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「応援」とか「アドバイス」とかって正直どうよ?


美術をやってます。
ぼくです。


冬の装い 自己紹介


この業界はまあ飯が食えない。
仕事の掛け持ちなんかざらだ。
僕に関しては昼と夜でそれぞれ別々の肉体労働の現場に行ってなんとか食い扶持を確保してる。とは言っても労働時間をトータルすると週40時間前後くらいなので特別多く働いてるわけではない。

仕事をひとつに絞ったほうがいいように感じるかもしれないが、作品の締め切り前の勤務時間を減らして作品制作に時間を当てたい時にもともと仕事を半々に分散していたほうが何かと休みがとりやすいという現実的な事情があるので今はあえて複数の職場に所属するスタイルをとっている。

それでもまだ美術に関して少しでも収入があればやりがいとか感じるんだろうけど収入どころかむしろお金を払って作品を出品しているのが現実だ。食い扶持を稼ぐための仕事を休み、お金を払って作品を出品している。
(自分で選んだ生き方なのだから文句を言うな、という言い分に関してはデウスエクスマキナという論点逸らしの論法になっちゃってるので無視するね)

そんなぼくの窮状を知ってか知らずか善意で「応援」をされることがある。

この「応援」をされるのがつらい。
善意で応援してくれてるのになぜ?と思うかもしれないが善意だからつらい。

「応援」の内容は大きく分けて2通り。
ひとつは文字通り「応援」をされるパターン。頑張ってくださいとかね。

もう一つは「~をやってみたらどう?」とアドバイスをされるパターン。
例えばSNSだったり通販サイトだったりをやってみたらいろんな人に見てもらえるかもよ、といったものだ。
このアドバイス型の応援、これがつらい。

なぜアドバイスをもらうことがつらいのか、理由は単純に「そんなもんとっくに試しとるわ」だから。

pixivFANBOXとかcampfireとかいろんなサイトを試したけど結局もともと知名度のある人でないと集客が難しいんよね、あれ。
※ちなみに言われたらきついものランキング堂々の一位は「Instagramやってみたら?」

言葉悪いけど応援というのはつまるところどこまで行っても「弱者を応援している自分」に酔うための自己完結な行為にしか見えない。自己満足なのは全然いい、やらない善よりやる偽善という言葉もあるくらいだ。自己完結なのがきつい。なぜなら自己完結はやらない偽善だから。

だからぼくは本当に人を応援したい気持ちがあるときは「具体的な何かを依頼する」ようにしている。お金に余裕があるときはギャラの発生すること。お金がないときは対談記事でもなんでもいいから相手にとって負担にならないこと。自分のやっている作業に相手を巻き込むということを意識している。本当に応援するんだったら、その気持ちがあるんだったら、その相手を巻き込んで行う何か行動を起こすべきだと思う。それができないなら応援じゃない。自己完結のお気持ちポエムだ。

言葉だけの応援なんかいらない。言葉が先行するタイプの人は例外なく作品は買わない、仕事を依頼しない。自分でやると言ったことを途中で投げ出していく。思わせぶりなことを言って結局約束したことを何も実行せずに消えていった。なぜなら言葉による応援自体が自己完結だからだ。言葉にした時点で完結、終了しているから。
同様に「~してみたら?」は応援じゃない。「私はこういう企画を立てた、だからお前も参加しろ」これが応援だ。
アドバイスはするな、自分が何かを始めろ、それに相手を巻き込め。


やってみたら?はもうやってんの


生きることで精いっぱいです。