見出し画像

【スパニッシュ・ホラー文芸】マリアーナ・エンリケス/宮﨑真紀訳『寝煙草の危険』訳者あとがき公開

このほど現代アルゼンチン文学を代表する作家マリアーナ・エンリケスの第1短篇集『寝煙草の危険』(宮﨑真紀訳)を、エルビラ・ナバロ『兎の島』に続く〈スパニッシュ・ホラー文芸〉第2弾として邦訳刊行しました。幸い、刊行以来好評を博しております。
ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロも「ガーディアン」「ニューヨーク・タイムズ」などの錚々たるメディアで折に触れ絶賛、英訳は2021年度の国際ブッカー賞の最終候補にもなった、世界的にも大いに売れているホラー文芸短編集です。

刊行を記念しまして、本書の訳者宮﨑真紀さんによる「訳者あとがき」を以下に全文公開します。
〈文学界のロック・スター〉〈ホラー・プリンセス〉と、しばしばセンセーショナルな二つ名で称されてきたエンリケス自身と、その一筋縄ではいかない複雑で豊かな作風と本書の内容について、非常に詳しく紹介されておりますので、ぜひご一読ください。

*  *  *

訳者あとがき

〈アルゼンチンのホラー・プリンセス〉の異名を持つマリアーナ・エンリケスは、今や新進の現代スペイン語圏作家の中で、国際的に最も高い評価を受けている作家の一人と言っていいだろう。作品が二十か国語以上に翻訳されていることはもとより、たとえばイギリスのノーベル賞作家カズオ・イシグロは、ニューヨーク大学の読書会イベントで、今注目している、とてもおもしろいゴシック・ホラー作家としてエンリケスを挙げ、とくに二つの短篇集(本書と『わたしたちが火の中で失くしたもの』)が好きだと述べているし(2022年12月25日付『クーリエ・ジャポン』)、ニューヨーク・タイムズ紙は、「文学界のロック・スター」と、ある意味カリスマ視するような異名さえ与えた。もっとも、それはエンリケスがたいていハードロッカーのような、お気に入りのバンドのTシャツやシルバーのごついアクセサリーやチェーン、黒革のブレスに真っ赤な口紅、あるいはゴス・ファッションでキメているせいかもしれない。

エンリケスの名が世界的に知られるようになったのは、第二短篇集である、すでに触れた『わたしたちが火の中で失くしたもの』が、2017年2月に彼女の作品としては初めて英訳出版され、大成功を収めたことが大きい。英ガーディアン紙や米ニューヨーク・タイムズ紙、ニューヨーカー誌といった大手の新聞・雑誌が次々に絶賛し、売れ行きも好調だった。

 だから、202年1月に、エンリケスの第一短篇集である本書『寝煙草の危険』の英訳版がグランタ社より満を持して出版されたとき、各種メディアや文芸評論家、同業の作家たちが飛びついたことは言うまでもない。『運命と復讐』で全米図書賞候補となった作家ローレン・グロフは「この小説を読んで、エンリケスの他に類を見ない脳みその中にしばらく住んでみたあなたは、既知の世界がいつもよりほんの少しずれて見えるだろう。煙で煤けたように暗く、肉欲に満ち、幻惑的」と評した。先のカズオ・イシグロも、ガーディアン紙で2021年のベストブックとして本書を挙げ、「近年のフィクションでは最もエキサイティングな発見の一つ」と述べた。出版社もえらい力の入れようで、ニューヨークのタイムズスクエアの電光掲示板で大々的に広告が打たれたほどだ。ついには2021年国際ブッカー賞の最終候補にまで残り、惜しくも受賞は逃したものの、エンリケスの作家としての国際的な地位を不動のものにした。

エンリケスの作風を端的に言ってしまえば、ゴシカルな恐怖小説の定番たる超自然的モチーフ――幽霊、呪術、降霊術、ゾンビ、幻視――を現代アルゼンチン(ラテンアメリカ)というコンテキストの中で用いて、現実の恐怖や不安を鮮烈に生々しくあぶりだす〝ホラー〞だ。ただ、読者を恐怖や戦慄で楽しませるエンターテインメントとしてのホラーとはやや一線を画している。エンリケスは、ガーディアン紙のインタビュー(2022年10月1日付)で、ホラーというジャンルに惹かれるのはなぜかと訊かれ、こう答えている。

「アルゼンチンの現実をリアリズムで描き出すのはそもそも難しい。かつてはボルヘスやシルビナ・オカンポ、フリオ・コルタサルがいたけれど、50年代、60年代に入って、独裁制、キューバ革命やアメリカの介入などの影響で、文学は政治や時代性を描かざるを得ないというサルトル的ジレンマに陥った……だけど、もちろんかならずしもリアリスティックである必要はない。そこで私たち80年代、90年代に育った人間は、(当時親しんだ)スプラッタームービーやスティーヴン・キング、『ツイン・ピークス』と私たちの現実をすっかりごっちゃにした。だって、私たちの現実はすでにホラー要素満載だったから。行デ サパレシードス方不明者たちの存在、(私たち自身が)死者の子供たち、失われた世代の子供たちだった……私はどんな種類の沈黙にも与(くみ)したくない。恐ろしいものに怖気づいていてはとても危険だと思う。ホラーというジャンルは、〝政治的暴力〞みたいな言葉に埋もれてしまう本物の恐怖に光を当てる」

つまり、エンリケスの書く小説は、成長過程で彼女に深く刻み込まれた〝政治や社会情勢という名の恐怖〞と〝80年代、90年代の世界的ホラー・ブーム〞の融合から生まれたと言えるかもしれない。この点については、『わたしたちが火の中で失くしたもの』の訳者あとがきで安藤哲行氏も指摘し、アルゼンチンの歴史にも触れている。なので、ここでは詳しくは書かないが、1976年から83年まで続いた軍事政権の恐怖政治によっておこなわれた「汚い戦争」では、共産主義ゲリラ掃討という名目のもと、国家が市民を違法逮捕、拉致、監禁、拷問、殺害などさまざまな形で弾圧した。死者・行方不明者は約3万人にものぼるとされ、市民のあいだに恐怖と不安が蔓延した。

当時のアルゼンチン社会を描いた映画がいくつも撮られているので、観ると本書の理解にも役立つかもしれない。たとえば2009年製作の『瞳は静かに』(ダニエル・ブスタマンテ監督・脚本)は、一種の監視社会と化していた時代の不条理と大人たちの欺瞞を幼い少年の透徹した目で眺めた、戦慄の名作である。訳者としては、このアンドレス少年にエンリケスを重ねてしまったりする……。最近公開され、ヴェネチア国際映画祭などで国際的に高い評価を受けた2022年製作『アルゼンチン1985 〜歴史を変えた裁判〜』(サンティアゴ・ミトレ監督)は、「汚い戦争」の首謀者たちを初めて訴追しようとした検事たちの奮闘を描いた感動的な作品だ。生々しい証言から、当時いかにおぞましいことがおこなわれていたかがわかり、観ていて震えが走る。

まさにそのデサパレシードスがモチーフになっているのが本書の「わたしたちが死者と話していたとき」であり、そうしたアルゼンチン市民特有の〝傷〞を持たないことが、ある種許されざる特権であるかのようにさえ描かれる。この短篇中に出てくる『ヌンカ・マス(もう二度と)』は、デサパレシードスについて調査した国の調査委員会のいわば報告書であり、これにもとづいたTVドキュメンタリーが、先の映画『アルゼンチン1985』にも登場する。主人公である検事の子供たちが居間のテレビでそれをじっと見つめるシーンだが、この子供たちにもやはり幼小時のエンリケスが重なる。

そうした不条理さの最大の犠牲者となる女子供、年寄り、マイノリティに寄り添う視線というのも、エンリケスの特徴のひとつだろう。彼ら弱き者たちは幽霊やゾンビになって戻ってきたり(「ちっちゃな天使を掘り返す」、「悲しみの大通り」、「戻ってくる子供たち」)、呪術を用いたりして(「ショッピングカート」、「湧水池の聖母」)リベンジを果たすが、それはまさにホラーのお約束の構造でありながら、人身売買やストリートチルドレンなどの問題を自然と浮き彫りにする。2021年のドイツでのインタビューで、「彼らは実際にすぐそこにいるのに、みんな見ていない、あるいは見えないふりをしている……読者は私の小説を読んだとき、なんでこんなにはるか遠くまでぶっ飛んだことを書くのか、と言うけれど、じつはちっとも遠くない」とエンリケスは語っている。一人で立ち向かえない弱い者たちは集団を形成し、蠢く塊と化す(「肉」、「戻ってくる子供たち」)。不気味なのに、読んでいる私たちはなぜか勇気をもらう。

ラテンアメリカの小説を読んでいると、呪術や呪術師の存在がごく当たり前に描かれる(「湧水池の聖母」、「井戸」)ことに驚くのだが、頼るのはたいてい女たちだ。男性優位社会の主流からどうしてもはずれてしまう女たちは、困ったとき、すがる場所がそこしかないのだ。逆に、本書の中でもかなり典型的なゴシック・ホラーの体裁をとっている「展望塔」では、過去の性被害の傷にとらわれ、女性であるがゆえに思うように生きられない女が、物の怪につけ込まれる。しかしおそらくはその物の怪も、そうした弱さにつけ込まれて囚われの身となったはずだ(ブエノスアイレスの南東にある大西洋岸のリゾート地オステンデには、実際に〈ビエホ・オテル・オステンデ〉と呼ばれるかつて温泉ホテルだった建物が残っており、サン= テグジュペリが宿泊したこと、そしてしばしば幽霊が出たことで知られている)。

もうひとつ、訳者がエンリケスの作品を読んで強く心をつかまれたのは、女の主体的なエロスを描いている点だ(「どこにあるの、心臓」、「肉」、「誕生会でも洗礼式でもなく」、「寝煙草の危険」)。場合によっては男性を介さなくても、みずからつかみにいくエロス。それはやけに鮮やかで赤裸々、痛切で激しく、ときには自分を傷つけさえする。グロテスクだけれど妙に美しい。
破るに破れないガラスケースに閉じ込められた女たちは、何か普通とは違うやり方でそれを打破するしかないのだ。(ちなみに、「誕生会でも洗礼式でもなく」の少女マルセラは、『わたしたちが火の中で失くしたもの』に収められた「学年末」にも登場する。本書のほうが後日談のように思える。)

「自分はラテンアメリカの作家だと思っている……(でも)スペイン語圏のホラーはまだ地盤ができていない……ホラー作品を書くときには、ラテンアメリカのホラーを書こうとしている。(ホラーというものを)私たち自身の現実に合わせ、都市伝説や民間信仰、異教の聖人地元の殺人事件……などを取り入れてイマジネーションをふくらませ、再構築する。たとえばキングの『キャリー』では学校でのいじめやキリスト教的狂信が描かれたけれど、私はああは書かない。どの社会にもそれぞれ特異性があって、私は構造的暴力、ポピュリズム、貧困、経済不安を語る……実際私は英米の作家たちの作品を別の角度から見、別の読み方をすることで、ホラーというジャンルに新しい視点をもたらそうとしている」(ウェブサイト『ラテンアメリカ・リタラチャー・トゥデイ』2019年11月4日)このインタビュー記事に、エンリケスの矜持が詰まっている気がする。本書はエンリケスの第一短篇集で、勢いにまかせて書いた奔放さも見受けられるが、そこもまた魅力になっていると感じる。

著者マリアーナ・エンリケスの経歴に簡単に触れておきたい。1973年、ブエノスアイレスで生まれたが、「ちっちゃな天使を掘り返す」や「井戸」で描かれたように、コリエンテス地方出身の祖母から伝説や迷信のたぐいをたっぷり吸収したという。その後家族でラ・プラタに移り、そこで文学とロックミュージックに目覚めた。大学はラ・プラタ大学に進み、ジャーナリズムと社会コミュニケーションを専攻する。

早くから読み始めていたH・P・ラヴクラフトやスティーヴン・キングなど英米のホラー小説の影響を受けて、自分でも創作を始めた。19歳のときに書いた、若者の暗い日常を描いた初の長篇『下りるのは最悪』が、プラネタ社の編集者でのちに作家にもなるフアン・フォルンの手に渡り、幸運にも出版の運びとなって、たちまち好評を博す。この作品はのちにアルゼンチンで映画化もされている。この頃からジャーナリストとしても仕事をするようになりパヒナ/12紙の日曜版の副編集長を務める。2004年には、やはり若者の苦悩をテーマとした長篇第二作『完全に姿を消すには』を上梓。この最初の二作品はリアリスティックな作風である。そして、あちこちで発表していた恐怖譚を集めた第一短篇集である本書『寝煙草の危険』が2009年に出版され、高い評価を受けた。さらに、2016年に出した第二短篇集『わたしたちが火の中で失くしたもの』が文学界で大評判になっただけでなく、商業的にも成功し、一気に14か国での翻訳出版が決まった。この作品は2017年にバルセロナ市賞も獲得している。

その間に、紀行作品『誰かがあなたの墓を歩く 墓地への旅』(2013)、評伝『妹 シルビナ・オカンポの肖像』(2014)などノンフィクションも手がけ、2017年には、ロック・スターを育てる妖精たちが登場する中篇『ディス・イズ・ザ・シー』を発表。これがまた素敵な作品なので、いつか紹介できればと思う。最新作は、2019年に出版された700ページ近くにおよぶ長篇『夜のこちら側』で、独裁政権時代、不死を求める巨大組織に利用され続けている霊媒である父親が、やはり同じ才能を持つ息子を組織から守ろうとする二人の関係性を描きながら、アルゼンチンの歴史、生と死、セックス(異性愛、同性愛)、権力闘争、異世界との交流などじつにさまざまな要素が詰め込まれた巨篇である。2019年のエラルデ賞、スペイン批評家賞、2020年のセルシウス賞を受賞し、「ラテンアメリカのグラン・ノベラの系譜」(フアン・パブロ・ビジャロボス)と絶賛されている。

さて、インタビューによれば、新しい短篇集の準備が進み、現在推敲中とのこと。さらには長篇にも取り組んでいると話し、アルゼンチンがすでに消滅した世界で「スーパークレイジーな」ロックバンドが活躍するダークなディストピア小説だという。あらすじを聞いただけでわくわくするではないか。どちらも期待して待ちたい。

底本には、Mariana Enriquez, Los peligros de fumar en la cama, Editorial Anagrama, sexta edición 2021を使用した。じつは2017年に出版された新版の初版にはChicos que faltan(失われる子供たち)という短篇が入っているが、これを改稿したものがChicos que vuelven(戻ってくる子供たち)で、底本にした第六版ではこちらに差し替えられている。

*  *  *

『寝煙草の危険』
マリアーナ・エンリケス 著/宮﨑真紀 訳
四六判 ・288頁
ISBN978-4-336-07465-2
定価:本体3,800円+税


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?