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〈人間の孤独と不安を繊細に描いた、20世紀ノルウェー最高の作家〉タリアイ・ヴェーソスについて

国書刊行会編集部の(昂)です。

突然ですが、ノルウェーといえば、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか?
フィヨルド、氷河と雪原、森と山、白夜にオーロラ、絵本のような街並み、高福祉、男女平等、経済発展、サーモンに捕鯨、メタル音楽、北欧神話にヴァイキング……

あるいは文豪ヘンリック・イプセンやクヌート・ハムスン、北欧ミステリ作家のジョー・ネスボやアンネ・ホルト、あるいは画家ムンク、作曲家グリーグ、南極探検家アムンゼンなどの著名人を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。

そんなノルウェーには、日本ではあまり知られていないものの、国民に広く愛されている一人の作家がいます。

その名は、タリアイ・ヴェーソス

おそらく「聞いたことがない」という方が多いのではと思います。

ですが彼こそは、ノーベル賞に幾度となくノミネートされてきた、20世紀ノルウェー文学を代表する作家の一人であり、本国では短篇作品が教科書に取り上げられたり、その名を冠した「タリアイ・ヴェーソス新人文学賞」が長く続くなど、ノルウェーでは広く知られている人物なのです。

その作風は、
「人間の孤独と不安を、繊細かつ静謐なタッチで象徴的・神秘的に描く」
というものです。

近年になり、英国の古典ペーパーバックの代表格であるペンギン・クラシックスにも代表2作品『氷の城』『鳥』が収録され、30か国近くで訳されるなど、現在、世界的な再評価が著しく進んでいます

このほど国書刊行会では、そのような未知の大作家ヴェーソスの代表作を、なんと《タリアイ・ヴェーソス・コレクション》として、3冊まとめて一挙翻訳刊行し、その静謐で神秘的な文学世界を、日本の読者の皆様にお届けします。

本稿では、ヴェーソスの生涯と作品本シリーズ《タリアイ・ヴェーソス・コレクション》の概要、そして、制作にあたっての数々の裏話を、たっぷりとご紹介します。

1.タリアイ・ヴェーソスとは?

© Leif Ørnelund/wikipedia

タリアイ・ヴェーソス(Tarjei Vesaas)は、ノルウェー東部の首都オスロから200kmほど南西に位置する、ヴェステフォル−テーレマルク県のヴィニエ(Vinje)という町に生まれました。
ヴィニエは、スキー発祥の地として知られているテーレマルクの内陸側に位置し、3000km²の広大な面積に、人口4000人に満たない人々が点在して暮らしています。山と湖と川に囲まれ、牧草「vin」の複数形「vinjar」に由来する名前の通り、大変美しい草地が広がっています。

© kokimimi/wikidata
©A.B.Borgen/wikimedia

ヴェーソスは、1897年、農家の三人息子の長男として生まれました。
青年時代は孤独と自然に親しんで過ごし、家業を継がなかったことへの罪悪感、第一次世界戦争を垣間見たことが、のちにその作品世界に影を落としました。

1934年に作家として知られるハルディス・モーレン・ヴェーソス(学習研究社『早春』の邦訳がある)と結婚してヴィニエに戻り、二人の子を儲けました。
そのうちの一人がジャーナリストで伝記作家のオーラフ・ヴェーソス、もう一人が編集者であり、児童文学の翻訳も手掛けてきたグーリ・ヴェーソスで、どちらも本国で名の知られた文化人であり、ヴェーソス作品の普及にも関わっています。

ヴェーソスがかつて暮らしたヴィニエのミットボー(Midtbø)農場。現在も家族が所有し、夏はヴェーソス博物館となっている。 © Signe Marie Kittelsaa/wikipedia

1923年、ヴェーソスは『人間の子たち』("Menneskebonn”)で作家としてデビュー。作品はすべてニーノシュク(ノルウェー公用文語のひとつ)で創作しました。何冊かの長篇・短篇集を出したのち、1934年に発表した、農場で生きる人々の人生と季節の移ろいを描いた長篇『大いなる環』("Det store spelet")で、広く認められるようになります。

1940年、ナチス・ドイツがヴェザー演習作戦でデンマークおよびノルウェーに侵攻。第二次世界大戦後まで、ノルウェーはナチスによる占領を経験します。

戦後、占領が解かれると、ヨーロッパ・モダニズムの潮流がノルウェーにも到来。
1945年、ヴェーソスはナチスのノルウェー占領を題材にした長篇小説『暗闇の家』("Huset i mørket” メルソム賞受賞)を発表し、50年代・60年代のノルウェーを代表するモダニズム作家とみなされるようになります。
1952年、短篇集『風』Vindaneを発表。本作によりヴェネツィア国際文学賞を受賞。ヴェーソスの名を国際的に知らしめた重要作です。

そして1957年に長篇『鳥』Fuglaneを発表。本作は文学賞こそ取らなかったものの、ヴェーソスの最高傑作と誉れ高く、のちにペンギン・クラシックスにも収録され、幾度も映画化・舞台化がなされています。

1963年に『氷の城』("Is-slottet”)を刊行。本作で北欧理事会文学賞を受賞。ヴェーソスの作品で、『鳥』とならび最も多くの国で翻訳されている一冊です。

1970年3月、ヴェーソスはその生涯を閉じます。
遺作は、鶴の踊りを子どもが観察する物語など、断章的なスタイルで綴る小説『夕方の舟』("Båten om Kvelden" 1968)でした。

なおヴェーソスは、30回にわたりノーベル文学賞にノミネートされていたことが分かっています。

ヴェーソスは50年におよぶ作家人生の間に、30冊以上の長篇小説・短篇小説、詩集などを手掛けました。
今日ヴェーソスは、人間の孤独や不安といった根源的なテーマを、簡潔な文体で描いた作品によって知られています。
ただ、ヴェーソスの作品の中では、リアリズムと象徴主義は相対するものではなく、むしろ簡潔なリアリズム的描写のもと、「孤独」「不安」あるいは「罪悪感」といった人間心理の根源的なテーマを、劇的な人間ドラマと暗喩的なスタイルで象徴的に織り込んでいく、という手法を取っているのです。

つまり、ヴェーソスの作品の特徴を簡単に言えば、
「文章自体はシンプルで読みやすいけど、会話や物事の描写など、行間にたくさんの意味がこめられている」
ということになります。

また、彼の作品は、自然豊かなノルウェーの田舎を舞台にしている作品が多くを占めます。
自然と人間の在り方、そして、幻想的で美しい自然をめぐる神秘もまた、ヴェーソス文学における重要な核となっている要素です。

さて、21世紀に入り、ふたたび世界的にヴェーソスの作品を評価する流れが高まりました。
代表2作の英訳のペンギン・クラシックス入りをはじめ、各国での翻訳や再刊が、この数年でシンクロするようにして進んでいます。
『氷の城』の校正の最中にも、奇しくもノルウェー本国で、「ヴェーソスと翻訳」というテーマでの特集フォーラムが行われるほどでした。

ヴェーソスの翻訳が世界的に進んでいる理由は、本国のノルウェー文学海外普及協会(NORLA)でも正確なところは分からないそうなのですが、おそらく作品自体に力があること――今日読んでも色褪せない、孤独や不安といった深い共鳴をもたらす普遍的な人間の心の在り方が清冽に描かれていることと、無関係ではないと思われます。

2.少女ふたりの絆と別れを描く傑作『氷の城』

『氷の城』 原書表紙(最新のGyldendal版。刊行以来、幾度も版を重ねている)
ペンギン・モダン・クラシックス版表紙(英題 "The Ice Palace")

「タリアイ・ヴェーソス・コレクション」の第一回配本は、1963年に書かれた『氷の城』("Is-slottet")です。
幻想的で摩訶不思議な魅力を湛えた題名のこの物語は、雪に閉ざされたノルウェーの田舎町を舞台に、少女ふたりの特別な絆と切ない別れを描いた物語です。

雪に閉ざされたノルウェーの田舎町。11歳の少女シスの通う学校に、同じ年の少女ウンが転入してくる。ためらいがちに距離を詰め、運命の絆で結ばれたふたりの少女が、それぞれの思いを胸に、森深くの滝の麓につくられた神秘的な〈氷の城〉を目指す……

「下手に言葉にすると何か大切なものを壊してしまうのではないか」

ヴェーソスの『氷の城』は、読んでいるとついそんなふうに思ってしまうほど、きわめて繊細で美しい物語です。

ふたりの少女が、運命に導かれるようにして特別な関係を築き、そして、別れる。
繊細で美しいと言っても、感傷的でウェットな言い回しをするタイプの作品ではなく、淡々としたごく簡潔な言葉により、描写を積み重ねていくスタイルの作品です。
そうして行間に深い意味を織り込んでいくことで、読みやすい文章の中にも、静謐な象徴性と幻想性を感じさせ、独特の神秘的な世界へと私たちを誘うのです。

タリアイ・ヴェーソスの娘、グーリ・ヴェーソスさんは、そんなタリアイの文章を訳す際に、『「telling(語る)」ではなくて「showing(見せる)」』文章であるということに気を付けるとよい、と、知己であった訳者のアンネさんに直々にアドバイスをしてくださったそうです。
このグーリさんのアドバイスは、まさにヴェーソスの原文のニュアンスを活かすために、訳者ふたりと担当の間でも共有し、世界観を壊さないための参考の指針にもなりました。
(具体的には、「変に分かりやすさや表現の華麗さ、気の利いた言い回しなどを意識せず、訳文を補う余計な提案はしない」などの方針で編集・校正作業を行いました)。

本作は、不思議な物語であるのと同時に、「コミュニケーション」についても、相当繊細かつハイコンテクストに描かれています。

「ノルウェーにはシャイな人が多い、日本とよく似ている」

というのは翻訳者のアンネさんの弁ですが、実際に『氷の城』でも、主人公シスが、転校してきたウンと仲良くなりたいものの、距離を詰めるのに何日も遠くから様子を見て時間をかける描写があったり、いざ会話をはじめても言いたいことをうまく口に出せなくてちょっと気まずい思いをする……という描写があります。
あるいは、暗示されるウンの心の傷について、「あのこと」という言い回しでのみ会話をする。
このような、簡単には言葉にしえない、繊細なコミュニケーションの過程をきわめて精緻に描き切っているところに、ある種の「機微への気づき」があり、思わず深いため息が出てしてしまいます。

ノルウェーの田舎の独特な風土などへの知識がなくても問題なく読み進めることができますが、訳者あとがきの丁寧な解説によって、たとえば、作品にも登場する冬の氷が張る湖の様子や、雪上に現れるトビムシなどのノルウェーを舞台にした小説ならではのディテールについても、深く知り、味わうことが出来ます

また、登場人物は「シス」と「ウン」以外には基本的に名前がなく、カタカナ語もそう頻出しない、話の筋自体はごくシンプルで比較的取っつきやすいので、海外文学ビギナーの方にもおすすめです。

そして本作はなんと、コラムニストの山崎まどかさんと作家の朝吹真理子さん推薦文をいただきました。

少女同士のつのる想いが結晶化したかのような氷の城。
北欧の大自然の厳しさが、優しさが、激しくて切ない行く末を予感させる。
大人になっていくことの残酷さとイノセンスからの解放を、こんな風に鮮烈に描いた物語を他に知らない。

――山崎まどか

誰にも会いたくない日に読んだ。静かな言葉で書かれるからこそ、少女二人の燃えるような気持ちが胸にぎゅっと迫ってくる。冬の物語で、紙面の余白の白さが、湖面にみえる。氷の分厚くなるときの音、完璧な美しさの氷の城。景色が美しいことがかなしい、そう思ってしまう物語だった。
――朝吹真理子

山崎まどかさんの乙女カルチャー本を愛読されている方、朝吹真理子さんの凛とした作品がお好きな方、そして、このお二人のご推薦文を読んでピンとくるものがあった方には、間違いなく本作はツボにハマると思います。
イギリスのノーベル賞作家ドリス・レッシングも、「唯一無二の、忘れがたい傑作」と絶賛、ベストセラー作家のマックス・ポーター「世界で一番有名でないことが不思議な本」と本作について語っています。
また、アンナ・カヴァンなどの作品を出し続けてきたイギリスの出版社ピーター・オーウェン社の社主のピーター・オーウェンをして、「これまで出版してきた中で最高の小説」と言わしめています。

アンナ・カヴァンもそうなのですが、その他にも関連したタイプの作家の名前を挙げるならば、山尾悠子さん、佐々木丸美さん、小川洋子さんなどの静謐な世界観の作品が好きな方にも、大いに「刺さる」タイプの作家だと思います。
(余談ながら、ペンギン・クラシックスの『氷の城』の装画は、同叢書のカヴァンの『氷』とよく似ています)

また、このたび国書刊行会では、書店・図書館関係者・新刊レヴュワー様向けの刊行前ゲラ読みサービス「NetGalley」で、一部タイトルの事前配信を開始しました。そこで『氷の城』を配信したのですが、初参加にもかかわらず、実に多くの方にご高覧いただけました。
そこにお寄せいただいた感想を、ごく一部ですが、ご紹介したいと思います。

「自然の描写が美しい。氷が張るということが身近にないとわからないような季節による変化の様子など、見ているような気分にさせられました。私も氷の城に迷い込みたくなります。風の音や闇の深さ、ふだんコンクリートジャングルと呼ばれるようなところで暮らしている身にはなじみがないものがすぐそこにあるかのような描写力が魅力だと思います」
(図書館関係者様)

「ほんの短いふれあい、でも確かにあった心の交歓。言葉にしたら、なんでもないことのように否定されてしまいそうだから言えない。普通にみんなと過ごしたら、大切な人を、思い出のかけらを忘れてしまいそうで、怖くて前に進めない……。氷と雪に囲まれた幻想的な世界と、控えめな優しさと芯の強さを持つ周囲の人々に魅了されました。訳者あとがきを読んで、さらに作品の世界を楽しめました」
(レビュワー様)

「寒い国の自然描写に惹かれる。それから、人々の心遣いと主人公の想い。舞台の国を知らずに読んでいたが、解説で興味が湧いた。楽器や他者への態度についても解説を読んでなるほどと思った。
さて、私は本書を前知識もなく読んだ。寒いところの話くらいで読みはじめた。多感な女の子をずっと、見守るように読んでいた。この見守る感覚と自然の描写がとてもマッチする。
理解させる(納得させる)ではなく、ただ「ある」いくつか疑問は解らなくていいのだろう。あるがままに受けとめる大らかさを持っていなかった自分にハッと気付かされた」

(書店関係者様)

このほかにも多数のご感想をお寄せいただいており、全部を紹介できず恐縮ですが、お読み下さった皆様・感想を書いて下さった方、ありがとうございました!(すべて訳者と一緒に拝読しています)

なお『氷の城』は、文学賞方面からの評価も高い作品で、1967年の北欧理事会文学賞受賞作でもあります。
この「北欧理事会文学賞」は、北欧語圏で最高峰の文学作品に与えられる賞の一つで、翻訳家の枇谷玲子さんによる記事【北欧理事会/会議文学賞の日本での認知を広めたい!(前半)|北欧語書籍翻訳者の会|note】が大変詳しいです。

なお本作は過去にノルウェーで映画化もされており、日本では『白銀のラビリンス/吹雪に舞う乙女のファンタジー』(TV放映時は『長い夜』)という題名でVHSが出ました。しかし現在では、諸般の事情により、視聴がかなわない作品になっています。

3.20世紀文学の最高傑作『鳥』と教科書にも載った傑作短篇集『風』について

本シリーズでは、『氷の城』に続いて同じくヴェーソスの代表作にして最高傑作として知られる長篇『鳥』("Fuglane" 1957)、著者最高の短篇集『風』("Vindane" 1952)の刊行を予定。

『鳥』原書表紙(Gyldendal版)
ペンギン・モダン・クラシックス版表紙(英題"The Birds")

『鳥』は、軽度の知的障害を抱える、善良な青年マッティスが主人公の物語。
姉のヘーゲとたったふたりで、湖畔の小さな家で細々と暮らしていたものの、やがて、ヘーゲに勧められ、マッティスは湖の船頭として働くことを決めます。
しかしある夏の日、マッティスの船客としてはじめて現れた木樵ヨルゲンにヘーゲが恋をし、マッティスは姉との別離を予感する……

すなわち、「かけがえのない人間と、別れざるをえなくなる物語」です。
別れと歩みを描くという点では、『氷の城』と似ているかもしれません。こちらも、ものすごく「刺さる」作品かと思います。

マッティスは知的障害者であると同時に、孤独を抱えた、大変鋭敏な感性をもった人間として描かれており、海外のレビューにも、その鋭さの描写についての絶賛が多く見られます。

本邦初訳の本作ですが、実は、作家の佐伯一麦さんが、私小説『ノルゲ Norge』の中で、一部を英語から引用翻訳する形式で、本作『鳥』を大きく取り上げていて、その一端を知ることができます。

また、世界中で大ベストセラーになったオートフィクション『わが闘争』(早川書房より1・2巻が刊行)で知られるノルウェーの作家カール・オーヴェ・クナウスゴールも、

「ノルウェー最高の小説」
「もしメジャーな言語で書かれていたならば、20世紀の偉大な古典中の古典に数えられていただろう」

とまで賞賛しています。
本作はまた幾度も映画や舞台になっており、日本でもフランスの演出家クロード・レジの手によって『神の霧』の題名で海外公演の舞台映像が上映されたほか、つい先月にも、ベルギーの著名な演出家のLuk Perceval氏の手によって新たに舞台化され、オスロで上演されています。

こちらは半年後の刊行を目指して、まさに現在朝田さんとアンネさんに翻訳いただいている最中で、担当編集としても非常に楽しみな作品です。

『風』原書表紙(Bokklubben版)

そして『風』は、1953年度のヴェニス国際文学賞を受賞した、ヴェーソスの国際的な出世作となった短篇集で、収録作「勇敢な蟻」は、ノルウェー本国のニーノシュクの教科書にも取り上げられるなど、広く知られています。

本シリーズの企画を立てた時点では、担当編集は『氷の城』『鳥』の2作以外に何を収録するか迷っておりました。相談の結果、訳者アンネさんにベストの1冊としてご教示いただいたのが本作です。概要を聞き、この本はよい! と思い、さらに3冊並べたときのタイトルの並びもシンプルによい、と思ったので、本書を最後の1冊に決めました。

以下のタイトルの全13篇の短篇を収録しています。

「勇敢な蟻」
「凶暴な騎士」
「胡椒の実」
「誕生日」
「トラスク坊や」
「最後に帰る男」
「土曜の夜」
「海の向こうの小麦」
「はだか」
「落下」
「春の和らぎ」
「不思議なこと」
「のろま」

一匹の蟻の一生を寓意的に描いた「勇敢な蟻」
一日の仕事を終えた木樵の若い男が、あえて森に独りで残り、そこで神秘的な自然を味わう「最後に帰る男」
冬の終わりに、小さな女の子が飼い猫の赤ちゃんの誕生を待ち望む「春の和らぎ」
『鳥』のプロトタイプになったと言われる短篇「のろま」
などなど、ユーモラスで心温まる話、寂しく切ない話、不思議な余韻を残す幻想的な話までを集めており、多彩なテイストのもと、人間の心理を濃やかに、かつ繊細で清新に描き上げた短篇集です。
刊行はちょうど1年後、来年2023年の春頃を予定。
こちらも本邦初訳ヴェーソスの多彩な作風とエッセンスを知ることができる、貴重な1冊です。

4.「その他の外国文学」である本作刊行までの裏話

なぜこの未知の作家を刊行しようとしたのか?

実は『氷の城』は、1972年に新潮社から一度、翻訳が刊行されています(著者名はタリエイ・ヴェースオースと表記。福田貴訳)。
面白い本はないかと日毎の企画探索活動をしていた編集担当は、たまたま幻想的で美しい作品、この『氷の城』の存在を知りました。
ただ、この旧版は50年近くも前のもので、古書市場にも安価には出回っていません。なんとか近所の図書館で取り寄せて、実際に一読。文体、物語内容、そして結末など、あらゆる点でドンピシャに好みにハマり、
「なんて美しい、完璧な作品なんだ……」
と、息をのむほどの衝撃を受けたことから企画が始まりました。
「古書価も高騰しているし、これは私が復刊せねば」
と思いつつ、さらにヴェーソスについて調べていると、ほかの作品は未邦訳、しかも非常に本国での評価が高いことや、いくつかの作品には英訳もあることが判明。
それならば最初からドン! とシリーズにして出した方がインパクトも強く、紹介のためのこれ以上にないよい機会になるだろう、と思い、候補作品をいくつか調査・選定して、3冊シリーズとして企画書を作成。無事に上司の決裁が通り、企画がスタート。そして翻訳エージェントに版権状況を問い合わせたところ、幸いにも目当ての作品の版権は空いていました。

しかし、これまで国書刊行会ではノルウェー語文学をほとんど出版していなかったことから、翻訳者探しはゼロからのスタートでした。しかも、ヴェーソスの作品は、ノルウェー語の公用文語の中でも、どちらかといえば少数派の「ニーノシュク」で書かれていることも分かり、なおさらどうすればよいのか……と困惑しました。

デンマーク語をベースにした言語「ブークモール」bokmålは「書籍の言葉」の意味で、約9割の使用率です。今日ノルウェーでもっとも広く使われているのがブークモールです。
これに対し「ニーノシュク」Nynorskは「新ノルウェー語」の意味で、20世紀初頭に、独立国家として、かつてノルウェーを支配したデンマークの言語の影響を排した新しい言葉を作るべく、言語学者のイヴァール・オーセンが主導してノルウェー各地の方言をベースに作られたものです。
端的に言えば民族主義的な言葉で、国民全体で約1割の使用率にとどまっていますが、ノルウェーの学校ではブークモールとニーノシュクの両方を学び、ニーノシュクを自治体語に採用するところもあります。公務員は提出された公的書類の返信などにはニーノシュクあるいはブークモール、いずれか市民が記入した文語での対応を求められます。
まさに、『「その他の外国文学」の翻訳者』のなかでも、さらに「その他」の側へと置かれがちな言語の翻訳ができる訳者の方を探さねばならないという、大変な状況でした。

翻訳者が訳書を出す出版社探しに苦労している、という声を時々耳にするのですが、出版社もまた翻訳者探しに苦労することもあるのです。

そして、ヴェーソスについて調べるにあたって、ヴェーソスについての言及があったホームページ「ノルウェー夢ネット」の運営者で翻訳家の青木順子さんへまずは相談してみようと、ご連絡を差し上げました。

(青木さんは、話題の書籍『「その他の外国文学」の翻訳者』でノルウェー語の翻訳について語られています。青木さんの他にも、小社「新しいマヤの文学」の編訳者・吉田栄人さんも本書には登場。翻訳家の皆さんが翻訳家になった経緯や苦労、仕事の醍醐味など、翻訳という仕事の裏話が多くておすすめの1冊です)。

青木さんは、突然の連絡にもかかわらず大変親切にご相談に乗っていただき、朝田千惠さん、アンネ・ランデ・ペータスさんという、ふたりの強力なニーノシュクの翻訳者をご紹介いただきました。

朝田千惠さんは、大阪外国語大学からノルウェーへの留学を経て、大阪大学外国語学部で教鞭をとり、手ずから薪を割りながら訳したというノルウェーのベストセラー薪本『薪を焚く』(晶文社刊)が話題になっている翻訳者です。
そしてアンネ・ランデ・ペータスさんは、宣教師の親とともに日本とノルウェーを行き来して暮らし、日本とノルウェーで演劇を学び、三島由紀夫や吉本ばななさんの作品をノルウェー語に訳し、新国立劇場で上演されたヘンリック・イプセンやヨン・フォッセの劇作品を日本語に訳すなど活躍している翻訳者。
このおふたりにお会いして、ヴェーソス作品の良さで盛り上がり、すぐにいいチームが組めそうだな、と確信しました。

こうして3人で相談しながら最終的に翻訳する作品を『氷の城』『鳥』『風』の3冊に選び、版権も無事取得。『氷の城』は原著刊行が1967年であり、その後10年邦訳がなければいわゆる「翻訳権の10年留保」によって版権取得が不要だったものの、新潮社から1972年に翻訳が出たために、没後50年が経った現在でも版権取得を要していました。これがおそらく、ヴェーソスの『氷の城』の復刊が進まなかった原因の一つかとも考えています。

なお今回は、元来的には版権取得が不要の『鳥』『風』の版権も合わせて取得。こうして1970年以前の書籍の版権を取ることは、たまにあります(スタニスワフ・レム・コレクションの初期作品など)。

さてニーノシュクを日本語に翻訳できるというだけでも実に稀有なのですが、なんとアンネさんは、ヴェーソスの娘であるグーリ・ヴェーソスさんとも直接親交があるということも分かりました。
翻訳にあたっては、先にも述べたように、アンネさんを通して、娘のグーリさんから直々に数々の貴重なアドバイスをいただきました。

現代文学の作家の場合、訳者が直接やりとりして疑問点を聞くという話もありますが、物故作家であるタリアイについてグーリさんから細かな事情を聞けたのは、非常に貴重なことでした。

また、今回の翻訳にあたっては、ノルウェー文学海外普及協会(NORLA)に出版費用の一部を助成いただきました。
ヴェーソスの作品の内容には間違いないはず、という自信はあったものの、日本ではほぼ知られていない作家を紹介するにあたっては、やはりどの程度売れて広まるのかは、測り切れなさがあるものです。こうした助成金制度があるのは、さまざまな国や時代の海外文学を紹介したい身としては、たいへん有難いことです。
NORLAの担当の方とのメールの間でも、装幀の感想をいただくなど、ささやかながら気軽で温かいやりとりがあり、世界の文学作品を日本に紹介するという仕事の醍醐味を感じられました。

このように多くの方の手助けと、奇跡的なつながりによって、本シリーズは無事に刊行にこぎつけることができたのです。

5.装幀&装画の秘密

装画は、ノルウェーの画家アイナル・シグスタード(Einar Sigstad)さんにご担当いただきました。
今回、装画を決めるにあたっては、「静謐な作品の雰囲気に合うような正調な絵画が相応しい」くらいまでは考えていたのですが、訳者のおふたりにご意見やご希望を聞くと、朝田さんから、この方の版画だと最高なのですが……とのご返事に添付されていたのがアイナルさんの版画でした。大変美しく繊細な上、理想的な正調さとシュルレアリスティックな幻想味も併せ持っており、なおかつノルウェーの文学作品にノルウェーの版画作品を合わせる、というマリアージュにも惹かれ、「いいですね!」とすぐ返答。朝田さんを通じてなんとかアイナルさんにコンタクトをとっていただき、ご快諾いただけました。
当初は既存のアイナルさんの作品を装画に使用する予定でしたが、『氷の城』という作品のモチーフをぴったり表す絵がなく、相談の結果、日本の訳書のため、これ以上にないほど素晴らしい装画を描き下ろしていただけることになりました。
小社の海外文学書籍でも、本国の現役作家の装画を使用すること、さらに描き下ろしていただくのは、かなり珍しいことです。

装幀は、2020年の弊社の話題書『ウィトゲンシュタインの愛人』でもお世話になった、デザイン事務所アルビレオ草苅睦子さんにご担当いただきました。
カバーは、水色と黄色の北欧風の可愛らしい配色の繊細な模様に、用紙は装画を引き立ててくれる、キャンバス地風の質感のあるミニッツGA

オビの用紙にはドリープFという、製図や複写にも使われる絶妙な透け感と触り心地の高級トレーシングペーパーを選定いただき、繊細な版画を透かして見せつつもオビの文章もきっちりと見せるという、いいとこ取りの形に仕上げていただきました。

カバーを外した表紙のデザインも、雪の結晶のようで大変美しい仕上がりです。

本文書体には、凛としたヴェーソスの作風に合った、イワタ明朝体オールドを採用。シンプルながらもゆったりと読みやすい形になるように、本文組を微調整しました。

そういうわけで、今回も手の込んだ造本の紙の本がおすすめですが、本棚がパンパンで置き場がないというそこの貴方のためにも、電子書籍版も鋭意準備を進めております。電子派の方も楽しみにお待ちいただけましたら幸いです(紙版より少し遅れてしまいますが、近日予約開始・発売予定です)。

6.パンフレットご案内&訳者・編集者によるトークイベント開催!(2022/4/9)

本シリーズのパンフレットも、アルビレオの草苅さんに作成いただきました。
書籍と合わせたスマート&オーセンティックでキュートさもある素敵なデザインで、ここではシリーズ全体や各作品の梗概、推薦文のほか、訳者ふたりによる「刊行によせて」をお読みいただけます。

pdfダウンロードは→こちら
紙版書籍のシリーズ各巻にも挟み込まれています。弊社HPのお問い合わせフォームからも、お取り寄せが可能です。

また、弊社HPではすでに告知しております通り、2022年4月9日(土)14:00~には、ノルウェー読書会主催によるオンライン&会場での『氷の城』に関する無料トークイベントを開催予定。担当編集も登壇予定です。
詳細申込みはこちらから↓

11thノルウェー読書会 翻訳者・編集者による『氷の城』講演会

さて、ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
本記事をお読みになってピンときた方には、自信をもっておすすめいたしますので、まずはぜひ、『氷の城』をお手に取って下さい。

〈タリアイ・ヴェーソス・コレクション〉を、どうぞよろしくお願いします!

氷の城

タリアイ・ヴェーソス 著
朝田千惠/アンネ・ランデ・ペータス 訳

2022年4月刊・四六判・348頁
定価2,640円 (10%税込)
ISBN978-4-336-07250-4



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