楽しむって何_

「楽しむこと」がそれほどモチベーションにつながらないぼくがどうモチベーションを持ち続けているかの話

絵を描く人です。よろしく。

まずはじめに、物事を自然に「楽しむこと」ができる人、「楽しむこと」に抵抗がない人にはこの記事はあまり響かないかもしれないことを述べておきます。あしからず。

今は画家としては準「引退中」だが一応まだ準「現役」ですので「絵を続けている」体で話をさせてもらう。

唐突だが、私は専門である美術をはじめ、将棋やスポーツ、古武術などの異なる趣味や関心事がある。その中で、

「うまくなる、強くなることばかりに囚われていないで楽しむことを忘れないで」

こんな言葉をよく耳にする。

皆さんの中にもスランプ中にこの言葉をかけられた経験がある人もいるんじゃないだろうか。

もしかしたらこの言葉をかけている側の人もいるかもしれない。

つまるところ私はこの言葉が実はあまり好きじゃない。妙な違和感を感じるからだ。

以前は(特にスポーツの世界では)「結果が全て、楽しむことは甘え、過程には意味はない」みたいな思想の方が一般的だったが、今では「楽しむことの方が大事」という思想がむしろ常識となっているのではないか。

誤解されないように言っておくけど「うまくなること」を放棄して「楽しむこと」は甘え、みたいなストイックな意味では全くない。そこはむしろ真逆だと言っておく。ストイックとはただの自己完結型の快楽主義だ。自己完結型の思想に共鳴するものはさほどない。

私が気になるのは下記の点だ。

・「うまくない」「強くない」状態で果たして楽しむことなどできるのか?

・「うまくなること」より「うまくないけど楽しむこと」の方が実は難しいんじゃないか?

・「楽しむこと」は良いことだと思い込むあまり無理をしてでも楽しもう、としていることこそ何かに囚われているということではないのか?

つまるところ何よりも「楽しむこと」の方が重要、みんなもそうでしょ?という思想が前提になっているのがあまり共感できないのである。

「うまくなること」に囚われてモチベーションを持続できずにやめてしまうよりは「楽しむこと」をモチベーションにして少しでも長く続けられた方が価値がある、というのはわかる。

わかるんだが、わかるんだけど、


とにかく私が違和感を感じるのは「楽しむこと」それ自体が本当にモチベーションに通じるのか?むしろ「楽しむこと」に囚われて「うまくなること」自体を楽しめなくなっているのではないか?

少なくとも私にとって「うまくなること」より「楽しむこと」がそれほど重要ではないし「楽しむこと」がモチベーションにはあまりならないのだ。

楽しもうとすることが割としんどいのだ。

楽しんでいることばかりが伝わってきて中身が追い付いていない作品やスポーツのプレーを見るのもそこそこしんどいのだ。

プロ、あるいはプロ志望としてやっている人と趣味でやっている人とでは当然動機やモチベーションは違ってくるだろう。その点も踏まえた上で私はやはりあまり「楽しむこと」に重点を置くことができないし、他人にも「楽しむこと」を勧める気にはならない。だって自分自身そこまで楽しんでないから。

私は高校生の頃から10年以上いわゆる趣味の絵ではなく本格的に絵を描いてきている。時間に換算すると3万時間くらいだと思うが、

もちろんその間、絵を描くことに喜びを感じる瞬間もあったし、いわゆる楽しい瞬間もあった。が、圧倒的に面倒くさい時間の方が長い。だるい。金がない。キャリアにも何もならない。つまんない。努力無意味。

周りの同世代の人間は仕事でもキャリアを積み、私生活でも自分の家庭を築くなどしている中、何にもつながる気配のない「絵を描く」ことの動機が「楽しいから」で何年も何年も続けられるわけがない。

自分でもなぜ続けているのかよくわからないくらい楽しくない時間の方が長いのだ。本当に何で続けてるんだろう。

ここからはごくごく私観的なことを書く。

重ねて述べるが私は絵を描いている。そこには喜びもあるし楽しい瞬間もある。しかし圧倒的にそうでない時間の方が長い。そして私自身、絵を描くこともそれ以外の趣味も、それほど楽しむことを重要だと思うことができない。「楽しむこと」は無意味ではないが他の何より優先すべきこととまでは到底思えない。

ではなぜ続けているのか。これにはシンプルな答えがある。

美術、将棋、スポーツ、古武術、思想、哲学、政治、社会、・・・

などなど、さまざまな異なるジャンルの教養に触れていると、たまに自分が理解できるレベルのちょっと上くらいの程度の「知」に出会うことがある。そのちょっとだけ背伸びが必要な「知」と「知」が点と線になって不意に繋がる瞬間があるのだ。まったく異なるジャンルのものなのだから本来触発し合うわけがないのだが、なんというか、無理やりたとえるなら脳みその同じ部分を刺激されている感覚。共通のアンテナが刺激されることでまた新たな全く異なる点と点が線になっていく予感があるのだ。

そうしているうちにふと、背伸びしても理解できないレベルのものに出会うことがある。

今の自分では到底追いつけないがその凄さだけは漠然と感じることができる、そんなものがあるのだ。


たとえば将棋棋士の羽生善治の伝説の銀捨てであったり

たとえばアルゼンチンの男子バレーボール代表ルチアーノ・デ・セッコの芸術的セットアップであったり

たとえば古物研究家の甲野善紀の体捌きであったり

たとえばイギリス国営放送BBSによる世界一厳しいとされる戦線の戦場取材であったり

ジャック・ラカンの「精神分析」であったり

ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」であったり

カラヴァッジョであったり、クリムトであったり、ミュシャであったり、ヴァロットンであったり、伊藤若冲であったり、鴨居玲であったり、石田徹也であったり、

そういった「ちょっとの背伸びでは追い付けない次元の高いもの」に出くわす瞬間がある。そしてその次元の高いもの同士がまた点と線になりつながっていく。異なる分野の「程度の高いもの」に触れ自分の中のアンテナの感度が上がっていたことでまた別の「程度の高いもの」のその程度の高さに気づくことができたわけで「程度の高いもの」のどれか一つと出会っただけではおそらくその面白さやすごさに気づくことはできなかったと思う。

そしてその「背伸びをしても追いつけないレベルの高いもの」に出会うためには「背伸びをすればギリギリ追いつけるレベルのもの」に出会っておく必要があったことも自覚している。

その点と点が線になる瞬間、それは確かに面白いと感じるし、いわゆる「楽しい」瞬間でもある。ここへきてようやく「楽しむこと」につながって来た。長い旅だった。

「音楽には国境はない」「スポーツは国境を越える」みたいなことを言う人がいるが、実際文化というものは圧倒的に脆弱なものである。とある戦場ジャーナリストの方の言葉だが「オリンピックのような世界レベルの大会を見ても何も感じなくなった」「内戦中の某国の国民は自国のサッカー代表選手には何の興味も関心もない、代表選手は独裁政権側の人間から選出されるから」というものがあった。世界最高峰の文化、スポーツの祭典であってもその本質は「安全な場所にいる人間のエンタメ」の域を出ていないことを痛感させられる。であるにも関わらずなぜ業界の中でもさほど居場所があるわけでもない底辺の私がどうして「楽しむこと」をモチベーションにできようか。

これは自転車の乗り方のようなものなので一度この「楽しもうが楽しまなかろうが芸術は無力」という感覚が芽生えてしまったら純粋に楽しんで続けるというのはとても難しいのである。このじゃじゃ馬自転車の乗り方を覚え切ってしまう方が早いわけだ。

少なくとも現時点では「絵を描くこと」=「楽しむこと」という構図は私にはあまり当てはまらないし、作品を一番に見せたい誰かがいるわけでもないし、誰かのために描きたい、誰かを喜ばせたいという願望もない。

「背伸びをすれば理解できるもの」同士が点と線でつながり「背伸びをしても理解できないもの」へとたどり着いた経験を自分自身がさせてもらったように、

自分の作品が、思想が、どこかの誰かにとっての「背伸びをすれば理解できるもの」になりそのどこかの誰かのアンテナを覚醒させる一助になれるのならその時は私にとって絵を描くことが「楽しむこと」の一端になるのかもしれない。ならないかもしれないけど。それならかろうじて私にとっては何かを続ける動機になるのかもしれない。


※具体性のない「どこかの誰か」っていうのは往々にして「自分」のことを指しているんだろうけどなー・・・(´ー`)

生きることで精いっぱいです。