京都のニワトリに思いを馳せるぼく

京都で羽ばたけなかったぼくが京都のひな鳥たちに勝手に思いを馳せる

季節は雪の舞う頃のこと。私は決まって毎年京都に足を運ぶ(毎年とは言っていない)。

目的はあるものを見るためだ。

みなさんは「卒業制作」という言葉を聞いたことがあるだろうか。卒業論文ならピンとくる人も多いだろう。「進捗どうですか?」と問われ白目になりながらもなんとか書きあげた記憶のある人も多いだろう。

卒業制作も基本的には卒業論文と同じで、主に美術系学部の学生が卒業に必要な単位をもらうために論文ではなく作品を作り提出するのだ。この作品のことを卒業制作という。卒業制作の審査が終わり作品を美術館なり学内なりで展示するのだがこれを卒業制作展、略して卒展と言う。

京都のとある芸術大学の卒展を見るため、それが私の京都に足を運ぶ理由である。


卒業制作の制作テーマは基本的に自由なので四年間の集大成と呼ぶにふさわしい大作から卒業に必要な単位をもらうためだけに作ったやっつけの作品まで出揃う。

まさに玉石混淆。

それぞれの学生がどのような学生生活を送ってきたか、それが作品に直接的な形となって現れる。そこがいいのだ。


ここでひとつ注釈がある。「卒業制作展を見るために京都に行く」と述べたが厳密に言うと少し違う。

その京都の芸大の展示の特徴は学部一年生から大学院修士、博士まで在籍する全ての学生、院生の作品を展示するのだ。ということで卒展ではなく「作品展」と名乗っている。

そして私が主に目当てにしている作品は実は学部四年生の卒業制作や大学院生の修了制作の作品では無い。
美術学部一年生の日本画専攻のニワトリの着彩(あるいは野菜の静物画)の課題作品があるのだがそれを見ることが私が京都まではるばる足を運ぶ理由だ。


関西随一のレベルを誇る芸大の学生とはいえなぜ一年生の作品を見るためにわざわざ京都まで行くのか。それについて話す前にここで(くっさい自分語りにならない程度に)自分の経歴を話す必要がある。


受験生時代

私も受験生時代はこの京都の芸大を目指していた。芸大の受験というのは他の大学受験と異なりだいたい実技試験がある。この実技試験というのは通常の高等教育の美術の授業では到底カバーできないくらい専門特化されたものなので対策をするために大半の受験生は現役浪人問わず芸大受験のための予備校に通学する。

私も例に漏れずそうだった。

芸大の実技試験の傾向は関西と関東で大きく異なり、特に京都の芸大の試験傾向は他芸大のそれと比べてもかなり特徴的なので「京都の」芸術予備校に通わなければ対策が難しい、という現実があった。

中国地方のとある片田舎にある私の地元はそもそも芸大受験のための予備校自体が存在せず芸大受験に関するあらゆる情報が入ってこなかったため、まず受験に適した予備校を探すための作業から難航が強いられた。高校の美術の先生に「こういう予備校がある」と教えてもらった京都の予備校に高校在学中から定期的に通うことになり他の受験生とともに日々デッサンをはじめとした基礎訓練に精を出していた。

日本中から腕に覚えのある猛者たち、恐らくは各高校、各地方で「天才」「将来はピカソ?」とか言われてきた面々である。そういった現役生、浪人生が同じ教室でしのぎを削るのだ。

私は最初の受験で失敗し浪人生活が始まってからは新聞配達のバイトをしながらお金がたまったら京都まで授業を受けに行き、また地元に戻りバイトをするという生活をしていた。
一浪目の受験をめでたく(?)失敗したのち私はもう一年浪人することを希望したが、予備校に通うお金が無かったことなど家の事情で滑り止めの一般総合大学の中にある芸術学科に入学することになった。

実際にその大学に通って約ひと月、目指していた芸大との学生の技術力、意識、全てにおいてのレベルの差に絶望を覚えた。大学に籍だけ置き、親にも内緒でひそかに仮面浪人をすることを決意するには十分すぎるほどの絶望だった。

朝、新聞配達のバイトをした後電車に揺られながら京都まで向かった。籍を置いていた大学は関西地方にあったのだが京都の予備校までは片道2時間かかった。立ちながら寝たこともある。隣のサラリーマンに見事な頭突きを食らわしてしまったこともある。ひと月で10キロやせたこともあった。それでも良かったのだ。希望する未来へ向かって進んでいるという実感があったから。

しかしこちらは自分で貯めたバイト代から捻出して授業料が払える分だけの講習しか受けられない身。毎日通学している他の受験生たちに食らいついていくのは容易ではなかった。

案の定、と言うべきか私の浪人生活は失敗という結果で幕を閉じた。

ドラマチックなことなどは特に起こらず、サクッと試験本番を迎えてサクッと落ちた。現実とはそういうものだ。

予備校の仲間たちの大半は第一志望である京都の芸大、あるいはそれに準ずる私立芸大に合格しそれぞれの進路に羽ばたいていった。

予備校の先生や受験仲間らは「どこに行っても君のストイックさならきっと上手くいく」「どこに行くかなんか関係無い、何をするか自分次第だ」と私を励ましてくれた。しかし、他の大学受験と異なり芸大受験に落ちるということは実技試験で落とされたということ。美術を志した人間が美術の実力で「君はいらない」と言われるということなのだ。文字通り自分のやりたいことをやって「負け」を宣言されるということ。二十歳前後の若者にとってそれがどれだけ重大なことか想像に難くないだろう。
私は負けたのだ。


学生時代

励ましの言葉を真に受けたわけでは無いが、四年間脇目も振らず、といえば嘘になるが年間355日くらいは大学のアトリエでデッサンや技法材料研究、自主制作をして過ごした。学生生活のほぼすべてを捧げた。一流芸大生とはスタートラインが既に違うのだ。
ゼロからではない、マイナスからのスタート、同じことを同じ時間やっていては勝てない。ぼくがストイックでんでん(云々)とかいう問題ではない。それが必要条件だったから、やる以外に道がなかったから、ただそれだけなのだ。
というか他に何をしたらいいのか分からなかっただけというのもあった。

そうしている間に私も卒業の時期を迎えた。四年間でできることはほぼ全てやった。芸大の大学院を受験し、またしてもめでたく()落ちた。結局僻地にある出願すればまず受かる三流教育大学の教育学研究の美術コースに進学する運びとなった。
結論を言うとここでの二年間で得たものは何もない。なので特に書くこともない。
卒展にはまあまあ人は訪れたがほとんどは他の学生たちの身内で美術関係の専門家が訪れた形跡はゼロではないにしろほとんどなかった。大学院の修了制作展にはほとんど人は来なかった。平日に至っては来場者数人。
例の京都の芸大であれば大学関係者以外に美術ギャラリーの関係者、美術評論家、その他美術好きが勝手に集まってくるのだ。周知活動をしてもまるで人が集まらなかったぼくらの大学のようなところもあれば、客が自ら展示の日程を調べてやってくる芸大もある。覆すことのできない現実がそこにはあるのだ。
僕は負けたんだ。


京都に足を運ぶ理由

斯く言う私も大学在学中から現在に至るまで京都の芸大の作品展に何回も足を運んでいる。
予備校時代の仲間の多くがこの芸大に在籍しており、中でも受験生の当時から才覚を見せていた人たちの多くは日本画を専攻していた。

一年生の課題であるニワトリの着彩画をわざわざ京都まで見に行く一番大きな理由はこれだ。

袂は分かったがかつては同じ釜の飯を食った仲間と、その仲間たちの今の仲間達、そしてその後進たちのレベルの高い作品を生で目に焼き付けることで良い刺激を受け、これからの自分の創作の糧にするためにはるばる京都まで足を運んでいる・・・・・・・・・・・・・・訳では断じてない。

そんな健全な動機ではない。

そんな健全な感情はあいにく持ち合わせていないのだ。

動機は単純である。シンプルに嫉妬だ。

嫉妬の炎を燃やすことで辛うじて明日への活力を生み出す。そんなちっぽけな理由なのだ。

念のために言っておくが彼らの能力への嫉妬ではない。
はっきり言ってぼくなんかは「頑張ってない方」の部類だ。能力に嫉妬していいのは同じところまで自分を追い詰めることができた人間だけである。ぼくは圧倒的に詰めが甘い。
西日本で一番(当社比)の芸術大学といわれているだけあってそれ相応の人間が当然集まってくる。そこには仲間がいる。ライバルがいる。そして人によっては生涯の伴侶となる人とも出会う。実際かなりの数のかつての仲間たちが既に結婚しているようだ。
恵まれた環境で公私ともに充実している彼ら彼女らが私にはまぶしすぎた。一目でカップルだとわかる程度に類似したファッションの男女が芸大の仲間たちと展示会場の片隅で談笑している、その姿があまりにもまぶしすぎた。漠然と自分が想像した未来の自分の姿がそこにはあった。

しかし現実は希望していない大学の、文字通りプレハブの建物という環境で、技術力、モチベーションとも決して高くはない学生達の中に身を置き、切磋琢磨できるライバルに出会えたわけでもなく、その大学に進学しなければ経験することの出来なかったカリキュラムや企画や体験といったものは何一つなく、自分以外の学生のいない作業部屋でデッサンなどの基礎訓練を繰り返したり自主制作をして過ごした。

才能というものがこの世にあるのかどうか、それはわからない。ただ一つ確実に言えるのは環境の差というものは存在する。そしてそれはおそらく才能以上に、直接的に今後の人生を左右する。

才能も環境も手に入れているように見える彼ら彼女らと、「どちら」も手に入らなかった私と、どこでどう転んだのかを受け止め認識するための時間が必要だった。

それもこれもあの時私に自分の人生を切り開く実力がなかったからに他ならない。

もしあの時合格していれば自分も彼らと同じようになれたのではないか、
それはただの「たられば」だ。

私が一流の環境に身を置いたからと言って充実した学生生活を送れたという保証などどこにもない。友やライバルに出会えたとは限らないし恋が出来たとも限らない、そもそもそういったコミュニケーション能力が自分にあったかどうか自体が疑わしい。
その芸大で新しい人生を築くことが果たしてできたかどうか結局全ては机上の空論「たられば」の世界の話であることは間違いない。
ヴィトゲンシュタイン先生の言葉を借りれば「論理空間」というやつだ。「可能性のあった世界」としては存在していてもそれはただの可能性だ、現実ではない。確かに存在するのは現実を受け入れることのできないただの落ちこぼれの学生だったぼくである。

それはただの「たられば」だ。

しかし切実な「たられば」だ。

学生当時、出来得ることは恐らく全てやった。全てやったという自負がある。だからこそ悔しいのである。

ベストを尽くせば悔いなど残らない、なんて言うのはベストを尽くしきれなかった人間のとんだ押し付けだ、妄言だ。「自分はベストを尽くせなかったがベストを尽くした人は悔いなど残らない、そうであってくれ」という理想の押し付けだ。
私から言わせてもらえば都市伝説である。ツチノコの仲間だ。

実際ぼくに「どんな大学に行くかなんか重要じゃない」と声をかけてくれた人たちは例外なく芸大出身だった。確かにどんな大学に行こうが最後は自分で道を切り開かなければならないのはその通りだろう。
だが彼らは「三流」の環境を知らない。「三流」の現実を知らない。学歴ではじかれ作品すら見てもらえないという経験をしたこともないだろう。自分の道は自分で切り開いたと思っているかもしれないしそれは部分的には正しいがそれすらも「一流」だから用意できた環境だったことも知らない。「三流」ではアプローチすることすらかなわない情報があることも知らない。

ベストを尽くしたからこそ、やれることをやってきたからこそ「たられば」の有り得た別の世界を渇望せずにはいられない。

ただのwanna be(ワナビー)の極みだ。
そんなちっぽけな嫉妬の炎を燃やすことで明日の原動力とする、そんな人間が確かに今もここにいるのだ。そしてこの炎はさほど長持ちしない。定期的に燃料を注いでやらなければ生きてはいけない。

さむいぼく


京都のニワトリたちとぼく

2018年の2月、今年も例の如く「そんな人間」であるぼくは京都の芸大の作品展に足を運んだ。
例年ならこの大学の作品展は東山の平安神宮前にある「京都市美術館」で開かれるのだが今年は少し事情が違い、京都は沓掛(くつかけ)の大学の構内で開催された。京都に土地勘の無い方に説明すると沓掛はあまり公共交通機関のアクセスが良いところではない(JR、私鉄、地下鉄、バスなどを複数乗り継ぐ必要がある)。
そして2月の京都は寒い。そのような悪条件でも作品展が開かれている大学構内は多くの観覧客で賑わっていた。ぼくが京都を訪れたこの日も寒波直撃で朝から烈風と雪の舞う生憎の天気だったにも拘らず、である。この時点で小物の私の嫉妬の炎が燃え上がるには十分だったが論点はそこではない。日本画一年生のニワトリの着彩課題を見るのだ、見なければならないのだ。
他の学生の作品を一通り鑑賞した後廊下を進んでいくと日本画一年の展示部屋にたどり着いた。先に日本画専攻の院生や上級生の作品を観ているので当然技術力ではやや劣る印象を受けるのだがそれは大して問題ではない。

今、目の前に並んでいる作品の作者達は、みな同じ今年の四月に大学に入学してきた学生達だ。ほとんどが芸術予備校で指導を受けてきた者達だと思うが、合格者がみな同じスタートラインからスタートするとは限らない。現役生と浪人生では当然積み重ねてきた時間が違うし、余裕のよっちゃんよしおさんで大学に合格した者もいれば最低ラインギリギリで合格した者、はたまたどちらかと言えば運で合格した者までそれぞれの異なるスタートラインが存在する。それぞれの異なる境遇でスタートしこの一年間どの様に過ごしてきたのか、合格してから一層研鑽を積んだ者もいれば受験時のモチベーションがピークでその後手を緩めてしまった者もいる。今僕の目の前にある「ニワトリ」には学生それぞれの才能と過ごしてきた時間の差がそのままの形で表れる、そしてその差は恐らく卒業するまで変わらない。日々の過ごし方が言い訳の出来ない目に見える形となって現れる「潔さ」と「無情さ」があるのだ。
そこがいい。
今年のニワトリ達も例に漏れず、すでに明らかな差がそこには現れていた。

あくまで課題をこなすために描かれたニワトリと、既に課題の域を超え作品として羽ばたき始めているニワトリ。

その差がもともと入学以前からあったものなのか、入学後についたものなのか、それは分からない。しかし事実として一年次修了の時点でそのような差が生じてしまっているのだ。恐らくこれからこの世代を作家として引っ張っていくであろう学生、作家として買い手のつくであろう学生、だいたい現時点での目星がつく程度には差が生じてしまっているのである。順当に成長していくか、或いは番狂わせが起こるのか、それは誰にも分からない。先にも述べたように途中で手を緩めてしまいそこで成長をとめてしまうこともあるだろう。
京都で「ニワトリ」として羽ばたくことすらできなかった私がそんな京都の「ニワトリ」達に勝手に思いを馳せながら冬の京を後にする。


春に入学した学生達もすでに一年の半期が終わり後期が始まっていることだろう。残りの半期で「ひな鳥」たちがどのような「ニワトリ」になるのか、楽しみと言っていいのかわからないがそれまで私も嫉妬の炎をなんとか絶やさずに冬を待とう。

べすとをつくしたからこそ


この記事が参加している募集

自己紹介

生きることで精いっぱいです。