あいちトリエンナーレから見るジェンダー論のやや脇道に逸れた話(拙文)

先日こんなツイートが投稿された。↓

https://twitter.com/happyfoods4/status/1111664978191253504

内容は全面的に同意で、こういう実力不相応なかわいい女の子を明らかにねらって取扱い作家にしている美術ギャラリーや評論家を数多とみてきた。

ここで一つ気になるのは「男性社会としての美術業界」「エロ親父たちがかわいい女の子たちを優遇してきた」と言う問題点を指摘する声はいくらか聞こえてくるのだが「かわいい女の子優遇」で得をしてきた女性作家に対する批判はあまり出て来ていないことだ。ここが理解できない。

公私混同したエロ親父たちがボロカスに言われるのは全く問題ない。どんどんやってくれ。

先のパクリ問題で炎上中の某銭湯絵師見習いよろしく「かわいい」ことが作品の質より価値を持ち得をしてしまっている現状にはエロ親父批判だけでなく女性作家自身が明確に「NO」という意思表示をしなくては何も変わらない。事実としてその容姿の良さを自覚的に利用してきた女性作家などいくらでもいるわけで、それをエロ親父による女性蔑視的な搾取という見方だけで論じるのは無理がある。

この「かわいい女の子」優遇問題がさらに厄介なのは美術業界に従来から存在する「行動力神話」と簡単に結びついてしまうことだと個人的には考えている。「行動力神話」とは私の勝手に作った造語なので「ふーん」くらいにとらえてほしいのだが、その意味は「作品制作だけではなく自己プロデュース力などのバイタリティや行動力を作品の質と同等、あるいはそれ以上に作家の評価の対象にしてしまう」ことで、とにかく自分から動くこと、チャレンジすることは「無批判」的に良い事にされてしまう実情がある。私はこの「行動力神話」自体にかなりの問題があると思っているのだがやや話がそれそうなので詳細は割愛する。

この「行動力神話」と「かわいい女の子」優遇がむすびつくとはどういうことかというと(かなり私見込みだが)理由は単純でメディアへの露出と直結するからだ。先述した銭湯絵師も絵師見習いだけでなくモデルとしての顔も持っているのだが、かわいい女の子として優遇されてメディアに露出していくこと自体がひとつの「行動力」だと認識されそれが自己プロデュースと直結し作家としての評価に反映され、さらにそれが「かわいい女の子」優遇を強化し、と言った具合のスパイラルに入り込む。美術業界の「エロ親父男性社会」問題とは別の問題としての側面も認識されなければ美術業界におけるジェンダーの問題は解決しないだろう。

なおこの記事は「かわいいことで得をしてきた女性作家」をやり玉に挙げることで女性同士の分断を図り論点を逸らすことが目的で書いたものでは断じて無いということは述べておく。

生きることで精いっぱいです。