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【怪奇ミステリ短篇試し読み】「マチルダ・スミスの目」全文公開(『マルペルチュイ ジャン・レー/ジョン・フランダース怪奇幻想作品集』より)


『マルペルチュイ ジャン・レー/ジョン・フランダース怪奇幻想作品集』の刊行を記念して、ジャン・レーによるジョン・フランダース名義オランダ語短篇集『四次元』所収の怪奇ミステリ短篇「マチルダ・スミスの目」を全文公開します。

一般市民として生活を送りながら、その裏で独身クラブを束ねて暗躍する謎多き老嬢マチルダ・スミスと、彼女の黒い正体を勘で見抜いていたスコットランド・ヤードのベテラン刑事のウィーラー警部が、ロンドンを舞台に対決する、探偵小説的な要素を多く含む作品です。

貴重な本邦初紹介のジョン・フランダース名義の作品を、刊行に先駆けて、弊社note読者の皆様に大公開。

ぜひ、ご一読下さい!

* * *

マチルダ・スミスの目    Voor de Ogen van Mathilda Smith

 マチルダ・スミスの住まいは、バーモンドジーのどこにでもあるような通り沿いにあった。彼女はいつも控えめな身なりで質素な生活を送り、近所づきあいも丁寧で目立つことはなかった。
 スミスは朝六時にアラームがガタガタと鳴ると、しばらくしてそれを止め、新しい硬貨のようにピカピカになるまで家の中を磨き上げた。七時半になるとコーヒーを入れた。その後、ゲートウェイにあるブルーカーというパン屋で四ファージングのパン、グレードという肉屋ではチーズとソーセージ、そしてラムチョップやカルボナードと呼ばれる牛肉のビール煮込みを買った。八百屋のスマーカーではジャガイモ五百グラム、セロリやポロネギ、ミセスバックの食料品店では、バター、ラード、砂糖とスパイスなど、他に必要なものをそろえた。
 買い物を終え午後三時まで家で過ごすと、傘と古めかしい大きな黒革のハンドバッグを持って通りに姿を現した。散歩といってもめったにグランジウォークを超えることはなく、家路に着いた。
 帰宅後、翌日の朝八時まで、彼女の姿を見かける者は誰もいなかった。時計職人のリッパートは、彼女のきちょうめんさに合わせて腕時計やかけ時計を調節していた。
「あの人の時間の正確さは、ビッグベンも見習うべきだよ」と彼に言わせたほどだ。
 ミス・マチルダ・スミスの年齢は六十近くだが、白髪や頰に深いしわがあるせいで、実年齢よりも老けて見えた。
 近所の人は彼女がずっとそこに住んでいて、そこで生まれたとさえ思っていた。彼女についてよく知っているのは、同じ通りに住む最長老のリッパートくらいだった。
「彼女が来たのは三十年前のことさ」彼は甲高い声で自信を持って答えた。「しわまじりになって髪がロバ色になったこと以外、あの頃からほとんど何も変わらないね」
 バーモンドジーの人々は、ロンドンの中でもおしゃべりで詮索好きとして知られていた。だからマチルダ・スミスが未婚で、ミッドランド銀行のタナー通り支店を通して定期的に支払われるわずかな年金で暮らしているという情報は、すでに知れ渡っていた。
 ただ、いくら詮索好きな人たちでも、彼女についてわかるのはそこまでだった。
 ウィーラーはここ数年スコットランド・ヤード署で捜査局の局長をつとめ、署内では「ウィーラー警部」と呼ばれる男だ。彼はこれまで数々の事件を解決してきた。窃盗、侵入、殺人事件の数や、犯人をダートムーア刑務所や絞首台送りにした事件もあることを把握しているのは、分厚い事件簿を管理している署内の記録係くらいしかいなかった。
 ウィーラーは六十歳になり、退官しようとしたが、上層部からまだしばらく職務を続けるよう指示されていた。
 彼はこの要請を快く受け入れた。なぜなら未だ独身で、先に待ち受けるのは孤独で退屈な日々しかなかったからだ。
 数多の成功を収め、それなりの報酬を得て、国外でも名声を得たこともありながら、ウィーラーの気持ちは浮かばなかった。
 それは月桂冠の真珠が一つ欠けていたためだ。その一つ、というのは、マチルダ・スミスを証拠不十分で逮捕できない、という現実だった。彼女の名前を容疑者リストに載せることすら、かなわずにいた。
 それでも、周りからはやさしいおばあさんと思われているこの女が、平凡な暮らしを送っていると思えるその女こそが、太陽の下で歩く最も危険な人物の一人だと、ウィーラーはにらんでいた。
 証拠が全く欠けているというのに、なぜそこまでスミスの容疑に執着するようになったのか。それは物証に基づく秩序だった推論というよりも、潜在的な直感や衝動によるものだった。
 そしてこの推定は、かなり型破りな考えによるものであった。
 彼には、刑事として捜査に邁進することこそが、スコットランド・ヤード署での充実した時間の過ごし方だという信条があった。そのおかげで真っ当な刑事としてキャリアを積むことができていた。ようやく幹部職についてもなお、時折まだ雲隠れしている容疑者や彼らの陰謀を調べずにはいられなかった。
 ある日、ヤード署はウォルト・ランチの逮捕に向けて捜査官を多数配備していた。彼は窃盗、貨幣偽造、そして銀行強盗、さらに当直警官の頭部を鉄の棒で殴打した容疑で追われていた。
 ウィーラーは毎日神経質に報告書に目を光らせ、まだ見つかっていない悪党に思いを馳せていた。
 ある日の晩、彼はつば付き帽をかぶり、ツヤのある黒いレインコートを着てロンドンの街中をうろつき、おたずねものの手がかりをつかもうとしていた。
 すると、ゲートウェイとグリーン通りの角を曲がったところで、ウィーラーはランチを見かけた。
「ウォルト」彼は少しも声を上げることなく言った。「ご同行願えるかな」
 ランチは刑事が狙撃の名手で、ウィーラーならレインコートのポケットの中からでも自分を撃てることを知っていた。
「もちろんです、ウィーラーさん」と返事をした。そして彼は近くにある家に目をやると、視線を戻した。
 一秒にも満たない何気ないしぐさだったが、ウィーラーは即座にウォルトが送った視線の先を追った。
すると、カーテンの隙間から一瞬、未だかつて見たことがない、そして今後もおそらく見ることはないと思えるほど、恐ろしい目の閃光を見た。
 翌朝、ウォルト・ランチは監房の中、死後硬直した状態で発見された。
「自殺だ」検死官は結論づけた。
「いや、他殺だ!」ウィーラーは言うと、遺体の首にある小さな点を指差し、「貫通力のある針金で刺されたようだな」と付け加えた。彼の見立ては当たっていた。
 しかし、当局も彼自身にも、どうやって殺人が実行されたのか、不明のままだった。
 真相を突き止めるべく、ウィーラーはバーモンドジーのグリーン通りに赴き、近所の人がマチルダ・スミスについて知っていること、つまり彼女の件ですでに明らかになっていることを探った。リッパートは、彼女は常に青いメガネをかけていて、最近新しいフレームを彼女に届けたところだと証言した。
 ウィーラー警部は、捜査を巧妙かつ目立たずに実行した。近所の人たちは誰一人、スコットランド・ヤード署の刑事の存在に気づくことはなかった。
 捜査の過程で、彼はスミス自身が散歩しているところを何度も見かけていた。天気の良い日にはチャーチ公園のベンチで彼女の隣に座り、会話を交わすことですら成功していた。だが、話題は天気の良し悪しや、池を泳ぎ回るアヒルや古い教会がひどく老朽化しているという程度の、ありふれた話題に限られていた。
 彼女は生まれ故郷のなまりのある、耳に残る独特だが美しい声をしていた。
「私の聞きまちがいか、耳が悪くなったのかもしれませんが」とウィーラーは尋ねた。「もしかしてミドルエセックス出身だとか、マダム?」
「あなたの耳は悪くないですよ、ご主人」と彼女は答えた。「私はステーンズの近くにあるスタンウェルという村の生まれで、そこに二十八年近く住んでいました。それからロンドンにやって来たのです」
 彼女は話している最中メガネを外すことはなく、刑事を直視することもなかった。
 ウィーラーはスタンウェルに行き、そのマダムが決して噓をついてはいないことを確認した。
 話の通り、マチルダ・スミスはその村の教師の家の生まれだった。そこで、スミスの元同級生という人物とも知り合いになった。その人は彼女がまだ幼い頃から視力が悪いせいで、青いメガネが手放せなかったことを覚えていた。いつも物静かで、病気の父を死ぬまで甲斐甲斐しく看病していたらしい。父の死後、彼女はスタンウェルの村を去り、首都ロンドンに移ってきたのだった。
 スミスのことがますます気になりながら、ウィーラーはロンドンに戻った。帰宅すると、家政婦が家に暖炉用の無煙炭が届いたと言った。
「頼んだ覚えはない!」家のことに関しては細かい男、ウィーラーは言い切った。真っ先に石炭を確認しに行き、しばらくして地下室から真っ黒になって出てくると、小さな管が巧みに埋め込まれた石炭の塊を手にしていた。
「トリニトロトルエン」と分析専門の科学捜査官は説明した。「超高層ビルを吹き飛ばせるほどの量の爆薬だ!」
 数日後、ウィーラーは歩道に荒く乗り上げた車にひかれそうになったが、間一髪で逃れた。運転していたのはチャリング・クロス営業所に勤務するタクシー運転手だった。ウィーラーは不審に思いながらも運転免許証を没収し、その男を釈放した。そして、直ちにその男に対し、尾行の指令を出した。ところが同じ日の晩、捜査官たちの手をすり抜け、以降、追跡不可能となってしまった。
「煙突を抜ける煙のように姿を消した」と、追跡していた捜査官はぶつくさ言った。
「善は常に三つのもので構成されている。悪も同じだ」ウィーラーは考えた。彼はこれまでになく用心深くなっていた。
 ところが、予期せぬところで、ウィーラーはももに銃弾を浴びた。発砲したバイクに乗った男がマフラーを空ぶかしにしていたせいで、銃弾の音はかき消された。
 ウィーラーは撃ち返した。
 バイクの男は右の手首に銃弾を受け、倒れた際、歩道に頭を打ち付けた。彼は意識を取り戻すことなく、一時間後に亡くなった。
 指紋により、その男が何者かが特定できた。わかったのはピーター・ウッドコックという名前、そして少し前からヤード署では強盗と暗殺未遂の容疑で指名手配されていた人物ということだった。
 この襲撃をきっかけに、ウィーラーはこの男が謎の鍵をにぎる重要人物であるとわかる事実をつきとめた。ピーター・ウッドコックはスタンウェル出身だったのである。その村で五十九年前に生まれていた……。
「何で思いつかなかったんだ」くやしがりながら、彼はウォルト・ランチと消えたタクシー運転手の捜査を新たに開始した。
 二人はそれぞれ六十一年前、六十年前にスタンウェルで生まれていた。二人とも三十年間生まれ故郷で平穏な暮らしを送ってきた。その後、ロンドンに引っ越しそのまま独身をつらぬいていた。
「共通点を見つけないと」ウィーラーは自分に言い聞かせた。「スタンウェルの!」
 判明したのは、その村にかつて、独身クラブなるものが存在していたという事実だった。
 スタンウェルの教師、ウィレン・ジョージ・ヒューバート・スミスという男は、不幸な結婚生活を送っていた。
 人は彼のことをソクラテスと呼んだ。それは彼が哲学者だから、というわけではなく、妻がクサンティッペ並みにとにかく口やかましいイヤミな女だったからだそうだ。彼女がついに創造主の元に召されると、スミスは安堵し、自分の責務として、周囲に結婚生活というものは散々たるものだと警告してまわった。
 その使命感は授業中、生徒たちに対して婚姻の契とそれに伴う損失に対抗する力強いプロパガンダを掲げるほどだった。
 この行動は村では良く思われなかったが、G・H・スミスは頑なな男で、役所の忠告にも耳を傾けなかった。
 独身であることの至福について、堂々と主張し続けた。
 忠告は𠮟責、脅しへと発展したが彼が従うことはなく、頑固に自分の立場を維持したがために免職の処分が下され、僅かな年金で生活を送ることになった。
 スミス夫人は生前、夫や娘を幸せにするようなことを何一つしてこなかったが、自身の死後になって、初めて二人を喜ばせることとなった。遠縁のおじさんからの遺産が夫人から夫の元に渡り、年金として娘に支給されることになっていたのだ。しかしその遺産は、スミスが心血を注いだ理想のクラブ設立に捧げられた。それが、スタンウェルの独身クラブだったのである。
 設立後は一時的な特典をめあてに、何人かが入会した。結婚することを理由に短期間で退会した者もいれば、修練の期間を経て宣誓を忠実に守り続ける者もいたらしい。
 やがてG・H・スミスは病気になり、クラブの会長を務めることが悔しくもかなわなくなった。娘のマチルダは自分がクラブの手綱を取ることで、父の無念を晴らそうとした。
 彼女はクラブの会員をうまく操った。父親以上に人を説得する才能があったばかりか、会員に対して独裁的な権力をふるうこともできた。
 新規の入会者は、結婚による有害な束縛を一切受けない、と予め宣誓させられていた。
 しかし、どんな良品にも必ず欠陥がある。クラブは放置されたゴミのように、徐々に腐敗していった。
 鍛冶屋のファーガソンは溺死した。
 助手のマラーは上司からクラブを退会しろと脅され、ついに村長から免職を要求され、クラブを去った。すると彼はその後、食べた牡蠣に入っていた毒が血液にまわり、亡くなった。
 魚の行商人であったジョーンズは荷車から落ち、車輪の下に挟まって死亡した。
 測量師のジェルビーは痕跡を残さず消息を絶った。
 クラブに嚙み付いた離反者は、得体の知れない力に追い回されているかのようだった。他の会員は恐怖で心底震え上がっていた。
 その甲斐あって、残った会員はクラブの掟に忠実であり続けた。そしてこの状況はG・H・スミスが亡くなり、娘がスタンウェルを離れロンドンに移り住んでも続いたのである。
 以上のことを、ウィーラーは知った。有力な情報を得られたことにもみ手をして喜んでいた。「あの女か私!……マチルダ・スミスかジョー・ウィーラー、勝つのはどちらかな!」
 G・H・スミスが亡くなった時点で、クラブに所属していた会員の名前を確認するのは、そう簡単ではなかった。しかしウィーラーはしつこい男で知られていた。九人の名前が書かれたリストをポケットに入れてスタンウェルを去ったその日のうちに、この九人はマチルダが村を去った後、同様に村を出たということを突き止めた。
 ウィーラーはまず三人の名前を赤えんぴつで消した。ウォルト・ランチ、ピーター・ウッドコック、そしてタクシー運転手のエベネーザ・スモール。まだ六人の名前が残っていた。姿が確認できていないのは、スミスと同様、ありふれた名前ばかりだった。ベーカー、ストーカー、キング、ミラー、ウォーターズ。
 彼を驚かせたのは、最後にあったスクィアズという名前だ。
 スクィアズ! ディケンズの作品で一番の嫌われ者!
 ウィーラーはディケンズの愛読者だった。特に『ニコラス・ニクルビー』に関しては、全文を暗唱するほど読み込んでいた。物語に出てくるスクィアズという名の男は、寄宿学校の忌まわしい経営者、そしておぞましい児童虐待者であったため、その本が出版されると、同じ名前を持つ人は改名すべきだと訴えたほどだった。
「彼は一体何者なんだ、まさか本当にあのスクィアズなのか?」
 名前に当惑したスミスは、昔からスタンウェルに住む人々に尋ねると、年老いた庭師からすぐに有力な回答を得ることができた。
「もし彼がまだ生きているなら、六十を過ぎたあたりの年頃だろう。体が不自由な醜い小男だが、そんなやつにも知能はあってね! 教員免許を持ってたんだ。でも性格が悪いせいで定職につけずにいた。少なくともこの村ではね。彼がどうやって生計を立てていたのかは知らないが、算数や音楽なんかの家庭教師でもやってたんじゃなかろうか」
 ウィーラーはこの件についてしばらく考えた。
「私だったら、何があっても自分をスクィアズと名乗るようなことはない。不吉な名前は人格にも影響を与えるからね。『ニコラス・ニクルビー』のスクィアズはヨークシャーのどこかに寄宿学校を開いた。そして恐ろしい児童虐待者として文学史に名を刻むこととなった。遺産横領の罪で七年間、牢屋に入った人物としても知られている。もしスクィアズが実在の人物だとすれば、ディケンズの描写にあったように、きっとこの地で鄙びた寄宿学校の校長でもやってるだろう」
 この考えは根拠のない推測かもしれないが、直感からくるものだった。
 彼は引き続き根気のいる捜査を続けたが、悔しいことに、スクィアズを見つけ出すことはできなかった。たどり着いたのは、ルイシャムにいる年老いた靴職人だった。その男は、自分の名前がスクィアズなのかスクィアトであるのかですら、おぼつかなかった。
「そもそも、本名のままで暮らすなんてことがあるだろうか」刑事は考えた。「スクィアズという名の教師のいない寄宿学校であっても、自分たちの目で確かめないと!」
 ウィーラーは直ちに優秀な捜査官たちを動員した。すると、若手の捜査官が手がかりをつかんだ。
「自信はないのですが」と彼は尻込みしながら言った。「正しいのかどうか、でも共有するだけの価値はあると思いまして。カムデン通りに、厳しい規律で知られる男子の寄宿学校があります。そこでは学費は毎月しっかり支払われるが、親に見放された子供たちが預けられています。建物はそれほど不潔ではなく、むしろきれいに色が塗られ外観は気品さえ漂っています。特にグレイヴ博士という名の理事が亡くなって以来、状況が改善されているようです。今は彼の妻が理事の座を受け継いでいます」
「妻?……つまりグレイヴ博士は独身ではなかった?」
「そうなんです! 彼は長年独身だったそうです。でも、結婚生活はすぐに終わってしまいました。ハネムーンの最中、キングストンでバイクに轢かれて亡くなったのです」
「そうか!」ウィーラーは、翌日カムデン通りに住むグレイヴ博士の未亡人を尋ねた。すると、決して感じが良いとは言えない夫人が、ウィーラーを出迎えた。
「奥さん、遺産相続の件で参りました」彼は噓をついた。「あなたは旦那さんが残した遺産を一部しか受け取れていません。かなりの高額になりえますよ!」
 グレイヴ夫人の顔は青ざめた。
 ウィーラーはミッドランド銀行からスミスに支払われている年金と関連づけようと、さらに大胆な噓をついた。
「彼がそんなに金持ちだとは、私たちも知らなかったんですがね! ミッドランド銀行だけであれほど……」そう言ったところで一瞬、手帳を見て何かを確認するふりをした。
 グレイヴ夫人はまんまとそのわなにひっかかった。
「あの人からは決して話題にしないよう、ずっと言われていたんです。そして受け取るなんて諦めないといけないと思ってきました。どうすれば、あの五万ポンドもの大金を手にすることができるかわからなくて」
「えーっとですね……」ウィーラーは口ごもった。「ちょっと問題がありまして。実はその金は別の名義で預けられているのです」
 夫人は泣き崩れた。
「結婚直後に初めて聞いたのです」彼女はすすり泣いた。
「確かに、グレイヴとスクィアズでは全然違いますからね」とウィーラーは優しく言った。
「ええ」彼女はすすり泣いた。「でも、なぜ名前を変えたのでしょう? 彼はその理由を一度も教えてくれませんでした」
「お教えしても良いですが」とウィーラーは言った。またディケンズのことを思い出していた。「本名なんて結局のところどうでもいい話です。それよりも教えてください。彼はあなたにある女性の話をしませんでしたか……ああ、何という名前だったか……」
 彼女はしっかりと頭を横に振った。
「一度も。あの人は内向的で、とてもまじめでしたから……結婚する前は、快活な人間だったんですよ。でも結婚した途端、突然野うさぎのように内向的になって、常に何かを恐れているかのようでした。特に眠っている間。何か残酷な緑の目のことをつぶやいているのを聞いたことがあります」
「そうでしたか」ウィーラーは再び考え込んだ。そして別れの挨拶をしながら、彼はスクィアズの名前をリストから消した。
 ベーカー、ストーカー、キング、ミラー、ウォーターズ……干し草の山から針を探すような作業だ。そして三十年の間にこれだけのことが起こり、変化してしまう。
 ウィーラーは新しい出発点を模索するなかで、後年のスクィアズ—グレイヴが持っていた莫大な財産が一つの手がかりとにらんだ。
 スクィアズは自分の寄宿学校とは全く無関係に、もうけの良い商売をしていた。銀行には相当のたくわえがあるようだった。
 問題は、誰が彼に手を貸していたのか、だ。
 いずれにしても、彼は独身クラブの会員だったが、入会して三十年後に宣誓を破った。そして、ハネムーンの最中に亡くなった。ファーガソン、マラー、ジョーンズそしてジェルビーのあっけない最期のように、それは罰、目に見えない戒律を破ったことへの制裁のように思えた。マチルダ・スミス以外に、この厳しい法を守ることができる者はいたのだろうか?
 ここまで突きつめてもなお、証拠が欠けている。バーモンドジーのグリーン通りに住む「物静かな女」は、自分には一点の疑義もないかのように暮らしている。
 ウィーラーは渦巻く思考、見解、見通しの只中で盲目の男を演じさせられているような気分だった。悪魔にけしかけられているかのような感覚と言ってもいい。「そう、我々には確かな手がかりはある。しかし確かな証拠がない。そしてこの証拠がなければ、罪人を吊るし上げることもできない。牢屋に一時間も閉じ込めておくことだってできない」
「もし生存者が私に手を貸してくれないなら、死人の手を借りるしかない」こう考えたウィーラーは、記録係のドラムに会いに行った。
「考えがある、ドラム。エベネーザ・スモールというタクシー運転手のファイルをチェックしてくれ。私を轢きかけたやつだ。そいつが過去に同じようなことをやってないか、確かめてくれ」
 ドラムが記録を確認すると、十年前にその男はジョナス・ミラーを死亡事故に追いやり、出頭していた。しかし弁護人の力で無罪の判決を受けていた。ロンドン法曹界で最も敏腕で切れ者と言われるその弁護人は、事故は過失によるものだと数式のように厳密に証明してみせたのだった。
「ミラーだと?」と刑事は顔をほころばせた。「ドラム、もう少し詳しく教えてくれないか?」
「五十歳、裕福な男でハムステッドの地主。そして、その哀れなやつの結婚は三週間ともたなかった……」
 ウィーラーはミラーの名前をリストから消した。
「スモールがつかまらないのは残念だ」彼はつぶやいた。「やつについてもう一度調べさせてくれ!」
 しかし、その時は思わぬ形で訪れた。
 黄昏時。辺りにもやが立ち込めたかと思うと、それは瞬く間に霧へと変わった。
 ウィーラーは上機嫌だった。謎多きスミスを取り囲むように円を描き、その円は彼女にせまっていると信じていた。
 スコットランド・ヤード署の建物を出た時のことだった。低い霧の中から車が現れ、ゆっくりと歩道沿いに停まった。窓の小さなダイムラー社製の大型車だった。窓の一つが開いたかと思うと、黒いマシンガンの銃口が突き出てきた。
「ラック──タック──タク!」
 ヤード署の赤レンガの外壁から土埃と共に砕石が飛び散る中、ウィーラーの帽子がふわりと舞った。刑事が歩道に倒れると、銃口の煙がその後に続いた。再び、耳の横を銃弾が飛んできた。
 キャノン通りを暴走するバイク集団が同じタイミングで通り過ぎたおかげで、銃撃はそこで止んだ。
 ダイムラーの車は宙を舞ったようだった。エンジンが威勢良くかかり、矢の如く霧の中へと消えていった。
 すぐに六台のバイクが銃を向けて車を追ったが、追跡は長く続かなかった。チープサイドで車はジグザグに走り始め、耳をつんざくような音とともに霧の中、見えない壁に衝突した。
 車輪の前で手が動いていたが……少しすると止まった。警官が再び発砲すると、手はだらんと落ちた。
「冷たい人体しか見つからないな!」捜査官は遺体に近づきながら笑った。
 ウィーラーは胸に銃弾が撃ち込まれた遺体がある現場にやって来た。
「このサテュロスをご存じですか、警部」
 ウィーラーはその人物を知っていた――エベネーザ・スモールだった。
「皆に深く感謝する」と言った。「しかし、もう息がないのは残念だな。少しでいいから話を聞きたいと思っていたんだが」
 彼はリストを取り出すと、スモールの名前を赤線で消した。
「女の人が警部に面会したいと言って来ています」ある刑事が言った。「マチルダ・スミスさんという方です」
「何と?」ウィーラーは叫んだ。
「マチルダ・スミスさんという方です」刑事は表情を変えずに繰り返した。
 彼女はオフィスに入ってきた。古めかしいハンドバッグを手に下げ、青いメガネをかけて傘を持って入ってきた。傘を慎重に部屋の隅に置くと、デスクの前に腰かけた。
「私たちの件を解決しに参りました、ウィーラー警部」彼女はやさしい、感じの良い声で言った。「服役しようと思いまして」
「あなたを逮捕するにもその証拠がないのです」ウィーラーは真摯に対応した。
「自白でも証拠になるかと思ったのですが。お話ししてもよろしいでしょうか。一気にお話しします。邪魔されたくありませんので」
 ウィーラーはうなずいた。
「あなたを痛い目に合わせようとは思ってません、刑事さん、むしろその逆です! あなたのように完璧な独身の方に、私は当然のことながら共感を覚えています。あなたは一員になれたのです……私たちの。でも、それはお断りです。私を捕えるのが勝利だ、というお気持ちなのですから。今からお話ししようとしている全ての出来事の意味を聞かなければ、あなたは私に何の感情も抱かないままでしょう。この件は、とにかく私を捕えれば終わりだと思っているのです。要点を申しましょう。あなたは勘のいい人です。その点では私たちは似た者同士と言っていいでしょう。あなたがグリーン通りで不注意なウォルト・ランチを逮捕した時、マチルダ・スミスという人物に特別な意味を見出していることを、私は察知しました。それ以来、私はあなたの言動を追い、近くで行動し、知っておくべき情報は全て耳に入れていました。あなたはスタンウェルの独身クラブがどういったものなのかご存じのようなので、あえて説明はしません。しかし、わかっていただいてないのは、大事な父がクラブの退会者が出るたびに味わってきた苦しみです。私は彼を苦しみから少しでも解放してあげようと決意しました。
 ですからクラブを引き継いだ後、自分の手で処刑していったのです。わかりますか」
「ファーガソン、マラー、ジョーンズ、ジェルビー」ウィーラーは墓石に並ぶ名前を読み上げるかのようにつぶやいた。
「ジェルビーは深い沼に沈めたので、見つかっていません。詳細は省きます。父が死ぬ間際、私はクラブを存続させることを誓いました。ご存じの通り、会員は一定の物理的な特典を享受していました。父の死後、私は会員にその継続を約束することができなくなっていました。ですから、私はスタンウェルを出てロンドンに住みついたのです。私は会員を招集し、宣誓を守ることを誓わせ、何かあればすぐに連絡すると伝えました。私は考えました。昼も夜もずっと……こんな私にも知恵が備わっていたようです。そしてある日、アルキメデスのように〈エウレカ(わかった)!〉と叫びました。やっとどうすれば友人たちの物理的欲求を満たし、忠誠を継続させられるかがわかったのです。私はロンドンに招集しました。九人を……」
「あなたの指揮のもと、九人が犯罪者になったではないか」ウィーラーは唸った。
「お察しの通り、警部。お察しと言うのは、ご自身がどれだけ立派な推理をしたとご慢心か知りませんが、そこ止まりだということです。彼らは単純で能なしでした。でも、だからこそ私は九人もの男を操れたのです。決定権は私だけに委ねられていました。彼らには潜在的な知恵や能力を一切使わせませんでした。ただ、私の命令に__従ってさえいればよかったのです」
 ここで彼女はひと息つくと、話を続けた。「綿密な計画のもと、遂行した最初のミッションは、デリーの汽船での金塊強奪でした」
「なんてこった!」ウィーラーは叫んだ。それは彼が完敗を認めた数少ない事件の一つだったからだ。
「あれは大胆な作戦でした。仲間は一人当たり一万一千ポンドの銀貨を受け取りました。それで皆、不自由なく暮らすことができるようになりました。宣誓があるというのに、質素倹約までも強いることなんてできません。
さらに、シャーウッド&ブロンクス銀行の金庫も空にしたのです」
「あなたはさぞかし裕福なんでしょうね、スミスさん」ウィーラーはつぶやいた。
「裕福?」彼女は反論した。「とんでもない! 私は手にしたお金を一セントも受け取ってません。私がわずかな年金で暮らしているということは、生活ぶりからもご存じでしょう。私は任務で得た金には手を付けず、仲間に渡しました。それでも銃だけは手元に置いて、……家事をしている時以外、私は常に頭で考え、夜更けまで考え続けていることもよくありました」
「なぜだ?」ウィーラーは尋ねずにはいられなかった。
「まだわからないのですか、警部殿?」彼女は嘲るように言った。「私はただ、男たちに宣誓に完全に忠実であってほしいと思ったまでです。貧しいままでいたら、特にロンドンのような街にいたら、うまくやっていけないでしょう。そして父のライフワークを継承することで、父との思い出を守りたかったのです」
「なぜ私に洗いざらい話す」ウィーラーは叫んだ。「自由を満喫していた、というわけでもないようなのに」
「そんなこと、私にはどうでも良いことです、警部殿。私は図らずも偽証罪を犯しました─ ミラーとスクィアズに対してです。そして私にはたった一つの罰しか残されていません。それは死です。私はあなたに対して対策を講じなければなりませんでした。いずれ、あなたが私たちの前に立ちはだかることはわかっていたのです。私は二人の男に指令を出しました。これで、二名の死者の意味がわかるでしょう――ウッドコックとスモールです。
 彼らは今、地下で眠っています」
「手元に人殺しがいなくなったから、駆け引きの館の扉を閉じたということか」ウィーラーは笑った。
 彼女はゆっくりと頭を横に振った。
「全くもって違います。もう一つ理由があるのですが、それは後ほどわかることでしょう。ランチとウッドコックの死に関しては、私は安堵さえ感じています。なぜなら私が厳命を出しても、二人は我流で乗り切ろうとして、警察にも目をつけられていました。二人とも手に負えない男たちで、賭博台で大枚をはたいていました。ランチは私に助言を求めに来ました。会員にはグリーン通りに姿を見せることを厳しく禁止していたのに、あなたが彼を捕えた時、彼は通りに出て来てしまいました。あの男はその場しのぎで絶望していました。そういう人間は、問い詰められれば罪を告白します。ですから、私は彼を死刑にしたのです」
「どうやって」とウィーラーは尋ねた。
「とても単純です。ロンドンの各所に口の堅い男がいます。共犯者、と言いたいところかと思いますが、毎年結構な額で雇っている男がいるのです。ウォルトを捕えるにはあまり時間がありませんでした。だから殺すしかなかったのです。その方がずっと簡単でしたので」
 彼女は一瞬だまり、深くため息をついた。
「あなたはスモールも捕えましたね」彼女は続けた。「あの男が罪を受けたのは、自分の意志で動いたためです。
私なら、あなたの命なんて狙ったりしません。スモールはもう死にました。命なんて私にはあまり価値のないものなので、ウィーラー警部……私はエベネーザ・スモールのことがずっと好きでした。彼も子供の頃から私のことを愛してくれていました。でも私たちは二人して自分たちの宣誓に縛られ、彼に破らせようとも思いませんでした!」
 ウィーラーは言葉を失い、その場で座り込んだ。
「彼はただ一人」彼女はすすり泣きしながら言った。「あの……あの人だけは……私がメガネを外した時に震えなかったのです!」
「あなたの目……」ウィーラーは言おうとすると、すぐさまスミスはその言葉をさえぎった。
「ですので、私は服役します。私の犯罪を示す証拠を確実ににぎっておきたいと言うのなら、ここに署名した手紙があります」
「あなたの仲間は? 独身クラブに残された会員はどうするのですか?」
 彼女は肩をすくめた。
「私が死ねば、クラブは自然消滅するでしょう。すでに私の死は差し迫っています。私を裏切り者だとは思わないでください。ウォーターズは十五年前に全く自然なかたちで亡くなりました。まだ生き残っているのは、ベーカーとストーカーだけです。彼らは裕福なので世界のどこかで、別の名前を使って新しい人生でも送っていることでしょう。そうでなければ、捕まるのも時間の問題です。あまり賢いとは言えない人たちなので。キングは頭がおかしくなってしまいました。ベドラム精神病院で、週に二回拘束衣をつけさせられています。警備員の気を引こうとしているらしいです」
「なぜおかしくなったんだ?」ウィーラーは尋ねた。すると、彼の目の前に突然光が差し込んだ。
「彼はある尻軽女に引っかかって、結婚しようとしていました。キングは父のお気に入りでしたので、私も彼のことが好きでした。父の元教え子だったんです。私は彼に警告した上で、これまでの自分に課してきたルールを初めて破り……メガネを外しました。すると、彼は気がふれてしまったのです」
「はずせ!」刑事は命令した。
「本気で言ってるのですか?」
「当然だ!」
 スミスは慎重にメガネに手をかけた。
 ウィーラーは恐怖の声を上げ、目を背けた。
「お願いだから、メガネをかけてくれ!」彼は唸った。
 二つの恐ろしい、虎のようにどう猛な緑色の目が、彼に向かって閃光を放った。
「母からの遺産です」彼女は悲しげに囁いた。「でも、母は私ほど酷くなかったのですよ」
 ウィーラーは額に汗を感じた。震えながら、彼女の目から出ていた何とも言えない洗脳力を持った光線が一体何なのか、考えた。そしてようやく、彼女がどうやって十人もの真っ当な人間を罪人に仕立て上げることができたのか、理解したのだった。
「ウィーラー」刑務所の医師が言った。「もしマチルダ・スミスを死刑にしたいなら、急がねば。彼女の心臓は日に日に弱っている」
「捜査報告書を仕上げて法務官に提出するまで、最低六か月は必要だ」ウィーラーはうそをついた。
 マチルダ・スミスは四か月後、心臓まひで亡くなった。
 少しして、ウィーラーはスコットランド・ヤード署を退職した。同僚が催した盛大な送別会の最中でも、彼の表情は浮かなかった。
 警察の力ではかなわないことがある、ということを理解したのだ。

(井内千紗訳)

* * *

本書にはこの「マチルダ・スミスの目」を収めた短篇集『四次元』から、他にも、
「自動人形に宿った死刑囚の魂の怪」
「奇妙な逃亡呪術を用いる殺人犯を追う刑事の話」
「顕微鏡の中に現れた老人の化物の話」

といった、強烈・濃厚・奇怪な内容の、怪奇幻想・ミステリ・SF短篇を16篇収録しています。
怪奇幻想小説愛好者の方はもちろん、ミステリ・SF読者の方にもおすすめです。

ぜひ、お近くの書店店頭・ネット書店・弊社HPなどでご予約下さい!

マルペルチュイ
ジャン・レー/ジョン・フランダース怪奇幻想作品集

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