1948年5月~1949年7月)
1949年
エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンと休戦協定締結 エルサレム、イスラエルとヨルダンの支配下に分割される
第一回クネセット(国会)選挙
イスラエルが国連の59番目の加盟国として承認される

1948-52年 欧州及びアラブ諸国から大量移民
1956年 シナイ作戦
1962年 アドルフ・アイヒマンがホロコースト犯罪により裁判を受け、死刑になる
1964年 全国水道網が完成、北部のキネレット湖から南部の半乾燥地帯への配水が始まる
1967年 六日戦争、エルサレム再統一
1968-70年 エジプトによる対イスラエル消耗戦争
1973年 ヨム・キプール戦争
1975年 イスラエル、欧州共同市場の准加盟国となる
1977年 総選挙によってリクード政権が誕生、30年に及ぶ労働党支配が終わるエジプトのサダト大統領がエルサレムを訪問
1978年 キャンプ・デービッドの合意により、中東の包括的和平とパレスチナ自治の枠組みが決定
1979年 イスラエル・エジプト平和条約調印
ベギン首相とサダト大統領がノーベル平和賞を受賞
1981年 イスラエル空軍がイラクの原子炉を攻撃し、稼働を阻止
1982年 イスラエルの三段階によるシナイ半島からの撤退が完了
ガリラヤ平和作戦により、パレスチナ解放機構(PLO)のテロリストをレバノンから駆逐
1984年 選挙後、挙国一致内閣(リクードと労働党)が成立
モーセ作戦により、エチオピアからユダヤ人が移民
1985年 米国と自由貿易協定を調印1987イスラエルの支配地域でインティファーダ(広範な暴力活動)が開始される
1988年 リクード政権が選挙に勝利
1989年 イスラエルが4項目和平を提案
旧ソ連からのユダヤ人の大量移民が始まる
1991年 湾岸戦争でイスラエルがイラクのスカッドミサイル攻撃を受ける
マドリードで中東和平会議が召集される
ソロモン作戦により、エチオピアからユダヤ人が空路で移民
1992年 中国及びインドと国交を樹立
労働党のラビン政権が成立
1993年 イスラエルとPLOが(パレスチナ人の代表として)、パレスチナ暫定自治の原則宣言に調印(オスロ合意)
1994年 ガザ地区、エリコ地区におけるパレスチナ自治の実施
バチカン市国と完全な国交を樹立
モロッコ、チュニジアとの国交樹立により、利益代表部が設立される
イスラエル・ヨルダン平和条約調印
ラビン、ペレス、アラファトがノーベル平和賞を受賞

1995年 西岸とガザ地区でパレスチナ人の自治が拡大; パレスチナ評議会選挙
ラビン首相が平和集会で暗殺される
シモン・ペレスが首相になる
1996年 アラブ原理主義者による対イスラエルテロがエスカレート
「怒りの葡萄作戦」により、ヒズボラによる北イスラエルへのテロ攻撃に対処
オマーンとカタールに通商代表事務所を設立
ビンヤミン・ネタニヤフが首相に選出され、リクード率いる連合政権を樹立
オマーンの貿易事務所がテルアビブに開設される
1997年 イスラエルとパレスチナ自治政府がヘブロン・プロトコルに調印
1998年 イスラエルが建国50周年を迎える
暫定合意の実施促進に向け、イスラエルとPLOがワイリバー覚書を調印
1999年 エフード・バラク(左派の「1つのイスラエル党」)が首相に選出され、連合政権を樹立
イスラエルとPLOが「シャルム・エル・シェイク覚書」に調印2000教皇ヨハネ・パウロ2世がイスラエル訪問
イスラエル、南レバノンの安全保障地帯から撤退
イスラエルが国連の西欧グループその他のグループへの加入を認められる暴力行為の再発(第二次インティファーダ)、バラク首相が辞任
2001年 アリエル・シャロン(リクード党)が首相に選出され、挙国一致内閣を結成
シャルム・エル・シェイク事実調査委員会報告(ミッチェル報告)発行
パレスチナ・イスラエル安全保障実施作業計画(テネット作業計画)が提案される
観光相のレハブアム・ゼエビがパレスチナ人テロリストに暗殺される
2002年 イスラエル、パレスチナ人テロリストによる大量攻撃に対して、「守りの盾作戦」を開始
イスラエルが、西岸テロリストによるイスラエル市民の殺戮を防止するために反テロ防御フェンスの建設を始める
シャロン首相が国会を解散、2003年1月23日に新総選挙の実施を呼びかける
2003年 シャロン首相、右派中道連合政権を樹立
イスラエルが「ロードマップ」を受諾
2005年 イスラエルが撤退計画を実施し、ガザ地区から全面撤退
2006年 シャロン首相が脳卒中に倒れた後、エフード・オルメルトが首相代行に就任
3月28日の選挙を経て、オルメルトがカディーマ党の新政権を樹立
イスラエル兵士の拉致事件を受けて、イスラエルがパレスチナ人テロリストに対する軍事作戦を実行
第二次レバノン戦争において、イスラエルが南レバノンのヒズボラのテロリストに対する軍事作戦を実行
2007年 シモン・ペレスが国会で大統領に選出される
イスラエル、ハマスによるガザ地区の暴力的占領を受けて、ガザを「敵地」と宣言
2008年 イスラエル建国60周年
イスラエルがガザ地区から打ち込まれた10000発以上のロケット砲・迫撃砲に対して、ガザ作戦(キャスト・レッド作戦)を実行
2009年 2月の総選挙でビンヤミン・ネタニヤフが首相に選ばれ、挙国一致内閣を樹立。
テルアビブ市の市制100周年
2010年 イスラエルが経済協力開発機構(OECD)に加盟
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー〇紀元前17世紀 「アブラハム」
ノアの箱舟は聖書創世記。ノアの洪水は、『聖書』研究者など多くの見解では、西暦前2370年(紀元前3000年ころとも)に起こったとされているらしい。

エジプト文明 
ナイル川流域に生まれた古代文明。前3000年頃、エジプト古王国が成立。ピラミッド、ヒエログリフなどに見られる高度な文明を発展させ、前1世紀のヘレニズム時代の終わりまで続いた。

 エジプトにおいて、ナイル川の定期的氾濫によって肥沃な土地という恵みを受けて形成された文明。下エジプト(ナイル川下流の大三角州地帯)の古代エジプト人が、メソポタミア文明の影響をうけて前5000年頃から潅漑農業による農耕文明に入り、ノモスという小国家の分立を経て、前3000年紀頃にノモスを統一してエジプト古王国を成立させた。
 農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、統一国家の形成はそれより早い時期であった。古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のあるエジプト文明が繁栄した。
 エジプト王国はその後、中王国、新王国と推移し、前332年までに31の王朝が興亡した。ここまでがエジプト古代文明と言うことができる。この間、一時的にヒクソス、アッシリア、ペルシアなどの異民族の支配を受け、また新王国はシリアに進出するなど、他のオリエント世界と密接な関係にあったが、エジプト文明は維持された。また、オリエント世界だけでなく、最近ではナイル川上流のアフリカ世界の黒人王国であるクシュ王国のエジプト支配、あるいは西方のリビアからの侵入があったこともわかってきている。
 その後、前4世紀のアレクサンドロス大王の支配、プトレマイオス朝エジプトのギリシア系権力が成立したが、この王朝の王はファラオを名乗り、エジプト文明の要素を吸収して、いわゆるヘレニズム文明を形成した。しかし、プトレマイオス朝が前1世紀末にローマに滅ぼされ、エジプト文明は終わりを告げた。その後、7世紀以降はイスラーム化し、大きく変貌する。

世界史の源流としての古代エジプト文明
(引用)現在、日本における義務教育とその延長線上に存在している(教科としての)世界史という大きな枠組みの中で、古代エジプト史の占める割合は、分量的に決して多くはない。しかしながら、通常「世界史」と呼ばれる人類の歴史の流れの中の節々で、古代エジプトに関する事柄が姿を現すことがある。特にそれは周辺諸国との関係において顕著である。たとえば「アマルナ文書」「カデシュの戦い」、そして「海の民」という用語などは、高等学校の世界史Bの教科書、あるいは少なくとも詳説世界史的な授業用参考図書に間違いなく登場するのである。「アクエンアテン(イクナートン)の宗教改革」や「モーセの出エジプト」も必須事項であろう。「古代エジプト史の黄昏」と称される斜陽の時期である新王国時代以降の時期ですら、アッシリア、ペルシア、ギリシア、ローマと関連するコンテクストの中で、このナイル河畔で生まれ育った偉大な文明は語られ続ける。黄昏のこれらの時期ですら、古代エジプト文明は、その輝きを完全には失っていないのである。しかしながら、新王国時代以降の時期はまた、地理的にヨーロッパの源郷である古代ギリシア・ローマ世界の対極に位置する北アフリカ地域で誕生した古代エジプト文明が、独立性を喪失し、世界史の中へと組み込まれていく過程を明確に示している。古代エジプト文明の黄昏は、地中海世界を核として成長しつつあったヨーロッパ世界の興隆の時期でもあったのだ。( )は引用者。<大城道則『古代エジプト文明ー世界史の源流』2012 講談社選書メティエ p.6>
筆者は、古代エジプト文明が「世界史の源流の一つであったことを、新王国の時代の後半のエジプトにユダヤ教の始祖モーセが現れたことと、ヘレニズム時代にアレクサンドリアが地中海世界の知の核として機能したことを例として指摘している。ここに、最近のエジプト史の論述ではどのあたりに注目が集まっているかをうかがうことができる。

メソポタミア文明
ティグリス・ユーフラテス両河流域に前3000年頃、都市文明が成立。エジプトと並んでオリエント文明の中心地域となる。シュメール人、セム系、インド=ヨーロッパ語系などの民族が興亡し、バビロニア、アッシリア、ペルシア帝国などの古代国家が成立した。

ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミアに成立した現在人類最古と考えられている文明。最初の農耕・牧畜が始まり、その中から青銅器を持ち、楔形文字を用い、多神教に基づく神殿(ジッグラト)を中心とした都市文明が生まれ、六十進法や太陰暦などの文化が形成された。このメソポタミア文明はエジプト文明とともに、ひろくオリエント文明を構成してる。

農耕牧畜の発生から潅漑農業へ
前7000年紀
 前7000年紀とは前6000年代のこと。その前半(つまり約9000年前~8500年前)、肥沃な三日月地帯ジャルモ遺跡などに見られる初期の農耕文明が生まれた。これは新石器革命と言われている人類にとっての大きな変革であった。これらの遺跡から、土器の使用、ムギの栽培と日干し煉瓦による住居を持ち、定住生活を開始したことがわかっている。この段階の初期農耕は灌漑ではなく降水に依存する天水農業であり、また周辺での羊などの牧畜も行われるようになった。この時期のシュメール以前の人種の系統は不明である。
前6000年紀
 前6000年紀の初め頃、まずメソポタミアの北部のジャジーラ(島の意味)と言われる比較的降水量の多い地域でも農耕が開始され、その中頃にさらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、潅漑農業が始まったと考えられる。その最初はティグリス中流のサマッラ遺跡で、年間最低降水量が200mm以下の地域であるので、灌漑に依存したと思われる。さらに前5500年頃、メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場するが、これもサマッラ文化の灌漑技術を継承したと考えられる。このころメソポタミア南部に大規模な定住が進んで都市が形成されていった。
都市文明の形成
前4000年紀
 前4000年紀の初め頃、最初の都市文明が形成された。その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、これが最古のまとまった楔形文字資料である。このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。
シュメール初期王朝 前3000年紀のシュメール初期王朝(前2900~2335年頃)時代には、ウルクラガシュウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。シュメール人は青銅器楔形文字を用い、多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。
メソポタミアの統一
アッカド王国
 前2300年頃、メソポタミアの都市国家を統一し領域国家を形成したのはセム系のアッカド人であった。アッカド王国(前2334~前2193頃)初代のサルゴン1世はシュメールの都市国家を支配下におき、知事を派遣して、都市国家の枠を超えた領域支配を行った。シュメールの都市は時に反乱を起こしたが、それを鎮圧した後、さらに強大となり、第4代ナラム=シンは「四方世界の王」(四海の王ともいう)と言う称号を使い南北のメソポタミアとその周辺を支配した。しかしアッカド王国は前2193年、北東の山岳民族の侵入を受けて滅んだと言われている。
ウル第3王朝 アッカド王国が滅んだ後、シュメール人の都市国家が復興し、その中からウル=ナンムが起こしたウル第3王朝(前2112~前2004)がメソポタミアを支配した。ウル=ナンムと後継者シュルギは財政基盤を確立し、常備軍を創設し、中央集権体制をとり、シュメール法典といわれる法律を制定した。シュルギも「四方世界の王」を称しみずからを神格化した。しかし次第に他の都市も力をつけて独立し、ウル第3王朝は分裂状態となり、東方はエラム人に侵攻され、また西方ではアムル人の領内への移住が激しくなった。その結果、前2004年にエラム人によってウル第3王朝は滅ぼされ、その後南部メソポタミアにはシュメール人の残存勢力のイシン王国、アムル人のラルサ王国が現れた。またそのころバビロンにアムル人のバビロニア王国が成立した。この三国は抗争を続け、イシンがラルサに滅ぼされた後、前1763年にバビロニア王国のハンムラビ王に倒された。
古バビロニア王国 アムル人バビロニアバビロンを都にして建てた国がバビロン第1王朝で、後の新バビロニアと区別するため、古バビロニア王国という。前18世紀の後半、その第6代の王ハンムラビ王は、ラルサ王国など周辺の諸国を倒してメソポタミア全域を統一した。ハンムラビ王は交通網を整備し、また有名なハンムラビ法典を制定して国家の形態をととのえた。しかしハンムラビ王死後は東方山岳民族のカッシートの侵攻を受けるなどして衰退に向かい、前1595年、小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。
オリエントの統一(世界帝国の出現)
民族移動期 前2000年ごろから前1500年ごろまでは、西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、カッシート、ミタンニなどが西アジアに侵入し、メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
アッシリア帝国 メソポタミア北部にすでに活動していたアッシリアは、この間、鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、前9世紀には西アジアで最有力となり、前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、アッシリア帝国西アジア最初の世界帝国となった。これによって、メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、オリエント文明に統合されたと言える。
4国分立時代 アッシリア帝国は前612年に滅亡して、4国分立時代となり、メソポタミアにはバビロンを都にしてカルデア人が自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が成立し、有力となった。新バビロニアのネブカドネザル王は前6世紀前半にパレスチナのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行してバビロン捕囚を行った。その他、小アジア西部にはリディア王国、イラン高原にはメディア王国それぞれ成立し、エジプトも独立を回復した。
ペルシア帝国 しかしイランでメディアに代わってアケメネス朝が起こると、前6世紀中頃、その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。アケメネス朝ペルシアは、楔形文字に代表されるメソポタミア文明を継承し、オリエント文明を開花させたが、前4世紀になるとギリシア人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされた。メソポタミア文明の継承と忘却
アレクサンドロス大王の帝国の成立によって、メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明がさらにギリシア文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。アレクサンドロス大王の帝国が崩壊した後には、メソポタミアの地はギリシア系国家のセレウコス朝シリアに支配されるが、オリエント的要素はギリシア系文化と融合しながら継承され、その後のパルティアササン朝ペルシアへと続くが、ペルシア帝国から始まったイラン人の文化的要素(その中心がゾロアスター教)が次第に強くなる。そして7世紀にアラビア半島の興ったイスラーム教とその文明が、一気に西アジアを席巻し、オリエント的・メソポタミア的文化要素は忘れ去られていく。
シュメール人
前3000年代頃、メソポタミアで都市文明を最初に生み出した。民族系統不明であるがウル、ラガシュなどの都市国家を建設、青銅器・楔形文字の使用、ジッグラトやシュメール法典などの文化を発展させた。
民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。紀元前4000年紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行いながら村落を形成し、前2700年ごろまでにウルウルクラガシュ、キシュなどの最初の都市国家が生み出されていった。シュメール人の民族系統は不明であるが、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。
古代オリエント文明
ジャルモ遺跡
は、紀元前6750年ころの遺跡といわれ、50戸ほどの家屋に300 人くらいが居住していたようです。家は石の基礎の上に粘土壁が築かれており、炉や土器がそなえてありました。小麦・大麦・豆などが栽培され、家畜は羊・山羊・牛・豚などがいました。また、道具としては石のかまやきね、うすなどが使われていました。これらの道具は以前の打製石器とはちがい、砂や砥石で研磨(磨製石器)されています。 イェリコの北西の丘にある新石器~青銅器時代の遺跡。現名テル・エッスルタン。紀元前5000年ころの初期農耕民の集落で城壁や望楼が発見されている。土器をもたず石鎌・石棒等の農具のほか地母神崇拝の先駆と思われる女性土偶や家畜の泥像が出土している。
〇縄文時代
縄文時代は、紀元前13,000年ころから約1万年以上もの長い間続き、その間に作られる土器の形や色などが、だんだん変わっていきました。縄文時代は、使われていた土器の特ちょうなどから古い順に、草創(そうそう)期早期前期中期後期晩(ばん)期の6つの時代に分けられます。
縄文文化  氷河期が終わった後の後氷期、紀元前約1万年から紀元前約500年頃の間、日本列島には縄文文化がみられた。この時代には、狩猟・漁労・採集活動が行われ、縄文土器が多量に使用された。最近の研究によると、縄文文化は日本列島の中のみで自立発展したのではなく、約1万年の間に様々な列島外からの影響を受けていたことが明らかとなった。また、当時の人々は単純な狩猟採集民ではなく、野菜類の栽培や、後には穀物の生産を行い、イヌとブタも飼育を行っていたことが明らかになりつつある。そして、現在、縄文文化の成立の問題や、北と南の文化的差異や時代的変遷が問題になっている。
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はい。縄文文化が一番長いですね。
ということは・・・ホツマツタエとか竹内文書とか調べる必要があります。
日本人ですから。これは必須です。

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